先週日曜日、午後には台風も落ち着いたため、小雨のなか日野へ行ってきました。
というのも、このところ幕末小説を読み返していて、はたと気付いたのですよ。
わたしってば、京都は何度も行ってるし、函館だって鹿児島だって高知だって会津だって行ったのに、なぜか新選組の故郷である日野には行ったことがない!こんなに近くに住んでいるのに。
考えてみたら日野って昔の職場のすぐ近くだわ。定期を持ってるときに行っときゃよかった。
早速ネットで調べたところ土方歳三資料館の開館日は第1・3日曜のみだったため、幸い雨も小降りになったことだし出かけることにしました。
晴れていたら日野をゆっくり歩きたかったのですが、まだ小雨が降っていたので今回はここだけ。
場所わかるかな~?と少し不安でしたが、万願寺駅を出てすぐに案内板があり、問題なく着くことができました。
いつもこうなのか台風のせいなのか、とても空いていてゆっくり観られてよかったです(混んでいる博物館ほど嫌いなものはないのである)。数人いた客は男性が殆どで、すこし意外でした。
ここは歳三の生家で、29歳で上京するまでの17年間をここで過ごしました。現在は当時の建物はありませんが、生家にあった大黒柱と長者柱が資料館正面の梁や柱として残されています。
ドラマ『新選組血風録』の最終回で、明治になり斉藤一が土方の生家を訪ね「ここで土方さんは生まれて育ったんですねえ・・・」と言うシーンがあるのですが、そのシーンが大好きなので、今回こうして訪れることができたのは嬉しかったです(^^)
またこの資料館は歳三の子孫の方々が運営されているため、そういった方々にお会いできるのも嬉しいですよね。説明をされるときに「歳三さん」とおっしゃっていたのが印象的でした。
小さな展示室には歳三関係の遺品が所狭しと展示されていて、想像以上に見応えがありました。
見所は、和泉守兼定、豊玉発句集、池田屋事件で使用された鎖帷子、歳三が稽古に使っていた天然理心流の木刀(極太・・)、「東照大権現」の旗、歳三や清河八郎の書簡など色々あるのですが、私のお目当ては、新撰組隊士安富才介が歳三戦死の様子を生家に知らせるため認めた書簡。
これは歳三戦死の直後に五稜郭内にて書かれたものですが、その字の乱れ具合から瓦解直前の城内の切迫した様子がありありと伝わってきて、実物を前にすると胸に迫るものがありました。
安富から手紙を託され五稜郭を脱出した立川主税は途中新政府軍に捕らえられたため、結局この手紙が日野へ届けられたのは明治5年のことでした。
他に興味深かったのが、歳三の甥?が歳三の最期の様子を知ろうと榎本武揚を訪ねた際に、榎本が歳三の人柄を詠んで書いた『入室清風』という書。「部屋に入ってくると清らかな風が吹くようであった」という意味だそうです。すでに新しい時代を生き新政府の高官となっている榎本が、どういう想いで五稜郭の頃を振り返ったのだろうかと想像すると、切ない・・・。
次回はぜひともお天気のいい日に行って、高幡不動から日野駅までのんびり歩きたいなぁ。
※以下、安富の書簡全文
(書かれた日付は私には12日と読めたのですが、16日としてる資料もあります)。
一筆啓上つかまつり候。雨天の節に御座候得ども、揃われてご安泰、賀し奉り候。しからば土方隊長御義、江戸脱走のとき伝習第一大隊を率い野州宇都宮に戦われ、その後戦のとき手負い、会津でご養生ご全快、同所東方面を司られ後、同所瓦解のとき入城なりかね仙台に落ち、同所大君お逢いこれあり、説刀を贈られ、奥州福島へご出張のはず、また同所国論生通にて止む。
辰十月、榎本和泉殿と誓い蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判を司られ後、巳の四月、瓦解のとき二股という所に出張、大勝利。
そのほか数度戦い、松前表街ついに利なくしてついに引き揚げ、同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。
拙者義いまだ無事、何の面目やあるべく候。今日至り候よう篭城に軍議相定まり、いずれも討死の覚悟に御座候。
ついては立川主税義、終始付き添いおり候間、城内を密かに出してその御宅へ右の条々委細お物語いたし候よういたしたき存念に御座候。いずれ其御宅へまかり出で候間、さようご承知くださるべく候。右は城中切迫に取り紛れ、乱筆ご容赦くださるべく候。まずはお知らせのみ、別に貴意を得、かくのごとくに御座候。恐惶謹言。
五月十ニ日
安富才助 正義(花押)
土方隼人様
なお以って、折角ご自愛お厭い、かつお目に係り申さず候得ども、ご惣客様方へよろしく御伝言下さるべく候。
隊長討死せられければ
早き瀬に 力足らぬか 下り鮎
封 五月十ニ日認
日野宿脇にて 土方隼人 様 貴下
箱館五稜郭内 安富才介
※写真
資料館前の道。
資料館正面。ご自宅の一部が資料館となっています。
表札はもちろん「土方」。なんだか不思議な感じです。
歳三が武士になることを夢見て植えたといわれる矢竹。右の建物が資料館。梁は生家の大黒柱だったもので、これに手をついて歳三は相撲の稽古をしていたそうです。
資料館の隣。幕末の石田村名主の屋敷。