風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

筑紫哲也さん

2007-05-15 02:36:28 | 日々いろいろ

「私を含む東京に住む者の多くの人達はいずれ東京には地震が来るだろうと思っていますが、それで自分がやられるだろうとは思っていない。いずれ原発の事故が起きるかもしれないと怖れてる人も、我が身にチェルノブイリのようなことが降りかかるとは思わない。まぁ人間というのは自分だけは別だと思いたがる生き物であります。私達の番組は『がんを生きぬく』というシリーズでこれまでと違う角度からがんをとりあげ、掘り下げ沢山の反響をいただきました。それをお伝えする私自身は歳不相応に元気で国の内外を飛び回っていたこともありまして、自分はがんにならない人間だという風に根拠のない自信をもっておりました。・・・」

(5月14日News23多事争論より)

筑紫さん、元気なお帰りをお待ちしています!

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遠藤周作 『沈黙』

2007-05-15 02:35:40 | 



こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片目の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静けさを続ける。この真昼の静けさ。蝿の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが・・・・・・耐えられない。

(遠藤周作『沈黙』p187)

私は無宗教ですしキリスト教に関する知識もありません。
なので、以下は専門的な話をしようというのではなく、私みたいな者がこの本を読んで宗教、キリスト教について感じたことをつらつらと述べているだけであることをご了承くださいませ。

「信じる者は救われる」という言葉がある。
この言葉には色々深い意味があるのだと思いますが、私には詳しい知識はありません。
さて、そんな私と同じく無宗教の友人は、以前キリスト教徒(バプティスト派)の方から「イエスを信じるか?」と聞かれ、「いいえ。人間を超えた存在は信じているが、それがイエスだとは考えていない」と答えたところ、「あなたは地獄に落ちる」と言われたことがある。
けれど、「信じる者は救われる」とは本当にそんな意味なのだろうか?
私は違うのではないかと思うのだ。何百年も続いてきた宗教がそんな狭いものであるとは考えにくいし、あってほしくない、という勝手な希望でもあるのだけれど。

この言葉は、「イエスキリストを信じ、またそれにかなう行動をする人を、(キリスト教の)神は受け入れますよ」という意味ではないのだろうか。
キリスト教の神を信じない者が、その神により救われることがないのは当然だ。

私は、信仰により幸せになれる人は、そうすればよいと思っている。
キリスト教に限らず、宗教とは「人が今を生きるため」に存在するものではないのだろうか。たとえ信仰の目的が来世のためや死後に天国へ行くためであったとしても、そのような信仰をもつことで「今を生き、救われる」ために、宗教はあるのだと私は思うのだ。
言い換えれば、「そのような形の救い」を必要としない人にとっては、それは不要なものであるし、それでいいのだと私は思う。そのことをキリスト教徒がとやかく言うのは、間違っている。

信仰とは信じること。
宗教とは人が救われ、よりよく生きるためにある。
私はそんな風に考える。
だから、宗教を持つがために人が苦しんだり、宗教があるがために人々が対立するという事態は、歪んでいるように思えてならない。

そこで興味深いこの作品、『沈黙』。
物語の始まりでロドリゴはすでにキリスト教徒、それも司祭である。
そして様々な言語に絶する出来事を通して彼がたどり着いた結論は、「神はいない→廃教」ではなく「神はやはりいる→実質上の信教(形式上は廃教)」だった。
彼は最後、神は沈黙していたのではなく常に自分とともに苦しんでいたのだ、という結論に至り、神の存在を「信じる」ことになる。教会から裏切り者とみられようと、幕府から転んだとみなされようと、彼は神により救われた。

そもそも「信仰」がなければ彼がこんなに苦しむことはなかったのではと、無宗教者の私はつい思ってしまうところだが、ロドリゴは私とは違う。「神はいない」という結論は決して彼を救わない。
では、彼が拷問の果てに聞いたキリストの声は、救われたいがために無意識に作り上げた幻聴か。それは、そうだとも違うとも、誰にも言えない。神がいるともいないとも、誰にも言えないのと同じだ。
しかし、信仰とは信じることである。
だから彼が「いる」と思った以上は、「神はいる」のだ。それが「イエスキリスト」であると感じた以上、それはイエスキリストなのだろう。たとえ教会が説くイエスキリストの姿とは違っても。
彼はこれからも苦しみ続けるだろう。けれどイエスもまた、彼の側でともに苦しみ続ける。そして彼は(おそらく作者も)そう信じつづけることで、救われるのだ。

時々ふと、もし宗教がこの世界からなくなった場合、人や世界は一体どうなるのだろう?と思うことがある。より良くなるのか、あるいは逆か。
けれどこんな仮定は無意味なのだろう。人が必要とし続ける限り、宗教は存在する。それだけだ。

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