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風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

漱石の『こころ』

2020-12-27 20:30:08 | 



写真は漱石の家、ではなく松江にある小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の家です
漱石はイギリスから帰国後に東京帝国大学英文科で教鞭をとりましたが、その前任者が八雲でした。口を開いた途端に教室中を詩的空気で満たしたという八雲の講義は学生達に大人気で、当初は漱石の分析的な硬い講義に不満を感じていた学生達も多かったそうです。中勘助が入学した1905年には既に漱石が教鞭をとっていましたが(勘助は漱石の講義は一高から継続)、勘助も八雲が好きだったようで、以前横浜で行われた中勘助展では蔵書として沢山の八雲の本が展示されていました。また漱石自身も、八雲の作品を好んでいたようです(夏目漱石、小泉八雲との思わぬ不思議な縁に驚く。@サライ)。以上は余談。

さて、相変わらず鬱鬱気味のワタクシ。先日ご紹介したポゴさんのインタビューの中に「無人島に一曲だけ持っていくなら?」という質問があったじゃないですか。私なら何を持っていくかなあと夜中に寝ころびながら考えていたら、目が冴えちゃって、再び鬱鬱気味になっちゃって、ふと漱石の『こころ』がひどく読みたくなり、本棚から取り出して読んだんです。真夜中に(笑)。決して一番好きな漱石作品とはいえないのに、このときはなぜか『こころ』一択でした。読んで、不思議なほど気持ちが落ち着きました。やっぱり漱石の本は私の薬なのだなあ。私の人生の中に漱石がいてくれてよかった。
そして前回読んだときに感じられなかったものも沢山感じられました。この本を読むのは数回目ですが、前回読んだのは、ブログを振り返ってみると、11年前。11年の間で、変わっていないようで私も変わっているのだな、と感じました。そして読むたびに新しい発見がある本であることを改めて感じました。

今回読んで強く感じたのは、先生の”罪の意識”と”心の孤独”の深さ。それらはこの本のメインテーマだから当然なのだけど、今回はこれまで読んだときよりも遥かにずんと重く心に響きました。

結局のところKも先生も、自分を殺すことでしか、自分を救う手段を見いだせなかったのだと思う。
Kは失恋をしたから、あるいは先生に裏切られたから自殺したわけではないよね。お嬢さんに恋をして、それまで自分が信じて築き上げてきた信念や生き方が崩壊してしまった。そこで自分を切り替えて新しい生き方を歩むのではなく、その世界とともに自分を消してしまうことしか彼にはできなかった。そういう不器用さ、脆さは『レ・ミゼラブル』のジャベールを思い出させます。
Kが言った「覚悟」という言葉の真の意味、また夜中に先生の部屋との間の襖を開けて寝ている先生に声をかけ「最近寝つきはどうなのか」と気にしていたのは、この時点で既に彼が自殺を考えていたからでしょう。それは先生とお嬢さんの結婚が発覚するよりも前のこと。発覚後も、Kはおそらく先生のことを恨んではいなかったと思う。

そして先生も。
Kの自殺が単純な失恋によるものだったなら、先生の罪の意識はまだ軽かったろうと思う。
でも先生は、彼を出し抜くために彼の根本部分を突く攻撃をし、彼が生きてきた人生そのものを崩れさせる方法をとった。自分を頼って相談をしてきたKに対して、「向上心のないものは馬鹿だ」という言葉をぶつけることで。それがKに対しては最も効果的であることを知っていたから。誰よりKという人間を理解していた先生だから成し得た方法。このときに先生がKを受け止めてあげていたら、おそらくKは死ななかったのではないか。
先生はKが自殺するとは夢にも思っていなかったのだけれども、自分が勝つためにそういう卑劣な方法をとり、結果としてKは死んでしまった。そのことに先生の心は耐えきれなかった。
その罪の意識は例え奥さん(お嬢さん)に全てを話すことができて、奥さんが許してくれたとしても(許してくれることは先生にもわかっていた)、おそらく変わることはない。
だからといって「何も知らないままの妻でいてほしい」という先生の想いは、奥さんへの甘えと身勝手さでしかないよね。

 私は一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです。・・・その時分の私は妻に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気(インキ)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
(「下 先生と遺書」五十二)

と先生は一人で決めてしまっているけれど、奥さんは絶対に全てを話してほしかったはずだし、話してもらえない方が奥さんにとって遥かに辛いことであったことは先生にもわかっていたはずだもの。
ただ先生が自殺した後でも奥さんに真実を知らせた方がいいのか?となると、どっちなのでしょうね。真実を知って「生きているときに話してくれていれば私にもやってあげられることがあったのに」という苦しみと、真実を知らされないまま「あの人は何を悩んでいたのだろう、どうして死んだのだろう」と夫を最後まで理解できないままであることの苦しみと、どちらがましなのだろう。私なら、やっぱり真実を知りたいかな…。
思うのだけど、先生はKが死んでしまった時点で、結婚をやっぱり止めにすればよかったのだと思うのよね。そうすれば不幸な人が一人減ったのに。まあ恋をしていたし、結婚して奥さんを幸せにすることで少しでも贖罪に繋がると当初は思っていたのかもしれないけれど。

 叔父に欺かれた当時の私は、他(ひと)の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他(ひと)を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事(みごと)に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他(ひと)に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
(「下 先生と遺書」五十二)


こうして自分自身を信じられなくなり、自分を軽蔑するようになった先生は、世間とも奥さんとも距離をおくようになっていく。
そして世界の誰とも理解し合えず、世の中にたった一人住んでいるような寂しさを覚えたとき、再びKの自殺の原因に思いを巡らし、「Kも同じだったのではないか」と思うようになる。
つまり失恋したからではなく、信じてきた道が崩れたからだけでもなく、自分と同じように淋しくて仕方がなかったのではないか、と。他者と分かち合えずたった一人で抱えるしかない心の、凄絶な孤独。

 ・・・酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極(き)めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易すくは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。
(「下 先生と遺書」五十三)

 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
(「下 先生と遺書」五十四)

ところで先日、こんなページを見つけたんです。
吉本隆明氏の1960年代~2000年代の183の講演録(ほぼ日新聞)
漱石に関する講演もいくつかあって、私と捉え方が違うところもあるけれど、とても面白い。
この中で吉本氏は「漱石が作品で繰り返し描いている三角関係を漱石の実体験とする研究者も多いが、自分は漱石の人間的資質によるものだと思う。」と言っています。「『こころ』は西欧の姦通小説とは全く異なる展開を迎えるが、それは漱石が無意識に書いている先生とKの同性愛的関係が理由ではないか。」と(ここでは肉欲的関係ではなく、精神的関係)。
これは私も同感で、そういう風に見ると、先生の心の動きや行動が全て自然に理解できるのです。つまり先生は親友を裏切った自責の念だけで自殺したのではなく、劣等感を抱くほどの畏怖と憧れの対象であったKをああいう形で失い、その心の空白と寂寥を生涯埋めることができなかったのではないか、と。
ただ、作品として読む上では、それが同性愛か否かを突き詰めて答えを出さなくてもいいように思います。なぜなら作者の漱石自身がそれを意識的に書いているわけではないのだし、私達も自分の感情の全てに名前をつけて理解しているわけではないのだから。
ちなみに漱石をお好きな政治学者の姜尚中さんは、先生とKの関係を「一人の人間の分身」と捉えていらっしゃいます。私は未読ですがエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルスン』というドッペルゲンガーを扱った怪奇譚があるそうで、もしかしたら漱石はそれを読んでいて『こころ』はその影響を受けているのではないか、とのこと。漱石はポーの短編集の和訳に序文を書いてもいるそうです。

話を戻して、最後に、語り部である”私”について。
もしかしたら先生は”私”と出会わなかったら自殺していなかったのではないか、と思うときがあります。死んだように生き続けていったのではないか、と。でもそれが先生にとって幸せだったかというと、別の話。
”私”との出会いは先生にとって幸福なものだったろうと思う。先生はKの中にあったのと同じような誠実さ、真面目さ、善良さを”私”の中にも感じたのではないか。そしてなにより”私”は、これからの未来を生きていく若者だった。

「・・・先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風に、私の顔を見た。巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐(あば)いてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
(「上 先生と私」三十一)

 ・・・私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。(中略)その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極(きょく)あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
(「下 先生と遺書」二)


 波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻が見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟(ひっきょう)私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼を瞠るかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
 私は今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を惹かされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻(く)べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
 同時に私だけがいなくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐を、私は腸(はらわた)に沁み込むように記憶させられていたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顔を見て、止してよかったと思う事もありました。そうしてまた凝と竦んでしまいます。そうして妻から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。
 記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました。
(「下 先生と遺書」五十五)

 私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
(「下 先生と遺書」五十六)

信頼を置ける真面目な”私”という人間に出会え、自分の人生の経験を埋もれさせず”私”に話して未来への種とすることができたことで、先生のこころは少し救われ、安心して死んでいくこと(ずっと実行したいと思っていたこと)を心置きなくできるようになったのではないか。明治天皇の崩御と乃木大将の殉死(=明治という時代の終焉)を時機として。

それにしても”私”の立場になって考えると、ものすごく重いものを渡されたよね(しかも奥さんには真実を言うなと釘を刺されているし)。先生があれほど自分の過去を”私”に語ることに慎重になったのは、そういう理由もあったのかもしれませんね。それでも聞きたい、人生の教訓を得たいと”私”が言い、彼になら話せる、話したいと感じたから、先生は話したのでしょう。
いずれにしても遺された者が抱えていかねばならないものの重さは、逝った者が抱えていたものと同じくらい、あるいはそれ以上に大きいのではないだろうか。それはかつての先生も、これからの”私”も、そして奥さんも同じ。

漱石は世の中から、そして自分の内面から決して目を逸らさない。綺麗な面も汚い面もじっと見つめ続け、逃げずに立ち向かう。たとえ自分が傷つくことになっても。私が読んだことのあるあらゆる作家の中で最も真面目な人は、漱石なのではないかと思う。真面目で、誠実で、不器用。
漱石が『行人』の後に書いた作品が『こころ』です。以前もここで書いたことがあるけれど、当時の漱石が血を吐くような想いで(身体的にもそうだったのだけれども)見つめようとしている微かな希望の光に、私は心を揺さぶられずにいられない。

それぞれがそれぞれの心に抱える、他者と分かち合うことができないどうしようもない孤独。それは漱石自身の性格によるところももちろんあったろうけれども、漱石は現代の病でもあると言っています。社会の関係が希薄になり、<自由と独立と己とに充ちた現代>に生きる私達がその犠牲として背負わねばならないものなのだと。
そして旧時代から新時代への過渡期に生きてその変化を目の当たりにしてきたのが、明治を生きた人々だった。Kも先生も乃木大将も漱石も皆、明治の人だ。でも先生は自死を選びはしたけれど、先生も漱石も、古い時代に親しみを感じながらそれを全肯定することはせず、新しい時代に批判的な感情を抱きながらそれを全否定することもしない。なぜなら、それでも新しい時代はやってくるから。もう始まっているから。私達はその時代を生きていく以外にないから。前へと進むしかないことがわかっているから、苦しみの中で、漱石の目はしっかりと未来に向けられている。その姿は漱石が明治44年に行った『現代日本の開化』の講演を思い出させます。
漱石の作品の中でも『こころ』が一番好きだという姜尚中さんは、NHKの100分de名著に寄せて、こんな風に書かれています。姜さんの解釈は、私ととても近いものです。

鷗外は明治の終焉の号砲を聞くや過去に目を向け、「歴史小説」を書きはじめました。そこに「失われてしまった美しいもの」を見たからです。しかし、漱石は歯を食いしばって前に向かいました。「あまりいいこともありそうにない憂鬱な未来」から目をそむけなかったのです。その意味では、ややパターン的な分類ですが、明治の終わりとともに鷗外は「様式」に向かい、漱石は「心」に向かった──といえるのかもしれません。
「未来が閉塞すると、人は過去へ戻りたがる」という言葉があります。しかし、漱石はそれをしませんでした。本人の語彙を使えば、涙をのんで上滑りに滑りながら、ぎりぎりもちこたえたのです。血を吐く思いで、じっさい近代の深淵を書くことの重圧から心身を病んで血を吐きながら、前のめりに滑っていったのです。その態度を私は「漱石的真面目」と名づけたいと思います。その真面目さが、私を惹きつけてやまないのです。
見渡せば、いま個人と個人の距離はますます隔たって、隙間風が吹き荒れているようです。一つ一つの心は宇宙の塵のようにみじんにバラけて、無音の真空空間をさまよっているようです。「心の時代」と言われて久しいですが、おそらくいまほど心の問題を考えねばならない時代はないでしょう。「未来を予見する人」漱石は、こんな今日のわれわれの「心」のありさまも、見通していたのかもしれません。
姜 尚中 名著、げすとこらむ。

最後に、今回読み返して、漱石らしいとニヤニヤしてしまった場面がこちら
大学(おそらく東京帝国大学)を無事卒業した”私”は、卒業式の晩に先生の家の晩餐に招かれます。その席での会話。こういうところも、私が漱石を大好きな理由の一つです。

 私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
(中略)
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。奥さんは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にして席を占めた。

「お目出とう」といって、先生が私のために杯を上げてくれた。私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆(そそ)る浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
(「上 先生と私」三十二)

今年のブログの更新はこれで最後です。
皆さま、今年も当ブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。
健康にお気をつけて、よいお年をお迎えください


河合隼雄 『泣き虫ハァちゃん』(2007年)

2020-10-15 19:57:44 | 




私が本当に疲れて 
生きることに疲れきって

空からも木からも人からも 
眼を逸らすとき

あなたが来てくれる 
いつもと同じ何食わぬ顔で

駄洒落をポケットに隠して・・・

(本書巻末に寄せられた詩、谷川俊太郎「来てくれる~河合隼雄さんに~」より抜粋)


河合さんが亡くなるまで連載されていた、最後の本です。
未完であることがとても残念で「続きが読みたかった!」と強く感じてしまう、でも未完であることも含めて人生の大切なことを教えてくれるような。河合さんという人の瑞々しさと温かさがいっぱいに詰まった、かつては子供で今は大人になった人達みんなの”たからもの”のような本。

以前も書いたように私が河合さんの本を読もうと思ったきっかけは谷川俊太郎さんからで、河合隼雄財団の記事によると、谷川さんは河合さんの「数少ない、親しい友人」だったのだそうです。
谷川さんはともかく(失礼!)、河合さんはお友達が多そうなイメージがあったのでちょっと意外だったのだけれど、でも前にも書きましたが、このお二人はよく似ているように感じます。
性格的な飾らなさもそうだけど、根本のところに感じる静けさというのかな。そういうところがよく似ているように思う。
それはユングの言う自己という部分かもしれないし、魂と言われる部分かもしれません。
そういう二人がこの世界で出会えたというのは素晴らしいことだな、と感じました。

この本には心理学の難しい話や専門用語は一切でてきません。
ご自身の幼少期の体験をもとに書かれた大人の童話のような本で、岡田知子さんによる優しい挿絵もこの本にとてもよく合っています。
でも多くの童話がそうであるように、簡単な言葉の中に、人間や人生の大切なものを見つけられるような、そんな本です。
心理学に興味がない方にも、多くの方におすすめしたい本。

しかしこの本が刊行されたのが2007年で、最近までその存在も知らなくて、私がまだ巡り合えていないこういう素敵な本が、世界にはまだまだいっぱい埋もれているのだろうなあ。自分の人生のうちでそのうちのいくつと私は出会えるのだろう、とそんなことを思ってしまった。これまで読んだ私の好みの本を入力すると超高性能AIが私の好きそうな本を見つけ出してリストアップしてくれたりしないかしら、とか、先日身体を動かすことの重要性に気づいたばかりなのにすぐそんなことを考えてしまう怠惰な私でありました。時々アマゾンが「あなたにオススメ!」とか薦めてくる本は、なんか違うのよね…。やっぱり図書館に足を運ぶしかないか。

河合さんは沢山の本を書かれているようなので、またの機会に他の本も読んでみたいと思います


・・・話は河合隼雄との出会いから始まった。
谷川さん、いちばんはじめがいつだったのか、詳しくは忘れてしまったらしい。
けれど、アメリカで勉強して、スイスで勉強して、エライ資格をもった人がくるんだ、ということで
緊張していたら、「村人」のような人がきた、と思ったそうだ。
これは「とうてい街の人ではない」と。

それにしたって、親しみやすさは谷川さんも同じだ。
谷川俊太郎といえば、知らない人はいないのではないか、
谷川俊太郎の詩に触れたことのない人などいないのではないか
というほどの偉大な詩人であるのにもかかわらず、
きっとこの人は誰に対してもフラットなんだろうと思わせる。
谷川さんは河合隼雄を「無私」と評したが、それは、谷川さんだってきっと同じなのだ。

インタビューの中で、谷川さんと河合隼雄が、どこがどうとは言えないけれど、
同じ部分が大きいと、何度もそんな話になった。

(中略)

谷川さんが詩について語ったことばが印象的だった。
詩は、道ばたに生えている雑草のようであればいい
花が咲いたらきれいだと思うでしょう、
そこに美しいことばが存在しているな、
詩は、そういうものであればよいのだ、と。

谷川さんは「詩」、河合隼雄は「物語」の人だ。
しかし、ことばの、にんげんの、こころの美しさを
ただそっと見つめ、その美しさを愛でることに誰よりも長けている二人なのだ、とそう思わされた。

(河合隼雄財団『詩の朗読とインタビュー「谷川俊太郎さんに聞くー河合隼雄との思い出」』より。2015年)



最後のページのこの絵に、ご家族や河合さんと交友のあった方達の全ての想いが込められているように感じられました。


河合隼雄×谷川俊太郎 『魂にメスはいらない ―ユング心理学講義―』(1979年3月刊行)

2020-10-14 22:18:00 | 




河合:ぼくの理解している範囲で言うと、結局、治療の基本の筋になるのは、自分自身で困っているような行動をとる原因が自分の内面のどういうところにあるかを自分で了解することだというふうに感じるんです。……ところが、なかなかそう事は簡単ではないんですね。
外傷体験を思いだして「それだ」と言っても、治らぬ人がいるわけです。そうすると、これはもっと考えにゃならん。そこで精神分析ということが出てきて、その人の無意識的な内容をいろんな形で取りだしてきて、それを何とか理論づけていったわけですね。その理論づけの仕方をフロイトはフロイト流に、ユングはユング流に、アドラーはアドラー流にやった。……ここからはユングというよりぼくの考え方になりますけど、ぼくはこう思うんです。
たとえばいま正常に生きている人は、そんな自分のことを深く意識してないわけでしょう。……内面に生じる変化を意識しはじめた人のほうがつまづくわけでしょう。
そういう意識した人としない人について、価値的な判断は一切できませんね。問題を起こした方が病的である、病的であるからおかしいという価値判断を下すのは、絶対ぼくは反対なんです。
…ぼくの考えでもっと根本的に言えば、治るのはその人が治るわけでしょう。つまりその人が自分の人生を歩むわけだから、要するにぼくは何もできないわけですよ。ただし非常に不思議なことに、ぼくという人間が横にいるということはすごいことなんです。治るということは誰しも苦しい歩みを続けるのだから、そこに付き添う人があることは測り知れない大きい意味を持つのです。

・・・・・

河合:われわれの仕事というのは結局、患者に対して何もしないということなんです。相談されても「はあ」とか「ふーん」とか言うだけで、その人が自己治癒していくさまを感激して見ているんだから。このごろは何かしてくれる人が多くなりすぎたもので、何もしない人のところに、金を払って時間を決めてわざわざ行くようになったわけです。

谷川:……ぼくは河合さんと患者さんが話すということは、広い意味での人生相談だと理解しているんです。それが新聞の人生相談なんかと決定的に違うのは、活字なんかをとおしてじゃなくて一対一で肉声をとおして何度も話し合うということと、簡単にこうしろとかああしろとか絶対に言わないということの二点だろうと思うんです。

河合:ああしろこうしろなんて言えないんです。それはわれわれには自明のことですから、何も言わないということに対してすごく安定感を持っているんです。普通の人は不安で、つい何か言いたくなってくるんですが、ぼくらは本当に平気で「ああ、そうですか」「はあ」とだけ言って、最後に「また来週」となるわけです(笑)。これができるようになるにはやっぱり相当鍛えられないとね。

・・・・・

河合:ユングが一番大事にした元型というのは、先ほどから言っている「自己」ですね。元型にはシャドーとかいろいろあるけれども、そういうものを全部統合して、意識も無意識も含めた全体の中心にあるものを”真の自己”と呼んでいいんじゃないかと言うわけです。おもしろいのは、ユングのそういう考えの根本には、東洋的な思想があったんです。
ユングは、経験的に”真の自己”の存在を感じていて、そのことをずいぶん考えていたんだけれども、西洋にはそういう思想の伝統がありませんから、ずっと黙っていたんです。ところが中国の本なんかを読んでみた結果、こういう考え方は世界的なものだと確信を持つようになって、自己ということを言いだす。

谷川:ユングが言う自己というのは、一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたものでもあるわけですか。

河合:そうです。そこに非常なパラドックスがあるんです。ユングの言う自己というのはあいまいでわからないから、もっと具体的に説明してくれと生徒に質問されて、ユングは「皆さんは私の自己です」と言ったそうです。つまり、自分が自分の真の自己につながろうとするということは、皆さんとつながらないとできないことであると。

谷川:禅問答すれすれのところまでいくわけですね。

河合:そうですね。だからそういう点が、ユングに対する好ききらいの分かれるところでしょうね。その点フロイトの方が論理的にわかりやすいです。考えてみたら、あれほどむずかしい無意識の世界の解釈を、きちんと概念で構築してわれわれに見せてくれるというのはすごいものですね。ところがユングのほうは、無意識の世界というのはもともと矛盾していると思っているわけだから、平気で矛盾したことを言って暗喩の世界の中を堂々めぐりしながら、何かをつかむという方法をとる。たとえば彼は、自己なら自己そのものというのは理解することはできない、ただその周りを回るだけだというような言い方をするんです。

・・・・・

河合:感情の中にはいま言われたように相反したものがある。それが全体として統合されていくことをエモーショナル・インテグレーションと言うんですが、これができている人は非常に強いし安定感があるんです。
ところが、エモーショナル・インテグレーションが行われようとする過程で、失敗することが多い。なぜかというと、みんなネガティブな感情を抑えようとしすぎるんです。……そういう感情が抑圧されてたまってくるんです。その抑圧されたものが洗練されない形でダーッと出てくると、非常な破壊力を持つわけです。
ぼくはそういうネガティブな感情も、あるものはあるものとして率直に受け入れる方が、全体としてのインテグレーションが上手くいくんじゃないかと思っているんです。だからネガティブなものもポジティブなものも同時に働かせながら、どう全体として統合するかが問題なんじゃないでしょうか。

・・・・・

谷川:ぼくは詩を書きはじめた頃に、詩を書く一番もとになる心的なエネルギーは何か、と漠然と考えたことがあるんです。そのころ思ったのは、それはいわゆる感情というものではないんじゃないかということなんです。いわゆる感情というのは、ある意味では非常に卑俗なものですよね。……それよりもっと奥のほうの、ぼくはそのころ仮に「感動」と呼んだんだけど、感動みたいなものによってであると。
つまり感動というのは、表面的な感情とか心理的なものは当然含んでもいるんだけれども、もっと深いものであるというふうに考えていたんです。その、ぼくが仮に「感動」と呼んでいたものは、感情よりもっと深い意識下のものまで含みこんだ、容易に言語化できないものであるというふうに考えてもいいんでしょうか。

河合:そうです。そういう深いものを表現できれば、その表現は意識下にあるものをくみあげ得ている。しかし表層的な、スッと消え去るようなものだけ表わしてもあまり意味を持たない。

・・・・・

河合:……箱庭の話のときに、あまり破壊がひどいと止めるときがあると言いましたが、それは止めないと危ないからなんです。それは、やはり一種の愛情と思います。ただおっしゃるとおり、愛情の定義は非常にむずかしい。それともう一つ、「愛」という言葉を使うとすべてが終わってしまうんですね。ぼくは「出会い」とか「愛」とか「やさしさ」とか「実存」とか、そういう言葉をファイナル・ワードだと言っているんですが、ファイナル・ワードはなるべく使わないでおきたい。そういう言葉を使うと、心理学者としては負けじゃないかという気さえするんです。

谷川:そういうところも文学と似たところがありますね。…特に、文学などには関係のない若い女性なんかが「やっぱりやさしさが一番大事だと思います」とか……。しかし、そんな言葉を使ったら何も言えないんじゃないかと思うんです。

・・・・・

谷川:日本人には、こしらえものはだめだという傾向があるんですね。構造のあるものを書こうとするとこしらえものになるという必然性があるのならば、逆にこしらえものだということにきちんと腰を据えなければ結局アブハチ取らずになるんじゃないかという気がしますね。

河合:こしらえものというのはおもしろいんですよ。自然科学というのは、いわばこしらえものの学問でしょう。新幹線なんてこしらえものの第一級品でしょうね。だから、こしらえものはだめだと思うところからそもそも問題にすべきじゃないか。
ただ、偽物のこしらえものと本物のこしらえものというのは、どこで区別するんでしょうね。

谷川:本物のこしらえものというのは、どんな人間の現実感覚にも合致するものであるということが、まず言えるだろうと思うんです。つまり、こしらえものだから現実感覚を基礎にしないのかというと、それはむしろ逆で、普通の人間感覚が基礎になるから、こしらえものができてくるんだろうと思うんです。
だから、その作品をとおして作者のつかんできた現実が読者にも見えてくるようなこしらえものでなければ、本当のこしらえものとは言えない。その現実感覚も時代とともに変容しているでしょう。つまり、たとえば肉食をしなかった江戸時代と現代とでは、現実感覚の違いというのはあるはずですよね。だからその変容の度合いに従って構造的なものも成立するとぼくは思っているところがあるんです。
宮沢賢治の童話なんていうのは、そこのところが実にみごとだという気がするんです。
あれは本当のこしらえものなんだけど、現実そのものと言ってもいいぐらい現実に密着しているところがあるんです。下手な私小説よりはるかに当時の東北の現実をつかんでいますね。同時に、あれは日本の童話にしては珍しくストラクチュアのある童話ですが、ストラクチュアを持たせるために賢治は「イーハトーヴ」とか「ジョバンニ」というふうな、西洋だか何だかわからないような名前を使わなければならなかった。こういう工夫が必要なのは、現代でもおそらく同じなんだろうなと思うんです。
ただねえ、ああいうことができるのは賢治のような天才だけだという居直りもこちらにはあるんですけどね(笑)。

・・・・・

河合:ユングの自伝に出てくる話ですけれども、お母さんが亡くなったときユングは遠いところへ行っていて電報で死を聞いて引き返すわけです。そして汽車の中でものすごく悲しくなっていると、結婚式のにぎわいのダンスの音楽とか、そういう楽しげな音が心の底から聴こえてくるんです。この話が示しているように、結局死というのは結婚なんですね。
「トーデス・ホーホツァイト(死の結婚)」という言葉がありますけれども、死というのはこの世から離れてあちらへ結合に行くわけだから、言うならばこの世界の根底との最後の結合であり得るわけです。だから、死というものには非常に残忍で悲しい面と、非常にめでたい面とが共存しているとユングは言うんです。そういう感が方は、やはり大事なんじゃないでしょうか。

谷川:その考え方は世界的にあると思うんです。ニューオリンズでは葬送のときにジャズ・バンドがにぎやかに行進するということも、もしかしたらそれの一つのあらわれかもしれない。われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がします。
たとえば墓参りするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りに行くということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないか。死ぬということが単に生命がそこで断ち切られるだけのことだったら、これはもうどうしようもないんですけれども、やっぱりそういうふうなものだけだとは考えられないところがある。

河合:ですから、本当にこの世を豊かに生きようと思うならば、そういう目をとおして老いること、死ぬことを考えねばならないと思いますね。

谷川:この間、ぼくの知り合いで亡くなったジャズの女性歌手から転居通知が来たんです。その引っ越し先が富士霊園というところでして、実は急に思いたって引っ越しをしたと書いてある。そして、もう人を教えるのもめんどうくさくなったし、こちらは空気もきれいでとてもいいところだから、旦那にも来いと言ったんだけれども、旦那はまだいろいろ仕事があるから家のほうに残っている、電話は当分引けないけれども、よかったら遊びにおいでくださいと。要するにお葬式のお礼状ですよね。
ぼくはそれを読んでとても快かったというか、大したものだと思ったんです。そういう感じ方は不謹慎なんじゃなくて、人間がどこかで本能的に求めている感じ方なんじゃないかなという気がした。当人が前もって文面を遺しておいたのか、あるいは後に残った人たちが、あの人にはこういうのがふさわしいと思ってつくったのか、よくわからないけれど……。
それからもう一つ、昔の田舎の村には必ず頭のおかしい人がいて子供たちにとって楽しいトリックスター的な存在であった。それは、どこにでも共通にありましたね。

河合:そういう人たちは、神や仏の言葉も伝える役目も果たしていたわけですね。いまでもそういう人たちを含むことのできる共同体があればいいですよ。昔のように。しかし、村落共同体にしても、いまはそういう人を許容できないあり方に変わってしまった。たとえば、半分恍惚のお年寄りがフラフラ歩いていても、村全体が「ああ、あそこのおじいさんが歩いてるわ」というふうにへだてなく見ている村だったら歩けますよ。ところがいまは、外へ出てフラフラ歩いていたら自動車に轢かれてしまうから、家に置いておくよりしようがないですね。
ぼくが前から主張しているのは、こういう社会的なあり方をぼくらが選んだからには、そういう人たちに対する予算を非常に大きく取るべきだと思うんです。現在の社会は、そういう人たちを排除することによって繁栄しようとしているわけでしょう。排除するんじゃなくて、どういうふうに含んでいくかということに、もっともっと金を遣うべきだと思うんです。
まあしかし、すべての人をきちんと入れこむ社会をつくるというのもなかなかむずかしい。さっきのアフリカの話じゃないですけれども、年寄りがうまくいっているところは子供を殺していますしね。昔の大家族だったらお嫁さんが泣いていたでしょう。このごろお嫁さんが泣かなくなったぶん年寄りが泣いている。とにかく、誰か泣いている人が存在することによって社会が成立しているのは、やっぱりおかしいわけです。

谷川:結局、みんなが平等に少しずつ泣くというのが本当は一番いいんですね。

河合:そういうことなんですよ。みんなが泣きみんなが怒りみんなが笑い、というふうにならないとだめなんだけど、どうしても偏るんですね。だからこそ、なおみんなが努力しなければ、よりよい地点に社会がたどり着くことはできないんじゃないでしょうか。


引用部分が多すぎて怒られちゃうかな これでも泣く泣くだいぶカットしたんですが(神話の時代の詩人と前衛芸術についての話や、「時」と「解き」の話なども、とても面白かった)。。。
ご興味のある方は、ぜひ本書で全文を読んでくださいましm(__)m。
未来への記憶』に続いて私が読んだ、河合隼雄さんの本第二弾。
41年前、私が2歳のときに刊行された河合さんと谷川俊太郎さんの対談集です。
形式としては河合さんが谷川さんにユング心理学について講義をするというものですが、対談と呼ぶ方がふさわしい内容。そうなっているのは、谷川さんにもユングに関する前知識がおそらくあった上で踏み込んだ質問をされているという理由もありますが、なにより形式としては講師である河合さんがとても謙虚で、子供のような真っ新さを感じさせるからです。それは谷川さんについても同様で、そういう自然体な瑞々しさがこのお二人はよく似ていらっしゃる
また谷川さんの対談でいつも感じることですが、この本でも、私が「これを知りたい!」と感じることを谷川さんは実に適格に相手に質問してくださるので、読んでいてスッキリします。
このとき、河合さんは50歳、谷川さんは47歳。
41年前の対談ですが、上の引用部分を読んでいただいてもわかると思いますが、全く古さを感じさせない、そのまま今の時代にも通じる内容の本です。

ユングが言う”自己”(ユングは”自己”と”自我”を分けて考えています)について谷川さんが「一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたもの」という表現をされていますが、(私は心理学には全く無知ですが)これはユングが提唱した集合的無意識のことかな。
こういう感覚は私も子供の頃から感じているもので、中島みゆきさんの音楽や、谷川さんの詩にも通じるものがあるように思います(私が以前書いた記事はこちら→「昔から雨が降ってくる」、「対談と詩と音楽の夕べ「みみをすます」2」)。
そういえば河合さんは谷川さんの「みみをすます」の詩がとてもお好きで朗読者第一号になった方でした。河合さんはこの詩にユングに通じるものを感じたのかもしれません。あるいは河合さんご自身が生来こういう感覚を持っていらっしゃる方だから、ユングに惹かれたのかも。

しかしつくづく、こんな素敵な本が普通に置いてある図書館というところは、宝箱のような場所だなあ。
図書館の棚で偶然見つけていなかったら、河合さんの本を読むことは一生なかったかもしれない。最近は自分の興味のある本をオンラインで指定して図書館にはただ受け取りに行くだけというのが基本になってしまっていて、なかなか図書館の棚をゆっくりと眺めることはないのだけれど、そうしていると今回のような偶然の出会いは絶対に起こらないんですよね。自分の身体を使って世界を広げていくことの大切さも思い出させてもらえた、今回の河合さんの本との出会いなのでした。
そんなわけでもう一冊河合さんの本を読んだので、後日ご紹介させていただきますね
また「夢の解釈」についてもあれから色々感じたところがあったので、そのうち書ければいいなと思います。

そうそう、本書の題名『魂にメスはいらない』は、人間の自己治癒力についてのお話からだと思いますが、素敵な題名ですよね


河合隼雄 『未来への記憶 ―自伝への試み―』(2001年)

2020-09-11 17:12:34 | 




先日図書館で木村久夫氏の本を借りた際に同じ棚でたまたま見つけ、借りてみました。
河合さんといえば、谷川俊太郎さんから「みみをすます」の朗読者第一号の認定証を発行された方
谷川さんの話に出てくる河合さんの飄々としたキャラクターに好感を持っていたことと、先日ある本で読んだ河合さんの「日本の中空構造」についての話が面白かったため、この自伝も読んでみようと思ったのでした。

★「日本の中空構造」とは何かというと、河合さんは日本の神話から「日本は真ん中が空っぽなのではないか」という推論をたてました。例えばイザナギとイザナミはアマテラス・ツクヨミ・スサノオを生みますが、アマテラスとスサノオが神話の中で大きな役割を与えられているのに対し、その間のツクヨミは殆ど無為の存在であること。同じような中空構造が日本ではあちこちに認められ、それは決して悪い面ばかりではないが、何か問題が起きたときに責任の所在が曖昧になり社会システムとしては非常に脆弱であるという問題をはらんでいる、と。この国が抱える様々な問題を考える上で、日本がそういう構造をもった国であるということを意識しておくことは有用なのではないか、と仰っていて、面白い視点だなと思ったのでした。以上、余談。

この『未来への記憶』は河合さんが2001年に72歳のときに出版した自伝で、兵庫の篠山で生まれたときからスイスのユング研究所で資格を取得するまでの半生が綴られています。
私は心理学というものを信頼しきれていない部分があって、これまであまり興味を持ててこなかった分野なのだけれど、河合さんの本に触れて、心理学というのは正しい正しくないというよりも一つの手段として捉えるべきものなのかもしれないな、と思うようになったのでした。宗教と同じで、私達がより幸福に生きるための手段であると。なので、それが悪い方向に利用されるのなら問題だけれど、それが私達が良い方向に向かうきっかけとなるのなら、正しいかどうかは大した問題ではないのかもしれない、と。
以下、心理学の知識皆無な私の感想なので的外れなことを書いているかもしれませんが、ご容赦くださいませ。自分用の覚書です。

河合さんがロールシャッハテスト(インクのシミが「何に見えるか」という心理テスト)について師のクロッパーから学んだことの一つに、「これは自然科学ではない」というものがあります。
テストする人とされる人の関係がそこに入ってくるし、個々の人間の個性などということを考え始めると、簡単に概念化したり一般化したりすることはできない。とすると、ひとつひとつの現象をそのまま見て記述することが大切であり、法則があるとかないとかの前提をもたないようにするべきであると考えるのです。ともすれば何かを切り棄てることによって一般化したくなるとき、もっと根本的に個々の現象を詳細に見直してゆこうとするのです。」と。
私は心理学を自然科学的なものと捉えて違和感を覚えていたので、これは新鮮でした。この考え方は、以前ご紹介したフィッツジェラルドの『リッチ・ボーイ』の文章に通じるものがあるように思う。
また西洋では心理分析の学者の理論に机上の研究はあり得ず必ず臨床ありきなのだという点も、へえ、と。

そして面白かったのが、「シャドー(影)」の話。
シャドー(影)とはユングが提唱したアーキタイプ(元型)というもののうちの一つで、「自分の生きて来なかった半面」のこと。無意識の世界にいるもう一人の自分。
これは後に読んだ『魂にメスはいらない』の方により詳しく書かれてありましたが、人が人生である面を生きていくということは誰でも別のある面は生きていないということになる。その生きていない半面(シャドー)は「自分の苦手なタイプの同性」という形で夢に出てくることが多いそうで、それを苦手だからと拒否するのではなく、きちんと向き合い、そこからのメッセージを受け入れてみることが大切なのだと。そうして「今の私」に「もう一人の私」をうまく統合させることができたら、影は光に変わり、人は人間的により成長することができるとユングは考えたそうです。つまりこの統合がなされると、これまで苦手だったタイプのものも受け入れられるようになり、より広い心で前向きに生きられるようになる、ということだと思います。
この無意識の自分との対話を催眠術でもできないかというと、催眠術の被験者は目覚めたときに自分の言ったことを忘れてしまっているため、統合ができないそうです(統合がなされるためには、まず本人がシャドーを意識できていなければならない)。だから夢を記録する方法がいいのだと。
この辺りで私は「夢・・・夢ねえ・・・」と胡散臭い気持ちになってしまったのですが、これ、騙されたと思ってやってみるとなかなか面白いです。私は夢を滅多に見ないのですが、河合さんの本を読んでから何故かほぼ毎晩見るようになり、そこに出てくる人物がシャドーかどうかはわからないのだけど、自分の無意識の片割れかもしれないと思ってじっくり向き合ってみる、その意味を考えてみる、という作業自体は自分にとって有意義なことのように思う。
でもこの「苦手な人物を自分の片割れかもしれないと考えて避けずに向き合ってみる」というのは夢の中じゃなくても現実世界でもできる作業のように思うのだけど、どうなんだろう。まあ本当の意味での無意識の自分となると、やっぱり夢の中にしか出てこないのかもしれませんが。
シャドーに関しては、河合さんの師マイヤーやユングの友人だったロレンス・ヴァン・デル・ポストの書いた『ア・バー・オブ・シャドー(A Bar of Shadow)』(『影の獄にて』という題で思索社から翻訳版が出ています)という本があり、それが映画『戦場のメリークリスマス』の原作なのだそうです。坂本龍一の音楽とデヴィッド・ボウイとのキスシーンばかりが印象に残っていたあの映画にまさかユングの思想が散りばめられていたとは!浅薄で邪道な見方をしていた10代の自分を反省し、観直してみたいと思いますm(__)m。
シャドーについては、ノイマイヤーの『真夏の夜の夢』の王と女王が夢の中では妖精界の王と女王になるという設定に通じるものがあるように思いました。あとグリゴローヴィチ版の『白鳥の湖』の王子とロットバルトの関係もそういう風に読める気がする。意外と面白いな、心理学。

そしてとても驚いたのが、河合さんがユング研究所時代にニジンスキーの奥さんのロモーラの日本語教師をされていたということ
ニジンスキーが入院していた精神病院はスイスのクロイツリンゲンにあり、河合さんは実習のためにその病院をよく訪れていたとのことなので(ニジンスキー自身は河合さんがスイスに行く10年以上前に亡くなっています)、そこに繋がりがあっても不思議はないのですが。
ロモーラさんは七ヶ国語を話せたそうで、更に日本語も勉強したいと。なんかイメージしていた人と違う。意外だ。
彼女は河合さんに、ニジンスキーの話も色々していたそうです。そして、こんなことも。

ぼくがスイスから帰る直前の頃のことですが、いつものようにしゃべっているうちに、ふだんのパーッと華やかな雰囲気がすっかり変わって深刻な顔をして、「これはだれにも言っていないけど、あなただけに聞きたいことがある」と。どういうことかというと、ディアギレフと同性愛関係を保つことによってニジンスキーは踊り続けることができたんじゃないか。そこに自分が入り込んで結婚したために、ニジンスキーは分裂病になったんじゃないか、それをおまえはどう思うかと言うのです。それに対してぼくは、「人生のそういうことは、なになにしたのでどうなるというふうに原因とか結果で見るのはまちがっているのではないか。ニジンスキーという人の人生は同性愛を体験し、異性愛を体験し、ほんとに短い時間だけ世界の檜舞台にあらわれて、天才として一世を風靡した。しかしその後一般の人からいえば分裂病になってしまった。しかし、ニジンスキーにとっては非常に深い宗教の世界に入っていったということもできる。そういう軌跡全体がニジンスキーの人生というものであって、その何が原因だとか結果だとかいう考え方をしないほうがはるかによくわかるのではないか」と言ったのです。そうしたら夫人はものすごく喜んだ。「それを聞いて自分はほんとにホッとする。このことはずっと心のなかにあったことだ」と言っていましたね。ぼくはそういう話ができてほんとによかったと思います。(中略)実在の人物のことだから今まで黙っていたのですが、もう話をしてもいいんじゃないでしょうか。ぼくにとってもすごく大事な体験でした。

ロモーラさん、そうだったのか…。
河合さんは人の自殺についても原因と結果で捉えることがお好きではないそうで、私も似た考えです。

この本についての感想は以上ですが、この後に河合さんと谷川俊太郎さんの対談集『魂にメスはいらない』を読んだので、それについても後日ご紹介したいと思います。
冒頭に載せた写真は、京都の貴船神社。京大出身の河合さんつながりで。

で、心理学には興味がないとか言っているくせに、私はロンドン市内のフロイトが晩年を過ごした家を訪れているのである。古い家を見るのが好きなのです。
駅からも近く、素敵なお宅でした。以下、私が訪れたときの写真です。
フロイトはユングの師でしたが、けんか別れしました。

ロンドンのフロイト博物館 (Freud Museum) は、ロンドンの北部ハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地にある。1938年、精神分析の創始者フロイトは、マリー・ボナパルトの支援により、故郷の町ウィーンからここに逃避してきた。ジークムント・フロイトは、ユダヤ系の出自のためナチスドイツによりオーストリアがドイツに併合されたためウィーンを捨てて、ロンドンに移り住むことを余儀なくされた。彼はロンドンでも最も知的な印象の強い地域であるハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地の家に、翌年死去するまで居住した。フロイトは、この地に来てからも彼の研究を継続し、『モーゼと一神教』はここで完成したものである。女性の精神分析家の先駆けでもあったフロイトの娘アンナ・フロイトは、1982年亡くなるまでこの家に住んだ。彼女が亡くなって4年後、彼女の遺志によりこの家は、博物館として一般に公開されることになった。開館したのは、1986年である。
(wikipediaより)




右手のブループラークのついた建物が、マレスフィールド・ガーデン20番地のフロイトの家。


カーライル博物館や漱石博物館と同じく、ドアの前で勇気を要するタイプの博物館


内部は撮影不可だったので、博物館のホームページより。
この階段の踊り場が好きだった。こんなところでゆっくり本を読みたいなあ。


庭に面した1階のサンルームは、フロイトグッズのショップになっています。
私はフロイトの小さなフィギュアを買いました


それなりに説明書きも読んだりしていたので、博物館を出る頃はすっかり夜に。
空いていて、ゆっくり見学することができました。

Freud Museum London
博物館の公式ページ。オンラインショップまであるのだ。


75回目の終戦記念日

2020-08-19 22:49:21 | 

2006年にこのブログでご紹介した学徒兵木村久夫氏の遺書は、『きけ わだつみのこえ』(岩波書店)からの引用でした。
ですがそれは実際に書かれたままの内容ではなく、2つの遺書を合わせ、内容も編集されたものであったことがその後の調査で判明。
2014年、その経緯及び遺書の完全版が掲載された『真実の「わだつみ」』という本が、東京新聞から出版されました。
そちらを先日読んだため、以前の記事を削除し、改めて今回ご紹介したいと思います。

木村久夫 終戦後の1946年5月23日シンガポールにて処刑 28歳。

私も訪れたことのあるシンガポールのチャンギ国際空港は戦中に日本軍の飛行場として連合国側の捕虜たちにより建設されたものであったこと、彼らが収容されていたチャンギ刑務所に戦後木村氏が収容されていたこと、本書を読んで知りました。
戦中、そして戦後に彼の身に起きたこと。それは決して簡単にここに書けるような内容ではないので、遺書全文と合わせ、ぜひ本書をお読みください。
75年前の悲劇を二度と繰り返さないために最も重要なもの。
それはまぎれもなく私達日本国民一人一人の意識の中にこそあるのだと、この手記を読んで改めて強くそう感じました。

以下、本書より一部の抜粋を載せます(「……」は中略部分です)。


……私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ学半ばにして既にこの世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波瀾極めて多かりし私の一生もまた波瀾の中に沈み消えていく。何かしら一つの大きな小説のようだ。しかし、すべて大きな運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。……

日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真っただ中に負けたのである。日本は無理をした。非難さるべきことも随分としてきた。全世界の怒るのも無理はない。
世界全人の気晴しの一つとして、今私は死していくのである。否、殺されていくのである。これで世界の人の気持ちが少しでも静まればよいのである。それは将来の日本の幸福の種を残すことだ。……

私は何ら死に値する悪はしたことはない。悪を為したのは他の人である。しかし今の場合、弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で討たれたのであるが、全世界からしてみれば、彼らも私も同じく日本人である。すなわち同じなのである。彼の責任を私がとって死ぬ。一見大きな不合理ではあるが、これの不合理は、過去やはり我々日本人が同じくやってきたのであることを思えば、やたら非難は出来ないのである。彼らの目に留った私が不運なりとしか、これ以上理由の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体(へ)の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。……

わが国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが、世界歴史の命ずるところ、しょせん致し方ない。……

すべての原因は、日本降伏にある。しかし、この日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判っていながら、この戦を起こした軍部に持っていくより仕方はない。しかし、またさらに考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許してきた、全日本国民にその遠い責任があることを知らなければならない。
日本はすべての面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。すべてわれが他より勝れりと考え、また考えせしめたわれわれの指導者及びそれらの指導者の存在を許してきた日木国民の頭脳にすべての責任がある。
日本はすべての面において混乱に陥るであろう。しかしそれで良いのだ。かつてのごとき今のわれに都合の悪きもの、意に添わぬものはすべて悪なりとして、腕力をもって、武力をもって排斥してきたわれわれの態度の行くべき結果は明白であった。
今やすべて武力、腕力を捨てて、すべての物を公平に認識、吟味、価値判断することが必要なのである。そして、これが真の発展をわれわれに与えてくれるものなのである。すべてのものをその根底より再吟味するところに、われわれの再発展がある。……

吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である。
口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、かつ溶けるがごとく、喉から胃へと降りていく触感に目を閉じてじっと味わう時、この現世のすべてのものを、ただ一つとなって私に与えてくれるのである。泣きたくなることがある。しかし涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限まで押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである。死の瞬間を考える時にはやはり恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、そのことはその瞬間が来るまで考えないことにする。そしてその瞬間が来た時は、すなわち死んでいる時だと考えれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。……

精神的であり、また、たるべきと高唱してきた人々のいかにその人格の賤しきことを、われ、日本のために暗涙禁ず能わず。……

私の仏前、及び墓前には従来の仏花よりも、ダリヤやチューリップなどの華やかな洋花も供えてくれ。これは私の心を象徴するものであり、死後はことに華やかに明るくやっていきたい。うまい洋菓子もどっさり供えてくれ、私の頭脳にある仏壇はあまりに静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華やかなものでありたい。仏道に反するかもしれないが、仏たる私の願うことだ。
そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。われわれの記憶に残るものはただ私の生まれた日だけであってほしい。私の一生において記念されうべき日は、入営以降は一日も無いはずだ。……

昭和二十一年四月十三日、シンガポール チャンギ―監獄において読了。死刑執行の日を間近に控えながら、これがおそらくこの世における最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たということは、無味乾燥たりし私の一生に最後、一抹の憩いと意義とを添えてくれるものであった。母よ、泣くなかれ、私も泣かぬ。……


(刑務所内にて偶然入手した『哲学通論』の余白に書かれていた遺書より。『哲学通論』は出征前の学生時代に木村氏が読んでいた本)


いまだ三十歳に満たざる若き生命を持って老いたる父母に遺書を捧げるの不幸をお詫びする。いよいよ私の刑が施行されることになった。絞首による死刑である。戦争が終了し戦火に死ななかった生命を今ここにおいて失っていくことは惜しみても余りあることであるが、これも大きな世界歴史の転換のもと国家のために死んでいくのである。……

すべての望みが消え去った時の人間の気持ちは、実に不可思議なものである。いかなる現世の言葉をもってしても表し得ない、すでに現世より一歩超越したものである。なぜか死の恐ろしさも解らなくなった。すべてが解らない、夢でよく底の知れない深みへ落ちていくことがあるが、ちょうどあの時のような気持ちである。……

私は戦終わり、再び書斎に帰り、学の精進に没頭し得る日を幾年待っていたことであろうか。
しかしすべてが失われた。私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみとしよう。マルキシズムも良し、自由主義もよし、いかなるものも良し、すべてがその根本理論において究明され解決される日が来るであろう。真の日本の発展はそこから始まる。すべての物語が私の死後より始まるのは、誠に悲しい。

降伏後の日本は随分と変わったことだろう。思想的に、政治、経済機構的にも随分の試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見応えのある一つ一つであるに相異ない。その中に私の時間と場所との見出されないのは誠に残念の至りである。……
もう書くこととて何もない。しかし何かもっと書き続けていきたい。筆の動くまま何かを書いていこう。……

死ねば、祖父母にもまた、一津屋の祖父にも会えるであろう。また図らずも戦死していた学友にも会えることだろう。あの世で、それらの人々と現世の思い出語りをしよう。今はそれを楽しみの一つとして死んでいくのである。また世人の言うように出来得んものならば、蔭から父母や妹夫婦を見守っていこう。常に悲しい記憶を呼び起こさしめる私であるかもしれないが、私のことも思い出して日々の生活を元気づけていただきたい。
誰か「ドイツ」人の言葉であったか思い出した。
『生まれざらんこそこよなけれ、生まれたらんには生まれし方へ急ぎ帰るこそ願わしけれ』
私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり。……

もう書くことはない、いよいよ死に赴く。皆さま、お元気で、さようなら、さようなら。

一、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
一、皆々様お元気で、生前は御厄介になりました。
一、末期の水を上げてくれ。

 辞世

・風も凪ぎ雨も止みたり爽やかに 朝日を浴びて明日は出でなむ
・心なき風な吹きこそ沈みたる こゝろの塵の立つぞ悲しき

遺骨は届かない、爪と遺髪とをもってそれに代える。

処刑半時間前擱筆す

(家族へ宛てた遺書より)


星野さん、アラスカ、旅をする木

2020-07-29 23:18:46 | 



人間の世界とは関わりのない
それ自身の存在のための自然。
アラスカのもつその意味のない広がりに
ずっと魅かれてきた。



ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。




自然はいつも、強さの裏に脆さを秘めています。
そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です。




人間の気持ちとは可笑しなものですね。

どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。
人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。
きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。


上に載せた言葉はすべて、写真家の星野道夫さんの言葉です。
写真は、最初の3枚はデナリで出会った女の子がカトマイで撮ったもので、最後の1枚は私がフェアバンクスで撮ったもの。ともに一人旅で同年代、初めてのアラスカでした。私はアンカレジ→デナリ→フェアバンクスという旅程でしたが、彼女はデナリ→アンカレジ→カトマイという旅程でした。「一緒にカトマイも行こう!」と誘われたけど、さすがに初めての海外一人旅で現地で旅程を変更する勇気はなく、また星野さんが住んでいたフェアバンクスに行くことがその旅行の一番の目的だったので、デナリでお別れしたのでした。旅行後にカトマイで撮った写真を送ってくれたメールには、「アラスカに一人旅をするような女の子が私の他にもいると知って、とても嬉しかった」と書かれてありました。私からも彼女にフェアバンクスで見たオーロラの写真を送ってあげたかったのだけど(贅沢なことに毎晩飽きるほど見られた)、当時の私はオーロラを写真で撮るという技術がなく。彼女はめっちゃいいカメラを持っていたので、私がデナリでコンデジでカシャカシャ動物の写真を撮っていたら、「あなた、そんなカメラを持ってデナリに来るなんて…Oh My God!」的に嘆かれた(笑)。

このアラスカ旅行は、私の長年の夢を叶えたものでした。
18歳のときに龍村仁監督のNTTデータスペシャル「未来からの贈りもの」(1995年)の中で星野道夫という写真家の存在を知り、星野さんの場面ばかりVHSが擦り切れるほど何度も何度も繰り返し見ました。いつか必ずアラスカに行こう、もし手紙を書いたら星野さんは会ってくださるだろうか?とまで考え(笑)、星野さんの著作や写真集を買い、お守りのようにしていました。ですが翌年の1996年、星野さんはカムチャツカで亡くなられました。あの日、母親が「これ、あなたの好きな写真家の人じゃない?」と持って来た新聞を見たときの気持ちは、25年たった今でもはっきりと覚えています。
それから9年後、28歳のとき、夢を叶えてアラスカに行きました。初めての海外一人旅がアラスカで、ツアーではなく自由旅行。フェアバンクスの郊外では携帯電話も通じない。私自身はケロっとしていましたが(携帯が通じない場所にいる解放感といったら!)、母親はものすごく心配していたそうです。なのに一言も反対せず行かせてくれた親には、感謝しています。

なぜ急に星野さんの話をしたかというと、今日のヤフーニュースで、三浦春馬さんが2018年10月のインタビューで星野さんを大好きだと仰っていたこと、プライベートで行きたい国を尋ねられて「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたいです!」と目を輝かせていたということを知ったからです。調べたら昨年9月のインタビューでも、「人生を変えた本」として星野さんの『旅をする木』をあげていらっしゃいました。以下は、そのときのインタビューの春馬さんの言葉。

 星野道夫さんは、アラスカの大自然と動物の写真を撮り続けた写真家・随筆家で、ヒグマに襲われて亡くなってしまったのですが、何冊も本を出されています。写真はもちろん、言葉もとても美しくて。自分の調子が悪かった時、彼の使う言葉に癒され元気づけられました。

 なかでも印象深いのは、アラスカの住まいで窓を開けていたらベニヒワという頭とお腹が真っ赤な小鳥が部屋に入ってきて、妻とそれを見ながら幸せを感じるというお話。幸せを感じさせてくれるこの環境と妻の存在に感謝したいという星野さんの思いが、すごくきれいな言葉で綴られているんですよ。また、東京での暮らしを書いている章もあって、アラスカで書いている時の文章と、言葉の使い方や並び方が全然違うんです。人は環境に応じて選ぶ言葉が違うんだなと面白く感じました。

 星野さんの本に出会ってから、いつかアラスカに行きたいと思うようになりました。彼が住んで感じた、自然と共存して生きていくなかで生まれるインスピレーションを自分も体感したい。きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。

前回のブログ記事で私は「これまでの人生で私は自ら命を絶とうと思ったことはありません。なぜなら私にとってこの世界は自ら去るには美しすぎるのです」と書きましたが、そのときに頭に浮かんでいたのは、星野さんのことでした(春馬さんが星野さんをお好きなことは、このときは知りませんでした)。
星野さんが綴るこの世界の美しさは私が子供の頃からずっと肌で感じてきたもので、それを言葉という形にしてくださった人が星野さんでした。

ところで星野道夫という人について語られるとき、世間の関心を集めがちなのはその最期です。
私自身はそこに大きな意味があるとは思っていません。できるならアラスカで死なせてあげたかったな、とは思うけれど。
ただ、その最期について思うとき、いつも想像することがあるのです。
星野さんは21歳のときに親友を山で亡くされています。本の中では具体的な山の名前は書かれていませんが、1974年7月の新潟焼山の噴火のときのことであるとわかります。噴火が起きたとき、頂上付近にいた千葉大の学生3名が亡くなりました。このうちの一人が星野さんの親友でした。『旅をする木』の中で星野さんはこの出来事を振り返って、こんな風に書かれています。

 中学生の頃から親友だったTとぼくは、いつもある共通の憧れを抱いていた。見知らぬ遥かな土地、そこに生きる私たちとは違う価値観を持った人々、人間の知恵をもってさえどうすることもできない自然の力……そんな世界をいつか見に行くのだという漠然とした夢だった。(中略)その夜、江戸時代からずっと眠り続けていたこの山が大噴火を起こすとは、一体誰が想像しただろう。Tは何という時の迷路に入り込んでいったのだ。けれども、それは私たちがいつも語り合った世界ではなかったか。最期の時、あいつは振り返って目の前で噴き上がる火山をじっと眺めただろうか。Tは帰って来なかったが、あの時の不思議な気持ちは今でも覚えている。気がつくと、やり場のない悲しみをふっと忘れ、あの夜一体何を見たのかぼくはTに問い続けているのである。

この感覚、私にはとてもよくわかるのです。
おそらく世間一般的には理解されがたい感覚なのではなかろうか、とも思います。
でも結局、亡くなった人が最期に何を思ったかは、その本人にしかわかりません。

星野さんが亡くなったのは43歳。今の私と同じ歳のとき。
春馬さんが「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたい」と言っていたのは、28歳のとき。私がアラスカに行ったのが、28歳のとき。その当時の私が何を思っていたかというと、「死ぬまでに絶対にやりたいと思っていることがあるなら、いつかではなく、今しよう」でした。昨年のインタビューで「きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。」と仰っていた春馬さん。そうだよ、アラスカでの体験はあれから何年たっても私に生きていく力をくれているよ。だからあなたも全部を投げ出してアラスカにでもどこにでも行ってしまえばよかったのに、と強く思ってしまうけれど、彼が置かれていた立場は急に退職しても部署の数人にしか迷惑をかけない私とは違い、あまりにも多くの人やお金が関わっている立場だったものね…。俳優って大変な職業だな…。
最後にもうひとつ、星野さんの言葉を。『旅をする木』より。

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

アラスカ、またいつか行けるかな。
本当なら今年か来年に行く予定だったのだけれど…(今回こそカトマイに行こうと地球の歩き方も買ったのに


坂口安吾 『アンゴウ』

2020-07-16 22:59:56 | 




初めて読みました。
アンゴのアンゴウ。
冗談のような作品名だけど、いい話だねえ。。。
悲しく、優しく、温かい。
安吾のこういう作品や、織田作の『アド・バルーン』や、太宰の『黄金風景』や、そういうお話を読んでいると、彼らのことを「すてきな純情派」と呼んだ檀一雄の言葉は本当にピッタリだなあと感じる。


ぼくはね、織田作さんにしても安吾さんにしても、みんなすてきな純情派だったと思いますよ。
世の中の人間というのは、つまらないいろいろなことを思っているけれども、あの人たちはほんとに純潔な魂の持ち主だった。けっしてぐうたらなことじゃ終わらずに、自分の主義、主張、志というのか、そういうものに忠実でね。
それで結局、純潔に生きるということは、破滅を意味するわけですよ。ところが一途に純潔を通した、徹底的に。
それに、日本が敗戦を経験するまえに、戦前にあの人たちは、何べんも敗戦に会っているんですよ。もうまったくの敗戦に会ったと同じように、価値の転換がおこなわれ、自殺しようと思えばいつだって自殺できるような状態に、何べんも落ち込んでいるのだから、日本が負けたぐらいのことではビクともするもんじゃない。だから、みんなが敗戦後の虚脱状態にあったときだって、かれらは不変の価値あるものを知っていたから、つまり自分たちの純潔を信じていたんですね。その点ですぐれた大先輩だと思ってます。

(檀一雄 「日本の文学63」付録 夏の夜の打明け話)


気楽に歌い続ける鳥のようであれ

2020-05-16 13:39:44 | 




しばし羽を休めた枝が
細すぎて折れるかと思えても
それを感じながら
いざとなれば飛べばよいと
気楽に歌い続ける
鳥のようであれ

(ビクトル・ユゴー)

詩の訳は、『喜びの泉 ターシャ・テューダーと言葉の花束』より。
2007年にこのブログでご紹介した詩の再掲です。
昨日書いたオダサクについての記事に通じるなと思ったので。
大好きな詩です

人間って歳を重ねていくほど、生活はややこしくなるけど、考え方はどんどんシンプルになってくるように思います。
若いときは自分の生活はシンプルだけど、頭の中は単純なことを色々こねくり回して複雑に考えていたような気がする。
だから今若い人達で死を考えている人がいるなら、「とりあえず生きていた方がいいよ」と言いたいです。
自分の目から見える世の中の姿というのは、歳を重ねるごとにどんどん変化していくものだから。自分も変わるし、世界も変わる。
また私達は自分や世界の全てを知っているわけではない。私達が認識しているものなんて、全体のほんの一部。
だから、今見えている世界の姿が数年後も同じように見えているとは限らない。
人間や世の中というのは、結構いい加減なものです。


Inspire High 谷川俊太郎

2020-04-16 05:47:09 | 

【特別公開】谷川俊太郎 Inspire Highライブ配信セッション|#InspireHigh


3月1日のInspire Highライブセッションより。

谷川:(21歳の時に出版したデビュー作の『二十億光年の孤独』について)十代の終わり頃ってすごく不安な時期じゃないですか。これからどうすりゃいいんだ、みたいな。で、僕は自分がどういう地点に立ってるのかということを考えたんですね。自分は杉並区に住んでいて、杉並区は東京にあって、東京は日本にあって、日本はアジアにあって、アジアは地球のどこかにあって、っていう風にだんだん広げていったんですよ。そして結局宇宙に行っちゃったわけね。宇宙はその頃の常識では二十億光年という大きさだったんですよ。だから僕は二十億光年の大きさの宇宙の中にいるんだっていう感じがしたわけね。それであの詩が生まれたわけです。(最後のくしゃみという表現について)くしゃみでもする他しょうがないんじゃないかという気持ちだったんですよね。人間の中の孤独ならどうにかなるんだけど、宇宙の中の孤独じゃどうにもならないわけだから。

ここであげられた3つの詩の中では私は『うんち』の朗読を一番聴きたかったんですが笑、10代だったらやっぱり『二十億光年~』を選ぶのだろうなと。それはさておき。
上のお話を谷川さんはご自身の本の中でも仰っているんですが、へぇ、と思った部分なんです。
私は今もですが子供の頃は星空を眺めるのがすごく好きで、一晩中でも眺めていられる子供でした。子供なので「なんで好きなんだろう」とかはあまり考えなくて、ひたすら宇宙の中の自分を感じることが楽しくて。〇〇光年(という定義は知っていたので子供といっても小学生ですね)という気の遠くなるような時間の中にいる自分。そういう自分を感じると、わくわくもしたし、安心もした。そういう感覚は今もありますけど、当時はそれまで生きた時間よりも先の人生の方がずっと長かったですし、死もどこか現実味のないものでしたから、今と違いひたすら明るい気分で空を眺めていました。なので私の場合は、自分の存在から宇宙へと意識を広げていったという感覚はなく、その逆で、いま目の前にある宇宙の広さから自分の存在を思ったという流れだったのでした。
谷川さんとは意識の流れは逆だけど、最後のくしゃみの部分の感覚はよくわかる。「宇宙の中の自分」を思っているときはまだ心は宇宙の大きさの中にあるけれど、意識せずくしゃみをして我に返ったその自分は「日常の中の、社会の中の自分」。でもどちらも同じ自分で。
そして日常の中でも「宇宙の中の自分」を無意識に感じられる自分でいられたことで私はなんとか今日まで生きてこられた、ともいえるのでした。それが果たして自分にとって良いことだったのかどうかはわからないけれど、それにより私が救われてきたことは確か。その「宇宙」は私にとっては道端の花であり、草木であり、虫であり、動物であり、そして自分なのでありました。言い換えれば、自分という存在は道端の花であり、草木であり、虫であり、動物であり、宇宙なのでありました。そしてその世界は、谷川さんの詩と私が重なる場所なのでした。


質問:人とうまくやるためにどうしていますか?
谷川:その人を自分の基準で判断しないようにしてますね。その人にはその人の必然性があると思うから、その人の意味とかじゃなくて、その人が存在している存在自体を受け入れたいというふうに思って人と付き合ってますね。

私はこういう谷川さんがとても好きだけど、谷川さんのこういうところが佐野さんは我慢できなかったのだと思うな笑。
佐野さんは谷川さんに谷川さんの基準で判断して佐野さんの意味を受け止めてほしかったのではないかしら。人工的に喧嘩にもちこんで衝突した後は上機嫌だったというのもそういう理由ではないかしら、と遠い遠い部外者である私は想像するのである。
でも佐野さんは谷川さんとの離婚後に谷川さんの北軽井沢の別荘の隣に土地を購入して移住し、谷川さんが来ているか気にするそぶりを見せていたそうですAERA 2018年3月19日号)。人間の感情って面白いね。佐野さんの前夫との間のご子息の広瀬弦さんは、谷川さんや谷川さんのご子息の賢作さんと今も仲良しだとか。

谷川さんがラジオ作りについて仰っている「遠くから聞こえてくる微かな音に耳をすます」のが好きだという感覚、わかるなあ。今の時代は全てが見えすぎて&聞こえすぎて、だから本当に大切なものが見えにくく&聞こえにくくなってしまっているように感じられるから。谷川さんのラジオについての詩はこちら

谷川さんもまたすぐにお会いできると思っていたのになあ。まさか世界がこんなことになろうとは。。。


谷川さん、お元気そうで安心しました!賢作さん、ありがとう!その2も楽しみにしています!
それにしても谷川さんの朗読はほんといい。。。。。。

★オマケ★
先日うちの近所の散歩コースで撮ったお花たちです









谷川俊太郎 『わたし』

2019-12-29 13:45:29 | 
『わたし』

わたしがはじまったのは
いつ?
ハハがみごもったとき?
 
それからずっとつづいているわたしは
だれ?
それともなに?
 
わたしはだいたい まいあさわたし
でもときどきだれでもなくなる
なにでもなくなる
 
わたしがおしまいになるのは
いつ?