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風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

谷川俊太郎 『あったことのないきみ』

2019-12-29 13:33:32 | 



『あったことのないきみ』

どこかがいこくのいなかまち
りょうがわに にたようないえがつづいているみち
そこにおとこのこがひとりたってる
それはあったことのないきみ

いえにはハハとチチがいるけれど
いまはそのみちのうえでひとりぼっち
わきにいっさつのほんをかかえて
あったことのないきみは まるでぼくのようだ

きみはどこへもいきたくないとおもっている
いつまでもここにいたいとおもっている
しぬまでいまのじぶんでいたいとおもっている
あしもとでこいぬがしっぽをふってる

いつかよんだ ものがたりのなかのきみ
きみはもうおとなになっておじいさんになって
もしかするともうしんでいる それなのに
いつまでもいつまでもきみは ぼくのようだ


対談と詩と音楽の夕べ「みみをすます」2 @TOKYO FM HALL(11月29日)

2019-12-27 02:39:53 | 

第二部(20:05~20:50) ※第一部についてはこちら

15分間の休憩を挟んで、第二部は谷川さんの息子さんの賢作さん(作曲家/ジャズピアニスト)によるコンサート。
以前谷山浩子さんが猫森集会で鉄腕アトムの主題歌(作詞は谷川さん)を歌われたときに「谷川さんの息子さんによるジャズアレンジがものすごく難しいんですっ」と仰っていましたが、賢作さんのことですネ。ちなみに賢作さんは有名どころではNHK「そのとき歴史が動いた」のテーマ曲などを作曲されています。
それにしても賢作さん、写真ではそう感じたことはなかったけれど、実際にお会いするとお父さまによく似ていらっしゃる
谷川さんのご結婚歴を思うと賢作さんの心に波風が立ったことが一度もなかったとは考え難いけれど(賢作さんは谷川さんの2番目の奥様との間の息子さん)、お二人の間のエピソードで私がとても好きなものがあるんです。谷川さんのお父様は谷川さんが大人になっても詩だけで食べていけなかった頃に文句を言わず生活費を援助してくださったそうで、だから音楽という難しい道を選んだ賢作さんに谷川さんも「お前が90になるまでは僕が面倒をみるから(だからお金の心配はしなくていい)」と言ったら、「その頃あんたはもういないでしょ」と返された、と笑。谷川さんは夫婦の関係では色々あったかもしれないけど、きっとお子さん達に対しては愛情を惜しみなく注いで育ててこられたのではないかなと、それがお子さん達にちゃんと伝わっているのだろうなと、賢作さんを見ていてそう感じました。
前置きが長くなってしまいましたが、第二部はまず賢作さんがお一人でステージにご登場。

賢:すぐ息子が出てくると皆さん思っていらっしゃると思いますが、今日はASKAや〇〇や中島みゆきにコンペで勝ってここにいるんですからね!・・・・・冗談ですよ、2~3人は信じる方がいるので。今日はDiVaで出る予定だったんですけど、ヴォーカルのまこりんが松本で舞台に出演していて来られないので、僕だけでもいいかな~と(笑)。せっかく僕だけなので、後でまた主役にも登場してもらおうと思います。

谷川さんの詩『泣いているきみ』を賢作さんが朗読。
※谷川さんは「本を丸々一冊ネットに載せるとかでなければ詩の著作権は気にしない」とご自身の本の中で仰ってくださっているので、お言葉に甘えさせていただきます…。

『泣いているきみ 少年9』

泣いているきみのとなりに座って
ぼくはきみの胸の中の草原を想う
ぼくが行ったことのないそこで
きみは広い広い空にむかって歌っている

泣いているきみが好きだ
笑っているきみと同じくらい
哀しみはいつもどこにでもあって
それはいつか必ず歓びへと溶けていく

泣いているわけをぼくは訊ねない
たとえそれがぼくのせいだとしても
いまきみはぼくの手のとどかないところで
世界に抱きしめられている

きみの涙のひとしずくのうちに
あらゆる時代のあらゆる人々がいて
ぼくは彼らにむかって言うだろう
泣いているきみが好きだと

続いて、賢作さん作曲の『We know we forget almost everything but still we remember something』の演奏。
賢:中学英語ですね。僕たちは殆ど全てを忘れてしまうけれど、それでも覚えているものがある

続いて、谷川さんの詩『愛のあと』を朗読(たしか…)、演奏(作曲は賢作さん)。
同じく『かぼちゃ』『はくしゃくふじん』の歌、演奏。賢作さん、素晴らしい表現力
賢:こういう政治家いますよね~。っと今日はそういう話はしないのだった。

賢:尾崎真理子さんは僕と同学年で、父とは長い付き合いで本もよく読んでくださっているので僕もすごく安心なんですが、それでもまだ父に敬意を払いすぎているので、もっと突っ込んでヤツを活性化させた方が面白い話が聞けると思うんですけどね~。
賢:「音楽は意味がないから羨ましい」といつも言われるんですが、意味がない・・・ですかねえ?(納得しがたそうな賢作さん笑)

ここで背後から谷川さんご登場。
俊:朗読うまいじゃない!
賢:いえいえ。
俊:(席に着いて賢作さんを振り返って)僕の紙がないんだけど?
賢:(紙をもってきて)はい、どうぞ。 ※詩が書かれた紙のようです。

※これ以降、朗読と演奏とトークの順番に関して、まっっっったく記憶に自信がありません・・・。『おばあちゃんとひろこ』と『みみをすます』のどちらが先に朗読されたかでさえ(なんか逆のような気がしてきてる…)。この第二部は私の感情がいっぱいいっぱいで…。なので以下は順不同ということで。大枠では違っていない、と思う…。

賢:この前○○(※たぶん東松山市の美術館で行われていた「へいわとせんそう」展のことかと)に行ったときに、父は「今日は沢山エネルギーをためてきたんだ」って言っていて、とても鋭い朗読を聞かせてくれたんですけど。(谷川さんに向かって)覚えてる?忘却しちゃったね。それで先週は神奈川学園っていう中高一貫の女子校で一緒にミニコンサートをして。
俊:それは覚えてる!
賢:覚えてるよね。(コントか笑) 
賢:そのあと横浜中華街で食事をしたんですけど、疲れちゃって途中で具合が悪くなって動けなくなっちゃったんだよね。
俊:うん。
賢:どこに行っても「お父さんお元気ですね!」と言われるんですけど、僕から見てると、人ってこうして歳をとっていくのかというのを感じます。
俊:僕ももっとちゃんと父親を見ておけばよかったな。
賢:ちゃんと見てたじゃない。
俊:見てなかったよ。細かいところは全然。
賢:あの頃は佐野洋子との恋愛に夢中だったから(笑)?
俊:なんでその話になるの(苦笑)!?今日はそういう話をするんじゃないでしょう?国際交流基金だよ!?(会場笑)

俊:ひろこという女の子とおばあちゃんの詩があって。聴いてください。

『おばあちゃんとひろこ』

しんだらもうどこにもいかない
いつもひろこのそばにいるよ
と おばあちゃんはいいました
しんだらもうこしもいたくないし
めだっていまよりよくみえる

やめてよえんぎでもない
と おかあさんがいいました
こどもがこわがりますよ
と おとうさんがいいました
でもわたしはこわくありません

わたしはおばあちゃんがだいすき
そらやくもやおひさまとおなじくらい
おばあちゃん てんごくにいかないで
しんでもこのうちにいて
ときどきわたしのゆめにでてきて

おっけーとおばあちゃんはいいました
そしてわたしとゆびきりしました
きょうはすごくいいてんき
とおくにうみがきらきらかがやいて
わたしはおばあちゃんがだいすき

谷川さんの「おっけー」の言い方がすごく可愛い
でも私、谷川さんのこの詩を知らなくて、この夜に初めて知ったんですが、これ、やばいでしょう・・・・・。泣くしかないでしょう・・・・・。谷川さんって決して大仰に声を張り上げたりはしないんです。終始静かに朗読をされる。なのに、とても温かいの。

俊:今日のタイトルにもなっている『みみをすます』という詩ですが、「耳を澄ます」というのは英語に訳すことができない言葉なんです。「耳をそばだてる」とかそういうのはあるんですけど。だから英訳ではただ「listening」となっています。河合隼雄さんがこの詩をとても気に入ってくれて、朗読者第一号として認定証を発行してほしいと頼まれたので発行してあげました。でもあの方が読むとイントネーションが「みみをすます ̄_ _ _ ̄  ̄」となるので、東京人の僕には違和感があったんですけど(笑)。

谷川さんによる『みみをすます』の朗読。
この朗読、予想を超えてものすごかった・・・・・。繰り返しますが、谷川さんの朗読って、決して大袈裟に感情を歌い上げたりはしないんです。でも谷川さんが朗読をすると、その詩の世界がそのままの裸の姿でこちらに届く。全ての言葉が音ではなく「世界」として届くんです。ぶつかってくるといった方がいいくらいの威力で。
この詩もその静かな口調に最初のうちはニュートラルな心持ちで聴いていると、次第にぞわぞわとただらなぬ気配になってきて(といっても谷川さんはあくまで静かに朗読されている)、このあたり↓にくると、「これ・・・・やばい・・・」と気づき始め。

みみをすます
しんでゆくきょうりゅうの
うめきに
みみをすます
かみなりにうたれ
もえあがるきの
さけびに
なりやまぬ
しおざいに
おともなく
ふりつもる
プランクトンに
みみをすます
なにがだれを
よんでいるのか
じぶんの
うぶごえに
みみをすます

そしてこの辺り↓に至ると、知らぬ間に自分がとんでもないところに連れていかれていることを知り呆然となり、時間や空間の感覚がなくなってゆく(「じゅうまんねんまえ」以降の追い込みの物凄さよ・・・)。

(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)

みみをすます
じゅうねんまえの
むすめの
すすりなきに
みみをすます

みみをすます
ひゃくねんまえの
ひゃくしょうの

しゃっくりに
みみをすます

みみをすます
せんねんまえの
いざりの
いのりに
みみをすます

みみをすます
いちまんねんまえの
あかんぼの
あくびに
みみをすます

みみをすます
じゅうまんねんまえの
こじかのなきごえに
ひゃくまんねんまえの
しだのそよぎに
せんまんねんまえの
なだれに
いちおくねんまえの
ほしのささやきに
いっちょうねんまえの
うちゅうのとどろきに
みみをすます

ここで、すっと、この詩は再び私達がいる「いま、ここ」の時間、場所へと戻るのです。カメラのズームが一瞬で衛星映像から人の顔へと切り替わるように。でもそれらは「同じ世界」なんだ。

みみをすます
みちばたの
いしころに
みみをすます
かすかにうなる
コンピュータに
みみをすます
くちごもる
となりのひとに
みみをすます
どこかでギターのつまびき
どこかでさらがわれる
どこかであいうえお
ざわめきのそこの
いまに
みみをすます

みみをすます
きょうへとながれこむ
あしたの
まだきこえない
おがわのせせらぎに
みみをすます

はあ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
もうほんと言葉がない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
90分間の交響曲を聴き終えたときのような、あるいは人間や宇宙の一生を描いた長編映画を観終えたときのような、そんな気分で体がぐったり。
そこにあるのはただ谷川さんの声と詩だけなのに、こんな時空の旅を体験させられるなんて。それもとっくの昔から知っていた詩で。改めて、なんというスケールの大きく、なんという優しい詩だろう。
今更な私が言うのもなんですが、もし谷川さんの詩がお好きでまだその朗読を生で聴いたことがない方がいるなら、絶対に絶対に機会を逃さずに聴いておいた方がいいですよ(youtubeじゃなくて生で聴いて下さい)。本当に。谷川さんの朗読でしか体験できない強烈な何かがそこにあるから。

賢:こういう後に歌うのって難しいんですよ。本当は何も歌いたくないんです。武満さんが『音、沈黙と測りあえるほどに』という本を書いていらっしゃったけど、ただ沈黙していたい。
賢:(時計を確認されて)ああ、あまりもう時間がないんですね。
俊:もうそんな時間?・・・ほんとだ。(この飄々とした言い方が可笑しくて、会場笑い)
賢:『みみをすます』を朗読させる時間を僕がちゃんと考えておかなきゃいけなかったんだけど。
俊:考えてなかったの(笑)?
賢:考えてましたよ。考えてましたけど、・・・ってこうやって話しちゃうからいけないんだな。

賢:今から歌うのは、国立第七小学校という学校の校歌と、そしてこれは滅多に歌わないんですが「よりあいの森」という福岡の宅老所のために書いた歌です。

『くにたちだいななしょうがっこう』
作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

たびしてみたい いろんなところ 
はなしてみたい しらないひとと 
ちきゅうはとっても たのしいほしだ
まなぶ みとめる たすけあう
からだとこころ すこやかに
だいじにしよう たがいのきもち
まもっていこう みどりのこかげ
ちきゅうはとっても ゆたかなほしだ
うたう ゆめみる といかける
からだとこころ しなやかに
くにたちだいななしょうがっこう

『よりあいのうた』
作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

おはよう ごはんはまだですか
そよかぜふいて ことりもないて
いまはむかしで むかしはいまで
てにてをとれば こころがかよう

こんちは おはなししませんか
うれしいときは なみだをこぼし
かなしいときは にこにこわらい
ここがごくらく えんまもいっしょ

おやすみ よぞらがすきとおる
このよでうたい あのよにあそび
こころのおくに ほしがまたたく
ゆめかうつつか よりあういのち

賢:(『よりあいのうた』のユーモアのある温かく優しい歌詞と賢作さんの歌声に大盛り上がりな会場に)今日一番拍手が多かったですね(笑)

※賢作さんがこれらの曲を歌っているとき、谷川さんはとても穏やかな嬉しそうな表情で聴いておられました。

俊: 最後にもう一篇。なんだか恥ずかしいんですけど・・・、『生きる』という詩を。 

恥ずかしいというのは、きっと朗読を頼まれる機会があまりに多い詩だからなのでしょうね
私ももちろんこの詩は知っていて、「最後はこれか。谷川さんの詩の中ではあまり好きな方の詩じゃないのだけどなあ。でも人気がある詩だし、しょうがないか」などと不遜なことを思っていたのだけれど。
まさかの。
谷川さんの朗読だとどうしてこんなに胸に迫ってくるのぉぉぉぉぉ
『みみをすます』のときと同じで(あちらは元々好きな詩だけど)、途中から「え・・・ちょ・・・なんかやばいかも・・・・・」となり。

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

ここで涙腺決壊・・・・・を必死に堪えました。でないと自分が声をあげて泣いてしまうことがわかったから。周りもみんな啜り泣いていた。
今夜のこれまでの流れと、友人のこと、祖父母や親のこと、震災や台風で亡くなられた人達のこと、それらが一気に浮かんでしまって。
しかもこのタイミングで賢作さんのピアノが入るんだけど、それがルイ・アームストロングの”What a Wonderful World”のアレンジという。こんなドストレートすぎる演出、普段の私だったらかえって醒めてしまい涙が引っ込む状況のはずなのに、目の前のお二人の姿を見て、聴いているともうダメ。朗読が終わってピアノの独奏だけが残って、それに静かに耳を傾けている谷川さんの表情はとても穏やかで優しくて・・・。
なんか谷川さん、先月からさらに透明度が増しているような。このまま透けて空気に溶けてしまいそうで。ご自分でも仰っていたけど、もうすこし自我を強くされて人間に近付かれた方がいいです。でないと見ていて不安になります。。。

最後に賢作さんが谷川さんに「受賞おめでとうございます」と忘れずに仰って(笑)、いっぱいの拍手のなか、お二人がご退場。後ろから段差を気遣う賢作さん。

外に出てもずっとぼんやりとしながら半蔵門から電車に乗り。
金曜夜の喧騒のなか、もう少しだけあの空気の中にいたくてイヤホンをしたけど、一体いまどんな音楽を聴けるというのか。聴ける音楽なんてあるのか。
思いつくのはこれしかない。
谷川さんがお好きなグールドが弾くバッハ。ゴルトベルク(グールド晩年の、ハミングが入っている方)を静かな音量で聴きながら帰りました。記憶が薄れないうちに今夜のことをメモっておかないとと思ったけど、この選曲のせいで再び胸がいっぱいになってしまい文字を打つどころじゃなかったという

というわけでいつも以上にグダグダな、でも精一杯に書いた第二部の覚書でした。


©The Japan Foundation

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谷川俊太郎×ASKA 奇跡の対談が実現(2019年2月)
賢作さんのトークの中でみゆきさんのお名前が出たのはわかるけど、なぜASKAさん?と思っていたら、こんな対談があったんですね。へえ、ASKAさんも谷川さんのファンだったのか。ASKAさんは賢作さんより2歳上ですね。
動画もありました↓

【ASKA書きおろし詩集】谷川俊太郎×ASKA 奇跡の対談

これは阿佐ヶ谷のご自宅でしょうか。谷川さんって誰が相手でも本当にいつも謙虚で自然体でいらっしゃるなあ。
そんな谷川さんだから、こちらも(といっても私は客席でお話を聞かせていただいているだけですが)自然体に、知らず自分にこびりついてしまっていた無駄なものが落ちて裸の自分に戻れるような、そんな感覚になれるんですよね。嘘で自分を防御したり誇張しても何の意味もないと自然と感じるようになるというか。ASKAさんもきっと同じだったのではないかな。映像からそういう感じ、伝わってきます
ところで谷川さんが対詩をなさっている覚和歌子さんって『いつも何度でも』の作詞の方なのか!『いつも何度でも』、大好きです

最後に、谷川さんがよく仰る「音楽には意味がない」について。
言葉というものは本質的に必ず「意味」を伴ってしまう。それが言葉というものの避けられない性質だから。でも音楽というものは本質的には「意味」は伴いませんよね。例えば、どんなに寂しそうなメロディを作ったとしても、聴く側が楽しい曲だと判断することもあり得るわけです。でも「寂寥」という単語を「楽しい」と解釈することはできません。文脈の中でそういう意味合いになることはあり得ても、言葉そのものの意味としてはあり得ない。それ自体にもう意味が伴われてしまっているから。それが言葉というものの性質だから。そしてそういう音楽の性質を谷川さんは心から愛されていて、言葉より優れたものだと考えていらっしゃるのだと思います。
ASKAさんが仰っている「音楽も嘘をつきますよ。ハンサムにみせようとか」というのは谷川さんが仰っているのとは僅かに次元が違う話で(ここはお二人の会話が少々噛み合っていない)、これもそのとおりだと思います。作曲家が音楽に対して誠実にならずに「大衆にウけそうなメロディ」を大量生産することは可能ですし(ウけそうなメロディを書くことが悪いわけではなく、自分は良いメロディだとは思っていないのにただウけそうという理由だけで書く場合のことです)。それでも、それをどのように受け取るかは最終的には聴衆の感性に委ねられるわけですよね。その余地が残されているか否かは、言葉と音楽のはっきりとした違いだと思います。ちなみに政治家などが嘘をつくのではなく敢えて曖昧な言葉を使って聴衆を誘導する、というようなことについては、また別の種類の話。


ほぼ日刊イトイ新聞 - だからからだ  谷川俊太郎と覚和歌子、詩とからだのお話。(2005年2月)

ほぼ日刊イトイ新聞 - 谷川俊太郎、詩人の命がけ。(2012年4月)

詩の朗読とインタビュー「谷川俊太郎さんに聞くー河合隼雄との思い出」(2015年10月)

谷川俊太郎さんが明かす「子どもに媚びない絵本を作ってきました」(2017年7月)

谷川俊太郎さんが「よくできた詩とは思っていない」と言う代表作「生きる」は、なぜ愛され続けるのか?(2018年9月)

谷川俊太郎さんに聞く、からだの中にある、言葉、音、音楽(2019年3月)


対談と詩と音楽の夕べ「みみをすます」1 @TOKYO FM HALL(11月29日)

2019-12-21 00:26:29 | 




遅くなりましたが、先月行った谷川俊太郎さんの国際交流基金賞受賞記念イベント「対談と詩と音楽の夕べ『みみをすます』」についての覚書を。
このイベント、なんと無料でした

第一部(19:05-19:50)は、谷川さんと尾崎真理子さん(読売新聞社)による対談。
尾崎さんは、以前このブログでご紹介した『考える人』の谷川さん特集のインタビュアーの方で、谷川さんの『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)の共著者の方でもあります。どちらもとても充実した内容だったので、今回お二人の対談を生で聞くことができて嬉しい
しかし前回の長島さんとの対談のときも思いましたが、谷川さんってこんなにトークが上手で面白いのに、”人間関係が苦手”でいらっしゃるんですねぇ。
以下、対談の一部を順不同に。時間がたってしまっているので記憶違いがあったらすみません・・・。

尾:この度は受賞おめでとうございます。
谷:語学は全くダメなので、こんな賞をいただいていいのかと迷いましたが・・・。昔〇〇さん(←聞き取れず)と初めてお会いしたときに「あなたは何と何ができるの?」と聞かれて、あの方は何ヶ国語も話される方なので、こちらは日本語しか話せないので恥ずかしくて。
尾:そんな風に仰いますが、私が谷川さんを知ったのは『ピーナッツ』『マザー・グースのうた』『あしながおじさん』といった翻訳が最初でした。
谷:子供達には「谷川さんって詩も書くんですねー!」なんて言われます(笑)。でもこういうのは国際交流というのとは違いますよ。
尾:この賞は、大岡信さんや武満徹さんも受賞されています。
谷:大岡や武満がもらってるなら自分もいただいちゃってもいいかなーと思って(笑)、いただくことにしました。

・・・

尾:谷川さんは大変長く活躍されているので、谷川さんの歴史は日本の国際交流の歴史とも重なります。
谷:僕は武満と親しかったから、彼の音楽が爆発的に世界に広がっていく過程を全部見てきました。羨ましかった。詩はそういう風にはいかないから。詩にはどうしても言語という壁があるけど、音楽にはそれがない。詩を外国の方に読んでいただくためには、まず翻訳が必要となる。
尾:谷川さんの詩は20数ヶ国語に翻訳され、世界中で愛されています。
谷:詩を外国語に訳すのはすごく難しい。今回の賞は翻訳家や通訳の方と一緒にいただいたものだと思っています。
尾:翻訳されたご自身の詩を読まれて違和感を覚えたことは。
谷:翻訳の案を読んで感覚的にこの訳は違うのではないか?と感じるときはあって、そういうとき翻訳者と実際に会って話せると意思が通じやすい。以前ウィリアム・エリオットと〇〇とビールを飲みながら気になるところを確認し合えたのはとてもよかった。
尾:谷川さんの詩を中国語に翻訳されている田原(でんげん、ティエンユアン)さんという方がいらっしゃいます。
谷:僕は中也が好きだから彼に中也の詩を訳してみたら?と勧めたことがあるんだけど、中也の詩は中国語に訳しにくいそうです。この人はとても自信家な人で、僕の「かっぱかっぱらった」を意地でも訳すと(笑)。訳したものを聴きましたけど、どこが“てにをは”なのかさっぱりわからない。聞いたらちゃんとあるらしいんですけどね。でもそういう風に頑張ってくれる人がいるというのは嬉しいことですよね。

・・・

尾:谷川さんは対詩や連詩も積極的にされています。観客は詩ができていく過程をライブで見られるので、とても人気がある企画です。今日も、私は進行の原稿を持っていますが、谷川さんは持たれていません。対詩や連詩について、谷川さんはどのようにお考えですか?
谷:対詩や連詩では必然的に詩の型が崩れるから、それが楽しいですね。
尾:詩人祭にも参加されています。ロッテルダム詩人祭などが有名ですが。
谷:以前、参加している詩人が女性の詩人を好きになって追いかけまわしたことがあって、詩人祭はそういう周囲の人間関係の方が面白い。
尾:谷川さんが追いかけられたことは?
谷:あったら自慢してます笑。僕は人と集まるのが嫌いで部屋にこもっちゃう方だけど、実際に行くと楽しい。
尾:ヨーロッパの詩人とアメリカの詩人の違いのようなものはありますか。
谷:国による違いよりも、その人個人による違いの方が大きい。
尾:谷川さんは長期間アメリカを旅されたことがありました。
谷:そのときネバダ州の山奥にゲーリー・スナイダーを訪ねて、彼の詩はもちろんいいんだけど、彼からはライフスタイルを多く学びました。普通の詩人のように都市部に住まずに山奥の小屋に住んだり、反権威の姿勢とか。あと、○○と旅していたときにヒッピーの祭りのようなものが近くでやっていて、森の中のプールで男女がすっ裸で騒いでるんです。僕は一人っ子だからそういうのに慣れてなくて遠慮したけど(笑)、ああいう雰囲気は好き。背広が苦手な人間だから。

・・・

尾:谷川さんはツイッターで作品を発表されていましたが、やめられた理由は「140字は長すぎる」と。
谷:それは冗談ですが(笑)、人と常に交流しているのは自分にはしんどい。

・・・

尾:谷川さんの詩は教科書に合っていると言われますが。
谷:誰がそんなこと言ったの(笑)
尾:今回の受賞理由の一つも、教科書に使われているというものですし。
谷:僕は平仮名を大切にしているからね。
尾:谷川さんは安野光雅さんや大岡信さんと『にほんご』という本も出されています。(詩の朗読)これは「日本語が世界の全てではない」という意味ですよね。
谷:そう。僕達は「こくご」じゃなく「にほんご」にしたかったの。でも「日本語」という教科書はまだできないね。

・・・

尾:『ピーナッツ』の全集が発売されることになりました。
谷:今では『ピーナッツ』の登場人物はみんな親戚みたいな感じがしています。
尾:谷川さんは「good grief!」を「やれやれ」と訳されました。村上春樹さんはそれを使われたのではないかと私は思っているんですが。
谷:それはわかりませんけど(苦笑)、予約がいっぱい入って驚いています。あれ、印税が2%なんですよ。2%というと結構儲かるなあ、と(笑)。

・・・

谷:僕は飽きやすいから、同じスタイルで書いてると、それに飽きてくる。でも新しいスタイルは意識的にできるものではなくて、無意識的に浮かぶもの。詩を作るときも、待つ。「夏の海についての詩を書いてください」と具体的に依頼されても、かえって上手く作れない。右脳ではなく左脳で作ってしまうから。一度そのことは忘れる。そして待つ。

・・・

尾:外国語を勉強しようという方へ何かアドバイスはありますか。
谷:翻訳のときは日本語の意味が大事。僕は日本語なら負けないと思って翻訳をしてきました。それは辞書の意味のことではもちろんなくて。
尾:語学の習得については。
谷:言語というものは一人で教科書と向き合って勉強するのではなく、大衆の中で覚えた方が早い。外国人の恋人がいると覚えるのが早いというのも、そういうことだと思う。

以上、第一部(のほんの一部…)についての覚書でした。
休憩後の第二部は、谷川賢作さんによる演奏と谷川さんによる詩の朗読でしたが、これが圧巻で。。。。。感想&覚書は後日アップいたします。

©The Japan Foundation

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私も写ってる・・笑


詩×写真 「いま」の深みを表現する @朝日カルチャーセンター横浜教室(10月5日)

2019-11-28 14:29:29 | 



谷川 俊太郎(詩人) 
長島 有里枝(写真家)

すこし前になりますが、谷川俊太郎さんと写真家の長島有里枝さんの対談を聞きにいってきました。先日ここに谷川さんについての記事を書いた際に改めて「そうなのだよなあ、私はまだ一度も谷川さんにお会いしたことがなかったんだ」という事実に思い至り、そして谷川さんが現在87歳でいらっしゃるという事実も思い、「行くのは今でしょ!」と。
初めてお会いした谷川さんは想像していたとおりの、でも想像以上の方でした。想像以上に人間的で、想像以上に自然体な方だった。自分をよく見せようというような気負った空気が皆無で、たった今生まれたばかりの赤ん坊のようなまっさらさといいますか。人ってどうしても自分を取り繕おうとしてしまう部分があるものだと思うのだけど、谷川さんは「自分を取り繕う」ことの意味がわからない方なのではなかろうか、と。世の中にこんな人がいるんだねえ。

お相手の長島さんとは今回が初対談とのことで、「谷川さんの詩に子供の頃から親しんでいるし大好きだけど、マニアレベルほど詳しいわけではない」という感じがちょうど私と似ていて、質問してくださる内容も私が知りたいと感じる部分を聞いてくださったので、私にとってはとても充実した内容の対談でした。

以下は、自分用の備忘録です。記憶に曖昧な部分もあるので、誤りがあったらゴメンナサイ。

谷:僕の詩は自分の内側から湧いてきているものだけど、具体的じゃなく抽象的、概念的とよく言われます。
長:普遍的・・・っていうのとは少しちがうのかな(←言葉の意味をいい加減に使わない長島さんのこういうところ、いいなと感じました^^)、でもそういうところが谷川さんの詩が多くの方に読まれている理由だと思います。

長:谷川さんは、「意味」がお嫌いでしょう。
谷:うん、嫌い(即答)
長:私も「意味」が嫌いで、でも大人になるとどうしても意味を考えるようになってしまうじゃないですか。例えば誰かにぶつかったとき、若い頃はただぶつかった!としか思わなかったのに、今は「私のことが嫌いなんじゃないか」とか色々意味を考えてしまったり。そういうのがすごく嫌で。(谷川さんに縋るように)こういうの、どうしたらいいんですか??
谷:それが普通なんじゃないですか?人間は意味を考えてしまう生きものでしょう。

谷川さんのこの言葉、こうして文字にしてしまうと伝わらないかもしれないけど、谷川さんがサラリと仰ると自分の中のモヤモヤしたものが一瞬で浄化された感じがして、すぅと心が楽になったんです。驚くほど。
このときの声、中島みゆきさんとの対談で「生きていることは罪を重ねていることのように感じる」と仰ったみゆきさんに「それは誰だってそうだよ。」と返したときの声とおそらく同じなのではないか、とそんな風に感じました。
これ、谷川さんは決して一般論で「誰だってそうだよ」と流したわけではないと思うんですよね。「自分は人もたくさん傷つけてきた」と谷川さんはよく仰っていて、「人間という生き物は、生きていれば人を傷つけてしまうものだ」というのが谷川さんの感覚なのでしょう。みゆきさんと違い谷川さんはそのことであまり罪悪感は感じておられないようだけれど、それも「人間とはそういうもの」という感覚がおありだからでしょう(※ここは私自身はみゆきさんの感覚の方に近いです)。
そういう人から出ている言葉だから、その声に不思議なほど邪気がなく透きとおった響きで相手の心に届くのだろう、と。なのでみゆきさんが「不思議ねえ。そう言われると、なんか元気が出ちゃうわ。」と仰ったのも社交辞令でもなんでもなく、谷川さんの言葉にある透明なものを受け取った彼女の本心だったろうと思うのです。「人間ってそういうものでしょう」ということをこんなふうに言える人って、稀有ではなかろうか。この感じばかりは言葉で説明できなくてもどかしいのですが、ちょうどみゆきさんがこの感覚をうまく言葉にしてくださっている文章があるので、引用しちゃいます。上記対談の十数年後、みゆきさんは当時のことを振り返って、こんな風に書かれています(対談の中で谷川さんがみゆきさんにした「あなたは子供を持たないの?」という質問に対するご自身の返答と、それへの谷川さんの返答に関して)。

谷川さんの声はあくまでも穏やかで、ただ、透きとおっていた。出まかせな自己顕示欲を即座に見抜かれてしまった私はといえば、その声を真水のシャワーのように呆然と浴びていた。(中略)私はその真水のシャワーが優しく温かいシャワーであったことを感じていた。この人に会えてよかった、と思った。
(谷川俊太郎詩集 角川文庫 1998年)

この感じ、すごくよくわかる。
谷川さんの声って「透きとおって」いるんですよね。それはきっと谷川さんという人が稀に見る「透きとおった」人だからで、それは谷川さんが「人間」という存在に対して独特の距離感を持っていることと関係しているのだと思う(そういうところが「宇宙人」と呼ばれる所以でもあるのでしょう)。でも谷川さんのそういう透明な部分に反応してしまう人というのは、おそらく”同種の”人間だけなのではなかろうか、とも。反応しない人はおそらく全く反応しないのではないか、と。それが良い悪いということではなく。

ちなみにみゆきさんが谷川さんの詩がお好きで卒論のテーマにもされていたことは、今回の対談に行く直前に初めて知りました。世界や言葉が似ているなあとは常々思っていたけれど、私が知っていたのは学生時代のみゆきさんのオーディションのエピソードだけでした(課題詩が谷川さんだったというアレ)。

話を戻して。
そんな宇宙人のような谷川さんだけど、この世界で「何の問題もなく」生きてこられたわけでは決してないだろう、と私は思う。特に「社会内存在」としての谷川さんは。

谷:僕は人間は二重の存在からなっていると思っていて。それは僕がよく言う「社会内存在」と「宇宙内存在」というもので、社会内存在は”ないと生きていけないもの”、宇宙内存在は”宇宙から突然地球に降り立ってこの世界を見ているような感覚”。この関係に僕はずっと興味があって。詩は宇宙内存在のときにできるんですけど。それは人間ではない部分。一度目の結婚ではまだ人間な部分があったから衝突した。一番喧嘩した。二度目の結婚は一般の人で(※女優をしていたけど結婚を機にやめたから一般の人とのこと)、忍耐を覚えたから我慢した。でも我慢しすぎた。子供が生まれたり一番現実で忙しかったから男だ女だというのはなかった。三度目は相手が特殊な人だったから。彼女はとにかく人を一瞬で見抜く、批評がうまい人で。僕が知らない面を沢山教えてくれた。でもそれがいい経験となって自分を変えたとかいうのとは、、、違う気がする。自分の中にはずっと宇宙内存在としての人間じゃない部分がある…。人間関係が苦手なんです。このままでいいのかな?とは思うんだけど。
長:そういう相手に出会っていないからでは?違うタイプの女性を選ぼうとかは思われないんですか?
谷:全然笑(即答)。僕は潜在意識が空っぽなんです。若い頃からドロドロしたものがない。恵まれて育ったから。
長:でも裕福な家で育ってもドロドロしたものがある人もいると思うから、それだけではないと思う。
谷:歳をとるに従ってどんどん”自分”がなくなっていくように感じている。もう少し自我をもつ必要があるんじゃないかなと最近思うんですけどね。この歳でもう無理かもしれないけど笑。
長:谷川さんは、詩をひとのために書くのか自分のために書くのか、どちらですか。
谷:ひとのため(即答)。詩は相手との関係でできる。
長:批評家という人達についてはどうですか。私は”図星を書かれてくそ~”というのならいいんですけど、”批評以前”の全く作品を理解されていないようなことを書かれたりしたこともあって、批評にあまり良い印象がないんです。
谷:僕は、若い頃は自分の作品を正面から批評してもらいたいと思ってた。今はもう違うけど笑。批評されて、結構それで変えて作品が良くなったりするし。
長:そうなんですか!?
谷:そう笑

長島さんがお好きだという詩集『バウムクーヘン』の『すききらい』の詩の話から。

長:谷川さんは矛盾がお好きですよね。
谷:うん、好き。
長:私もです。今の世の中はみんな「すき」と「きらい」だけ。両方混ざっているのが普通なのに。
谷:僕は、矛盾があるからリアルなんだと思っています。

アーティストについて。
長:アーティストだからお金はいらないでしょ?と言われる。アーティストがお金のことを言うなんておかしいって。
谷:今でもそうなの?
長:今の方がそうです。今は経済がよくないから昔よりも言われる。私はまだいいですが、若い人達は気の毒です。
谷:僕はお金をもらうことが社会と繋がっているとずっと思ってきたから。中国に行けば?(←唐突な提案に会場から笑い)この前僕の読者だという人が訪ねてきて、上海からプライベートジェットで来たっていうの。まあいつまでも上向きじゃないかもしれないけど、日本と違って国が大きいから、単純計算で読む人の数も多い。

書き方のスタイルについて。
長:谷川さんは色んなスタイルを試したくなるタイプですか?
谷:僕は飽きやすいんです。色んなスタイルを試したくなる。
長:私もそうなんです。
※ここ、谷川さんと糸井さんとのこの対談を思い出しました。自分の詩は「歴史的ではなく地理的」であると仰っていた対談。

『バウムクーヘン』より長島さんがお好きだという詩『かぞく』を朗読。長島さん、朗読がお上手!谷川さんも嬉しそう。
谷:僕の詩は感情をいれて読んでほしくないからとてもいい。
この詩の最後の3行について。
谷:僕はそういうパンチラインを書きたくなる癖があるんです。
それから谷川さんが百部くらいしか作らなかったという写真が貼られた古い詩集(何かのインタビューでこの本のことを読んだ記憶があります)の中からもっと昔に書かれたもう一つの『家族』の詩を探して、谷川さんが朗読。選集などによく掲載されている「お姉さん 誰が来るの 屋根裏に」で始まる詩です。谷川さんご自身はおそらくこちらの詩の方をより気に入っておられるのではないかなと感じました。
ていうか谷川さん、、、朗読がものすごく上手い・・・!!!
吃驚しました。自身が書いた詩を詩人自ら朗読しているのだから当然かもしれないけど、それにしても素晴らしかった。なんというか、淡々と読んでいるんですよ。淡々と読んでいるんですけど、”詩のもつ原始的な力”のようなものを感じた朗読でした。ああ、谷川さんの朗読をもっと聞きたい!

長:実際に感じる感覚はとても大事だと思う。素材の手触りとか。
谷:僕もそう。kindleも読むけど、紙をめくる感じが好き。

長:本当に表現したいものは写真では出せない。
谷:その距離は詩も同じです。
私は自分の写真をうんこと呼んでるんです。いいものは全部自分の中に栄養として吸収されてしまうから。
谷:佐野洋子は義理の息子をうんこと呼んでたけど笑、ぼくにもうんこに関する詩が沢山あって息子が曲をつけてくれた。オペラみたいなので、文字で読むより伝わってくるんです。よかったら送ります。住所は?スタッフの方が知ってるのかな?
長:住所?え、ここで?あ、あとでお教えします。(※戸惑う長島さん笑)

ひらがなと漢字について。
谷:漢字はそのものが意味になってしまう。ひらがなはアルファベットと同じで音そのものの楽しみ方ができる。

そして最後の質疑応答。
女性:私は谷川さんの学校の後輩でずっとお会いしたいと思っていました。今回の講演のタイトルは「いま」についてですが、「いま」の話と写真の話が全くなかったので、その話をしてほしい
今ず~っとその話をしてたでしょ~が!あんたはなにを聞いてたの!とおそらく私だけでなく会場の誰もが思ったと思いますが、確かに私は谷川さんの詩の世界に比較的慣れてはいるから今日の話と「いまここ」が繋がっていることがわかったけど、そうではない人には「?」な部分もあったかもしれない。なかったかもしれない。
長:すみません。私はずっとその話をしていたつもりだったんですけど・・・。
割とはっきりと不機嫌そうな谷川さんと長島さんのお二人
こういう谷川さんのとんがった部分が見られたことだけはこのオバハンのおかげだわ(本当にそれだけね)。

ところで最近知ってものすごく吃驚したんですけど、谷川さんは『六十二のソネット』を21歳のときに書かれているんですね。あの詩を21のときに、、、、、、、、、、、、、、、。谷川さんってやっぱりすごい人だ、、、、、。大好きな詩集です。

ちなみに明日も再び谷川さんにお会いしてきます


『考える人 2016年夏号』 細野晴臣

2019-09-07 00:04:24 | 




 人間は本来、苔のような、自然と一体化した生活をしていた。消費しすぎることなく、環境を汚さない。かつてネイティブアメリカンは薬草を採りに野原に行き、草を採取するとき、草のリーダーに「これから採ります」と声に出して言ったという。そしてお礼に供物を捧げた。そこには必ず交換があり、採る量もその日に必要な分だけ。こうして自然が保たれてきた。
 日本でも縄文人はそれに近い生活をしていた。自然は豊かで、木の実や貝を食べて十分やっていけた。採取生活はどこでもできるから、諍いを避けるために移動した。でも農耕文化になると、土地を際限なく使って消費が膨らんだ。土地が大事だからそれをめぐる争いも増えたし、定住によって格差が生まれて今に至る。
 持続可能な世界とか声高にいうけれど、それはかつてあったもの。縄文時代にすでに行われていたこと。
 いまさら縄文時代に戻ることはできないけれど、人間は遺伝子のなかにそういう経験を持っている。だから憧れる。消費社会を見直そうという人がいる。生き方を変えようという人もいる。・・・

 いま人間が生活しているこの世界、宇宙――空気があって、その空気の成分が一定で、空気が震えて音が生まれるから聞くことができる。光は、目に見えない紫外線や赤外線を除いて七色あるから物が見える――こうした、人間を守ってくれている世界と環境。それがとても貴重なものという気持ちがぼくには強い。そこから自然への崇拝の気持ちも生まれる。自然を敬う気持ちからスタートしないと、人間は道を誤ると思うね。

(細野晴臣 苔にあこがれる)


『考える人 2016年夏号』 養老孟司

2019-09-06 00:03:35 | 




これまでの科学は、「こうなったらああなる」という因果律で考えるばかりでしたが、そこで抜け落ちるのは、ものごとの間にある関係性です。海、山、川、そして里はそれぞれ個別にあるのではなく、お互いにつながっています。田んぼで育った稲が米になり、それを食べて私たちの身体はつくられる。それなら、田んぼは私たち自身です。海で育った魚を食べてそれが私たちの身体になるなら、海もまた、私たち自身なんです。それをぶつ切りにして別物だと考えるのは、言葉や意識です。たとえば道志村は横浜市の水源地になっている土地だから、なにかあったら、横浜が困るんです。岸由二さんが言う「流域思考」は、川の流域単位で土地を見る考え方ですが、いま都会の人たちは、自分がどこの水を飲んでいるか、近くの川がどこから流れてきているか、知っているでしょうか。環境問題や里山の意義について、誰もが「持続可能性」を当たり前のように理解して唱えているのに、一向に実現しないことは不思議です。

(養老孟司 森の残響を聴く)


『考える人 2016年夏号』 石川直樹

2019-09-05 21:38:11 | 




 盲目の人々が列をなして、喜捨を待っている。片足のない男や、下半身のない男が手を差し出している。無数の蝋燭の火が揺らめいている。お香の煙が舞う。犬が四肢を伸ばして気持ちよさそうに寝ている。赤い袈裟を着た坊さんがゆっくりと歩いている。五体投地をしながら牛歩で進む女性がいる。

 そうした群衆のなかにまぎれて、ぼくもストゥーパのまわりを歩いた。ここでは歩くことが、祈りそのものである。歩き続けることは、祈り続けることである。旅の原型が巡礼にあるとすれば、ボダナートのストウーパのまわりを歩行するという身ぶりは、きわめて原初的な旅の形態をなぞっているということになるだろう。
 苦しくなったら、この無心の歩みを思い出せばいい。祈りの先にあるのは、登山の成功などではなく、その瞬間を生きることなのだ、とふと思う。

(石川直樹 いまヒマラヤに登ること)

谷川さんの特集以外にも良い記事がたくさん。
ちなみに写真はヒマラヤではなく北アルプスです^_^; 


『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎3

2019-08-22 00:54:25 | 

俺は歩いているがそれがどうしたと言うのだ
歩いているならどう歩いているか言葉にせよと
お前は内心そう思っているのか
俺は黙ってただ歩くのが好みなのに

の持ちものはコトバだけ
だからコトバにはケチケチするのだ
持ち重りするのは身に余る
風景並みに無口なコトバが道連れだ

どこへ行くのか気になるのか
あの世に決まっているだろう
別に用事はないんだが

歩いていればグーグルマップなど見なくても
自然にそこに落ち着くはずだ
お喋りしながらお前もおいで


書き下ろし『歩いているだけ』より。
一部引用するつもりが思わず全部載せてしまった。。


――現代詩に制約を感じたことはありませんか。

谷川:いや、制約はないですよ。どんなことでも自由に書けます。月々連作で長く書くことも可能だし。
僕にとって、詩は自己表現ではないってことです、簡単に言うと。だから、自己表現がしたいなら詩じゃ不満だから小説に行こうとなったと思うんだけど、僕にはこれはぜひ言いたいなんてこと、ないんですよ。

たしかに少なくとも谷川さんの詩には”自己表現”という言葉は似合わないですよね。外に向かって自己の内面を表現しているようには感じられないから。谷川さんはきっと、ただ自分や他人や世界の姿を書いているのだと思う。自分が書きたいように。それに最も適しているのが、谷川さんにとっては詩という形式なのでしょう。

では散文と詩の違いってなんだろう、と考えるのだけど。
それは文章の”純度”の違いではなかろうか、と。
純度というと語弊があるかもしれないけど、他に合う言葉が見つからないので。
これはもちろん純粋という意味ではないけれど、それでも詩のそういうところが佐野さんには「アクを掬いとった人生の上澄み」に感じられたのだろうと思うし、それはある意味では正しいのだと思う。
一方で、その純度こそが詩の命なのではないかしら。私はそういう詩というものが好きだ。

――などとえらそうに書いている私ですが、谷川さんの詩は読んだことがあるものより読んだことのないものの方が遥かに多いのですよ実は。詩集もその時々の気分で適当に開いて読むという読み方ですし。そもそも谷川さんの作品数は2016年時点で詩だけで「三千くらい」なのだそうで(一日一作読んでも8年…!)、最近は紙媒体だけじゃなくネットや色んなところでも活動されているから、とても追いつけないです。まあ本気で追いつこうと思えば追いつけるのですけど、やらないだけでもある。私にとって詩は散文と違って慌ただしく読むものではないですし。

本当のことってみんなにわかるはずなんですよ。最終的には。本当のことは偽善よりも絶対強いですよ。どんなにきつい言葉であっても――というふうに僕は思ってますけどね。

(谷川俊太郎 『考える人 2016年夏号』より)


『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎2

2019-08-21 00:00:14 | 

――それでも佐野さんは、おおむね不機嫌だったようです。佐野さんは何に一番、怒っていたのでしょう。

谷川:それがわかれば、苦労しませんよ。僕にかんしては、立ち向かわなかったということでしょう。僕は反省しちゃうほうだから。あと、どういうときが幸せ?と聞かれて、「ニュートラルな状態」と答えたら、信じられないと驚かれたし。
彼女、そうとう人工的に喧嘩にもちこんでましたね。なぜかといえば、喧嘩のあとに仲直りがしたいから――というふうに、僕はとっていましたね。ケンカのあとは上機嫌で、やさしくなるわけ。
僕は全然、相手がいなくても、ひとりで成り立っちゃうから。そういうちがい、大きいよね。わたしがいても淋しいんでしょう、あんたは、と言われたことがある。自分がいなかったら淋しいと思いたいけど、それと関係なく淋しい人だと思ったんじゃないの。

(谷川俊太郎インタビュー『考える人 2016年夏号』より)

佐野洋子さんは、谷川さんの三人目の奥様。
「あなたには世間が欠けてる」と谷川さんに仰ったというのも、佐野さんでしたよね。言い得て妙というか、鋭い表現だなと思う。佐野さんは谷川さんを愛しているからこそ谷川さんのデタッチメントな部分が我慢できなくて(それはそうだろうと思う。特に佐野さんのようなタイプの女性には)、結局お二人が離婚をしたのはそのギャップ(谷川さんが言う”そういうちがい”)が最後まで埋まらなかったからなのだろうか。ちなみに昨年9月の朝日新聞のインタビューで、谷川さんはこんな風に仰っていますが。

健康で仕事ができていることは感謝の一言です。ただ、神様のイメージがぼくにはない。祈ることもしませんね。そもそも自分を超えた存在に対して要求しちゃいけないと思っている。むしろ自分を生かしてくれているエネルギー、ビッグバンの頃に存在したエネルギーに感謝しているんです。自分は恵まれていると。20代の頃にこういう風に思えていたら、全然離婚なんかしないで済んだのにね。

20代の頃というと最初の奥様の岸田衿子さんだけれど、本当に今現在の谷川さんだったら結婚というものが上手くいくのだろうか。少なくともご本人はそう思っていらっしゃるのだろうか。私はちょっと疑っている。

ところで以前うちの近所の文学館で佐野洋子展があって、谷川さんがトークに来られたのですよ。私はそのチケットを買ってあったのに、誤って捨ててしまって 以来、谷川さんにお目にかかる機会はいまだにないのでありました。まあ本気でお会いしようと思えば機会はいくらでもあるのですが。


『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎1

2019-08-20 20:56:55 | 

「その出会いがなかったら今私は生きていなかったかもしれない」という存在は誰にでもあると思うけれど、私の場合は、同時代の人をあげるなら龍村仁監督、谷川俊太郎さん、中島みゆきさんの3人。同時代でない人も加えるなら+漱石、でしょうか。
皆、10代の頃に出会いました。

先日図書館で『考える人 2016年夏号』を借りたのです。
谷川さんの特集が載っていることを知ったので。
そもそもこういう雑誌が新潮社から出ていたこと自体を今回初めて知ったのですが、これ、いい雑誌ですねえ。考える人っていうタイトルもよい。残念ながら2017年で休刊になっていて、今はwebマガジンとして存続しているようです。

谷川さんの特集は北軽井沢の別荘の写真も多く掲載されていてとてもいいインタビューなので、ご興味のある方はぜひ図書館かバックナンバーで全文をお読みください
ここでは抜粋を。

谷川:…加藤周一さんが『日本文化における時間と空間』で、「今=ここ」が日本人の感性の中心にあるという言い方をされている。僕も本当に歴史が苦手で、痛いことも全然覚えてないし、未来にそんなに心配がないのね。くよくよしない。自分の「いま、ここ」に百パーセント満足して、エネルギーを集中するみたいな。

――その過去と未来のなさが、洗いたての印象を呼ぶのでしょうね。人は、できれば忘れたい。でも、忘れられない。だから羨望する。……多くの人から薄情と言われたかもしれませんが。

谷川:あ、それは自分でそうだと思ってますよ。人もそうとう傷つけた。でも、「薄情」でなく漱石のいう「非人情」だと。イギリスの詩人キーツは「デタッチメント」と表現しています。関心を持たないできたということでしょうね。(中略)他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです。唯一の例外が結婚。あそこまで深く付き合うと、やっぱり自分の欠点がボロボロ出てくるという感じですね。

漱石は非人情の世界に憧れ、ときにそこで心を休めながら、基本は人情の世界で生きた人ですよね。一方谷川さんは非人情の世界に身をおきながら人情の世界に憧れそこへ降りてこようとした人、だろうか(私の勝手なイメージ)。これって小説家と詩人の違いでもあるような感じがして興味深い。
似ていて違うようでやっぱり似ているような。人間の世界というものに対して臆病なところのある人達なのかな、とも。
そして非人情の視点を知っている人だけがもつ独特の視野の広さは、龍村監督やみゆきさんにも共通しているもののように思う。非人情やデタッチメントという言葉は昨年9月の朝日新聞のインタビュー記事では「人間と距離を置く」と括弧書きされていたけれど、「人間を含めた世界を俯瞰で眺める」という説明の方がわかりやすいのではないかしら(この「人間」には自分自身も含まれている)。
そういえば谷川さんはバッハやヘンデル、そしてグールドのピアノもお好きなんですって モーツァルトについての詩も書かれていますよね。