風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

漱石の『こころ』

2020-12-27 20:30:08 | 



写真は漱石の家、ではなく松江にある小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の家です
漱石はイギリスから帰国後に東京帝国大学英文科で教鞭をとりましたが、その前任者が八雲でした。口を開いた途端に教室中を詩的空気で満たしたという八雲の講義は学生達に大人気で、当初は漱石の分析的な硬い講義に不満を感じていた学生達も多かったそうです。中勘助が入学した1905年には既に漱石が教鞭をとっていましたが(勘助は漱石の講義は一高から継続)、勘助も八雲が好きだったようで、以前横浜で行われた中勘助展では蔵書として沢山の八雲の本が展示されていました。また漱石自身も、八雲の作品を好んでいたようです(夏目漱石、小泉八雲との思わぬ不思議な縁に驚く。@サライ)。以上は余談。

さて、相変わらず鬱鬱気味のワタクシ。先日ご紹介したポゴさんのインタビューの中に「無人島に一曲だけ持っていくなら?」という質問があったじゃないですか。私なら何を持っていくかなあと夜中に寝ころびながら考えていたら、目が冴えちゃって、再び鬱鬱気味になっちゃって、ふと漱石の『こころ』がひどく読みたくなり、本棚から取り出して読んだんです。真夜中に(笑)。決して一番好きな漱石作品とはいえないのに、このときはなぜか『こころ』一択でした。読んで、不思議なほど気持ちが落ち着きました。やっぱり漱石の本は私の薬なのだなあ。私の人生の中に漱石がいてくれてよかった。
そして前回読んだときに感じられなかったものも沢山感じられました。この本を読むのは数回目ですが、前回読んだのは、ブログを振り返ってみると、11年前。11年の間で、変わっていないようで私も変わっているのだな、と感じました。そして読むたびに新しい発見がある本であることを改めて感じました。

今回読んで強く感じたのは、先生の”罪の意識”と”心の孤独”の深さ。それらはこの本のメインテーマだから当然なのだけど、今回はこれまで読んだときよりも遥かにずんと重く心に響きました。

結局のところKも先生も、自分を殺すことでしか、自分を救う手段を見いだせなかったのだと思う。
Kは失恋をしたから、あるいは先生に裏切られたから自殺したわけではないよね。お嬢さんに恋をして、それまで自分が信じて築き上げてきた信念や生き方が崩壊してしまった。そこで自分を切り替えて新しい生き方を歩むのではなく、その世界とともに自分を消してしまうことしか彼にはできなかった。そういう不器用さ、脆さは『レ・ミゼラブル』のジャベールを思い出させます。
Kが言った「覚悟」という言葉の真の意味、また夜中に先生の部屋との間の襖を開けて寝ている先生に声をかけ「最近寝つきはどうなのか」と気にしていたのは、この時点で既に彼が自殺を考えていたからでしょう。それは先生とお嬢さんの結婚が発覚するよりも前のこと。発覚後も、Kはおそらく先生のことを恨んではいなかったと思う。

そして先生も。
Kの自殺が単純な失恋によるものだったなら、先生の罪の意識はまだ軽かったろうと思う。
でも先生は、彼を出し抜くために彼の根本部分を突く攻撃をし、彼が生きてきた人生そのものを崩れさせる方法をとった。自分を頼って相談をしてきたKに対して、「向上心のないものは馬鹿だ」という言葉をぶつけることで。それがKに対しては最も効果的であることを知っていたから。誰よりKという人間を理解していた先生だから成し得た方法。このときに先生がKを受け止めてあげていたら、おそらくKは死ななかったのではないか。
先生はKが自殺するとは夢にも思っていなかったのだけれども、自分が勝つためにそういう卑劣な方法をとり、結果としてKは死んでしまった。そのことに先生の心は耐えきれなかった。
その罪の意識は例え奥さん(お嬢さん)に全てを話すことができて、奥さんが許してくれたとしても(許してくれることは先生にもわかっていた)、おそらく変わることはない。
だからといって「何も知らないままの妻でいてほしい」という先生の想いは、奥さんへの甘えと身勝手さでしかないよね。

 私は一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです。・・・その時分の私は妻に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気(インキ)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
(「下 先生と遺書」五十二)

と先生は一人で決めてしまっているけれど、奥さんは絶対に全てを話してほしかったはずだし、話してもらえない方が奥さんにとって遥かに辛いことであったことは先生にもわかっていたはずだもの。
ただ先生が自殺した後でも奥さんに真実を知らせた方がいいのか?となると、どっちなのでしょうね。真実を知って「生きているときに話してくれていれば私にもやってあげられることがあったのに」という苦しみと、真実を知らされないまま「あの人は何を悩んでいたのだろう、どうして死んだのだろう」と夫を最後まで理解できないままであることの苦しみと、どちらがましなのだろう。私なら、やっぱり真実を知りたいかな…。
思うのだけど、先生はKが死んでしまった時点で、結婚をやっぱり止めにすればよかったのだと思うのよね。そうすれば不幸な人が一人減ったのに。まあ恋をしていたし、結婚して奥さんを幸せにすることで少しでも贖罪に繋がると当初は思っていたのかもしれないけれど。

 叔父に欺かれた当時の私は、他(ひと)の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他(ひと)を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事(みごと)に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他(ひと)に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
(「下 先生と遺書」五十二)


こうして自分自身を信じられなくなり、自分を軽蔑するようになった先生は、世間とも奥さんとも距離をおくようになっていく。
そして世界の誰とも理解し合えず、世の中にたった一人住んでいるような寂しさを覚えたとき、再びKの自殺の原因に思いを巡らし、「Kも同じだったのではないか」と思うようになる。
つまり失恋したからではなく、信じてきた道が崩れたからだけでもなく、自分と同じように淋しくて仕方がなかったのではないか、と。他者と分かち合えずたった一人で抱えるしかない心の、凄絶な孤独。

 ・・・酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極(き)めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易すくは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。
(「下 先生と遺書」五十三)

 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
(「下 先生と遺書」五十四)

ところで先日、こんなページを見つけたんです。
吉本隆明氏の1960年代~2000年代の183の講演録(ほぼ日新聞)
漱石に関する講演もいくつかあって、私と捉え方が違うところもあるけれど、とても面白い。
この中で吉本氏は「漱石が作品で繰り返し描いている三角関係を漱石の実体験とする研究者も多いが、自分は漱石の人間的資質によるものだと思う。」と言っています。「『こころ』は西欧の姦通小説とは全く異なる展開を迎えるが、それは漱石が無意識に書いている先生とKの同性愛的関係が理由ではないか。」と(ここでは肉欲的関係ではなく、精神的関係)。
これは私も同感で、そういう風に見ると、先生の心の動きや行動が全て自然に理解できるのです。つまり先生は親友を裏切った自責の念だけで自殺したのではなく、劣等感を抱くほどの畏怖と憧れの対象であったKをああいう形で失い、その心の空白と寂寥を生涯埋めることができなかったのではないか、と。
ただ、作品として読む上では、それが同性愛か否かを突き詰めて答えを出さなくてもいいように思います。なぜなら作者の漱石自身がそれを意識的に書いているわけではないのだし、私達も自分の感情の全てに名前をつけて理解しているわけではないのだから。
ちなみに漱石をお好きな政治学者の姜尚中さんは、先生とKの関係を「一人の人間の分身」と捉えていらっしゃいます。私は未読ですがエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルスン』というドッペルゲンガーを扱った怪奇譚があるそうで、もしかしたら漱石はそれを読んでいて『こころ』はその影響を受けているのではないか、とのこと。漱石はポーの短編集の和訳に序文を書いてもいるそうです。

話を戻して、最後に、語り部である”私”について。
もしかしたら先生は”私”と出会わなかったら自殺していなかったのではないか、と思うときがあります。死んだように生き続けていったのではないか、と。でもそれが先生にとって幸せだったかというと、別の話。
”私”との出会いは先生にとって幸福なものだったろうと思う。先生はKの中にあったのと同じような誠実さ、真面目さ、善良さを”私”の中にも感じたのではないか。そしてなにより”私”は、これからの未来を生きていく若者だった。

「・・・先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風に、私の顔を見た。巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐(あば)いてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
(「上 先生と私」三十一)

 ・・・私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。(中略)その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極(きょく)あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
(「下 先生と遺書」二)


 波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻が見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟(ひっきょう)私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼を瞠るかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
 私は今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を惹かされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻(く)べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
 同時に私だけがいなくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐を、私は腸(はらわた)に沁み込むように記憶させられていたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顔を見て、止してよかったと思う事もありました。そうしてまた凝と竦んでしまいます。そうして妻から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。
 記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました。
(「下 先生と遺書」五十五)

 私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
(「下 先生と遺書」五十六)

信頼を置ける真面目な”私”という人間に出会え、自分の人生の経験を埋もれさせず”私”に話して未来への種とすることができたことで、先生のこころは少し救われ、安心して死んでいくこと(ずっと実行したいと思っていたこと)を心置きなくできるようになったのではないか。明治天皇の崩御と乃木大将の殉死(=明治という時代の終焉)を時機として。

それにしても”私”の立場になって考えると、ものすごく重いものを渡されたよね(しかも奥さんには真実を言うなと釘を刺されているし)。先生があれほど自分の過去を”私”に語ることに慎重になったのは、そういう理由もあったのかもしれませんね。それでも聞きたい、人生の教訓を得たいと”私”が言い、彼になら話せる、話したいと感じたから、先生は話したのでしょう。
いずれにしても遺された者が抱えていかねばならないものの重さは、逝った者が抱えていたものと同じくらい、あるいはそれ以上に大きいのではないだろうか。それはかつての先生も、これからの”私”も、そして奥さんも同じ。

漱石は世の中から、そして自分の内面から決して目を逸らさない。綺麗な面も汚い面もじっと見つめ続け、逃げずに立ち向かう。たとえ自分が傷つくことになっても。私が読んだことのあるあらゆる作家の中で最も真面目な人は、漱石なのではないかと思う。真面目で、誠実で、不器用。
漱石が『行人』の後に書いた作品が『こころ』です。以前もここで書いたことがあるけれど、当時の漱石が血を吐くような想いで(身体的にもそうだったのだけれども)見つめようとしている微かな希望の光に、私は心を揺さぶられずにいられない。

それぞれがそれぞれの心に抱える、他者と分かち合うことができないどうしようもない孤独。それは漱石自身の性格によるところももちろんあったろうけれども、漱石は現代の病でもあると言っています。社会の関係が希薄になり、<自由と独立と己とに充ちた現代>に生きる私達がその犠牲として背負わねばならないものなのだと。
そして旧時代から新時代への過渡期に生きてその変化を目の当たりにしてきたのが、明治を生きた人々だった。Kも先生も乃木大将も漱石も皆、明治の人だ。でも先生は自死を選びはしたけれど、先生も漱石も、古い時代に親しみを感じながらそれを全肯定することはせず、新しい時代に批判的な感情を抱きながらそれを全否定することもしない。なぜなら、それでも新しい時代はやってくるから。もう始まっているから。私達はその時代を生きていく以外にないから。前へと進むしかないことがわかっているから、苦しみの中で、漱石の目はしっかりと未来に向けられている。その姿は漱石が明治44年に行った『現代日本の開化』の講演を思い出させます。
漱石の作品の中でも『こころ』が一番好きだという姜尚中さんは、NHKの100分de名著に寄せて、こんな風に書かれています。姜さんの解釈は、私ととても近いものです。

鷗外は明治の終焉の号砲を聞くや過去に目を向け、「歴史小説」を書きはじめました。そこに「失われてしまった美しいもの」を見たからです。しかし、漱石は歯を食いしばって前に向かいました。「あまりいいこともありそうにない憂鬱な未来」から目をそむけなかったのです。その意味では、ややパターン的な分類ですが、明治の終わりとともに鷗外は「様式」に向かい、漱石は「心」に向かった──といえるのかもしれません。
「未来が閉塞すると、人は過去へ戻りたがる」という言葉があります。しかし、漱石はそれをしませんでした。本人の語彙を使えば、涙をのんで上滑りに滑りながら、ぎりぎりもちこたえたのです。血を吐く思いで、じっさい近代の深淵を書くことの重圧から心身を病んで血を吐きながら、前のめりに滑っていったのです。その態度を私は「漱石的真面目」と名づけたいと思います。その真面目さが、私を惹きつけてやまないのです。
見渡せば、いま個人と個人の距離はますます隔たって、隙間風が吹き荒れているようです。一つ一つの心は宇宙の塵のようにみじんにバラけて、無音の真空空間をさまよっているようです。「心の時代」と言われて久しいですが、おそらくいまほど心の問題を考えねばならない時代はないでしょう。「未来を予見する人」漱石は、こんな今日のわれわれの「心」のありさまも、見通していたのかもしれません。
姜 尚中 名著、げすとこらむ。

最後に、今回読み返して、漱石らしいとニヤニヤしてしまった場面がこちら
大学(おそらく東京帝国大学)を無事卒業した”私”は、卒業式の晩に先生の家の晩餐に招かれます。その席での会話。こういうところも、私が漱石を大好きな理由の一つです。

 私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
(中略)
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。奥さんは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にして席を占めた。

「お目出とう」といって、先生が私のために杯を上げてくれた。私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆(そそ)る浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
(「上 先生と私」三十二)

今年のブログの更新はこれで最後です。
皆さま、今年も当ブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。
健康にお気をつけて、よいお年をお迎えください

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