シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

告白(原作本)

2010-10-18 | 
映画を見てすぐに原作本を買い、ワタクシにしてはかなり早いペースで読み終わりました。すぐに読破できてしまうほど、読みやすいし、面白いです。

原作は本当に“告白”なんですね。ト書きも場面描写も何もなく、ただただ登場人物が順番に告白していく。これを読むと本当にこれをよく映画化したなぁと感心します。

映画と同じようにまずは「聖職者」という章で森口悠子先生が淡々と生徒の前で話し始める。先に映画を見ているので、松たか子が話す様子がどうしても頭に浮かんでしまうのだけど、本では実際のサカキバラの事件などを例に挙げ、「調子に乗ったあて字を使っている」とか「マスコミは難しい漢字を知っているとでも言いたいのですかねぇとバカにしてやればいい」とかかなり過激なことを言っている。映画ですらゾッとした森口悠子の語りだけど、本のほうがずっとゾッとすることを言っているんですよね。この辺はさすがに映画のセリフには入れられなかったんでしょうね。

そこから「殉教者」美月、「慈愛者」直君の母の日記、「求道者」直君、「信奉者」修哉と続き最後に「伝道者」としてもう一度森口が登場する。
美月は雑誌に投稿した文章、直君の母は日記、修哉はホームページへの遺書、森口は修哉への電話とそれぞれの「告白」の手段が示されているが、直君だけはこれがなんなのか分からない。捕まってからの直君の夢といったところか。

美月は「どうしても先生に聞きたいことがあるのです」と言っていて、それは「少年二人を自分が直接裁いたことを今どう思っていますか?」ということだった。美月は唯一と言っていいすべての「観察者」であったわけだけど、そのすべてを目撃した彼女はやはり先生は後悔してるんじゃないかと思ったのかな?後悔していてほしいと。それは直君へも修哉君へも感じた恋心のせいだったのかもしれないけど。

映画で語られていない部分というのは「慈愛者」の直君の母親の部分と「求道者」の直君の部分が多いかも。
直君の母は彼女なりに、学校に行かなくなった直君を病院に連れて行ったり、いろいろと試行錯誤していて、ただの甘やかすだけの母親じゃないのかもと途中まで思わせる感じはしたのだけど、「ひきこもりというのは家庭に問題があって起きるのだから、直君はひきこもりじゃない」と結論付けているあたりから、んーこの人やっぱなんかズレてるな、と思った。でも、ある程度なら彼女の気持ちも理解できるという母親も多いのかな。息子が殺人を犯したと知ってから警察に行くよりも無理心中を選ぶというのは、倫理的にはダメなんだろうけど、親なら理解できる人も多いのかもしれない。

直君は結局2つの殺人を犯すことになるのだけど、どちらの殺人もキーワードは「失敗」だった。愛美ちゃんを殺したときは修哉に「お前は失敗作」と言われ、母親を殺したときには母親に「子育てに失敗してごめんね」と言われたことがきっかけだった。あまりにも母親に肯定されて生きてきた自分の虚像と実像のギャップを埋められないまま直君は2人を殺してしまった。

修哉の遺書に関しては、あまりにもあまりにも、ある意味では直君よりも甘すぎる。殺人者の頭の中がこんなことでは到底納得がいかない。ただ母親に甘えたいだけの駄々っ子の言い分でしかない。でもなぁ、少年犯罪なんてこんなものなのかもしれないなぁ。だからこそ、やはり親子関係っていうのは重要なのかな。

最後の森口の電話はいよいよ映画のクライマックス。これを読んでスッキリするか、後味が悪いと思うか両極端に分かれるところか。ワタクシはぶっちゃけスッキリしちゃったけどね。それでも森口の心は晴れないし、愛美は帰ってこないけど。ワタクシは「修哉君の本当の意味での更生がここから始まる」というセリフをどう受け取っていいのかいまだによく分からない。でも森口のどす黒い感情をただ醜いとは言えないんだよなー。

本の最後に映画化するにあたって中島哲也監督にインタビューしたものが載っているのですが、ここでまたまた中島哲也監督の天才っぷりを再確認させられました。だって、映画ではこういうことを狙いたいっていう監督の意図が、もう完璧に伝わってたってことが分かったですもん。松たか子に出した指示とか、生徒たちとの話合いとか。それから、登場人物たちがどの程度本当のことを言っていて、どこで嘘を言っているかっていう記述もすごく興味深かった。ワタクシは彼らが嘘を言っているなんて、まったく思わずに映画も本も見ていたんだけど、確かに監督の言うように彼らがすべて本当のことを語っているとは限らないんですよね。あのインタビューを読んでしまうと、また最初から映画も本もチェックしたくなります。