オリオン村(跡地)

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島津家の野望 第6章

2007-11-19 00:21:18 | ゲーム

 

永正13年(1516年)夏、加治木城の大広間に主立った家臣が顔を揃えていた。

「善久、今日よりそなたが島津家当主ぞ。」
島津久逸が嫡男・善久に向かって言った。
「謹んで家督を相続させていただきます。今後ともご指導の程、よろしくお願いいたします。」
やや紅潮した顔を父に向けた善久は、深く頭を下げた。
「そなたも既に50歳、むしろ遅すぎた感もある。今後は存分に腕を振るうがよい。」
久逸はそう言うと、立ちあがって上座を空けた。
善久は戸惑いながらも上座に座り、居並ぶ家臣たちに決意の表情を向けた。
「父上ほどの力は私にはないが、私は私である。これからも父上と同様に、私に力を貸して欲しい。」
「かしこまってござりまする。家臣一同、善久様に忠誠を誓いまする。」
筆頭家老の伊集院忠公が平伏すると、他の家臣たちも同様に平伏した。
「うむ。引き続き忠公に筆頭家老、忠武に二番家老を申しつける。成久殿、忠朝殿、伊東殿、相良殿、そして我の5軍体制もそのままとする。」
代替わりによる変化を心配していた家臣たちから、安堵のため息が漏れた。
「加えて三番家老に長久を任ずる。」
「私めがでござりまするか。」
樺山長久が驚いた表情で善久に問いかけた。
「当家に仕えてから十余年、そちの働きは皆も存じておろう。本宗家との繋がりもあり、忠昌殿と交渉するにはそちが適任でもある。」
本宗家から出奔してきてから久逸の側で内政を司ってきた長久は、既に譜代としての地位を築いていた。
「長久殿、殿の補佐を頼みましたぞ。」
「長久殿が殿のお側にいてこそ、我らも安心して戦えると言うものよ。」
忠公と忠武の言に、多くの家臣たちが頷いた。
「かたじけなきお言葉、この長久、一命を賭して殿の為に働きまする。」
涙混じりの長久の言葉に、微笑みながら頷く善久の姿があった。

「して忠公、各地の動向はいかがなっておる。」
「正直申し上げまして、あまり順調とは申せませぬ。」
忠公は地図を広げながら、苦々しい表情で答えた。
「隈本城攻めは既に3年も城を囲んでおりまするが、未だ菊池殿は意気盛んとのことでござりまする。」
「加えて、岡城攻めも成久殿が失敗して後に伊東殿が引き続き城を囲んでおりまするが、未だ糸口を見いだせないとのことでござりまする。」
忠武が続けた。
「理由はどこにあると考える。」
「やはり補給路の問題が大きいかと。薩摩より肥後、豊後への補給は困難を極めまする。」
忠公の言に、忠武も頷いた。
「やはり各々の本拠を北上するがよいかと存じまする。」
「しかし加治木は忠昌殿の動向を考えれば、空けることはできないのではないでしょうか。」
それまで黙っていた島津忠良、善久の嫡男が口を開いた。
「やはり清水城に使者を送り、忠昌殿にご納得いただくことが急がれまする。」
忠公は久逸の顔を横目で窺いながら、厳しい表情で善久に言った。
「場合によっては・・・」
「もうよい。本宗家の事は大殿と長久とに任せて、そちらは引き続き肥後、豊後の攻略に向かうがよい。」
善久の言葉に、家臣一同が平伏した。

「しかし思い切りましたな。」
久逸の居室で、忠公が久逸に言った。
「やはり細川殿の動向でござりまするか。」
「うむ、当家にもかなりの素破が入り込んでいるようだ。」
「当家に限って細川殿の誘いにのる者がいるとは思えませぬが。」
忠公の言に、久逸が強い表情で答えた。
「今はよい。しかし我も76歳で、いつ死が訪れるか分からぬ。」
「それゆえ善久殿に家督を譲られ、家中を引き締めるということでござりまするか。」
「我が死ぬことでの相続となれば、家中が動揺して細川殿に付け入る隙を与えかねぬ。」
「大殿のご意向、この忠公、確かに承りましてござりまする。善久殿を中心とした新しい島津家を作ってみせましょう。」
忠公の言葉に、久逸は満足げに頷いた。


永正7年 (1510年)春  島津成久を大将とした軍を岩尾城の攻略に向かわせる。相良治頼を大将とした軍を岩尾城の攻略に向かわせる。
永正7年 (1510年)冬  島津忠朝を大将とした軍を府内館の攻略に向かわせる。伊東尹祐を大将とした軍を府内館の攻略に向かわせる。
永正8 年(1511年)春  島津忠朝が府内館を救援にきた筑後国・国人衆の黒木家永を撃退する。
永正8 年(1511年)夏  島津忠朝が府内館を救援にきた豊後国・国人衆の山下長就を撃退する。
永正8 年(1511年)冬  相良治頼が岩尾城を下し、阿蘇家が従属する。伊東尹祐が府内館を下す。
永正10年(1513年)春  島津成久を大将とした軍を岡城の攻略に向かわせる。
永正10年(1513年)秋  相良治頼を大将とした軍を隈本城の攻略に向かわせる。
永正11年(1514年)春  幕府より問註所執事に任ぜられる。
永正11年(1514年)冬  岩尾城の阿蘇惟長が臣従する。
永正13年(1516年)春  朝廷より正四位上・中務卿に叙任される。島津成久が岡城の攻略に失敗する。伊東尹祐を大将とした軍を岡城の攻略に向かわせる。
永正13年(1516年)夏  島津久逸が隠居し、嫡男・善久が家督を相続する。

 

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