オリオン村(跡地)

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島津家の野望 第7章

2007-11-24 02:53:40 | ゲーム

 

永正15年(1518年)春、加治木城の善久の居室に重臣たちが顔を揃えていた。

「しかし忠昌様が膝を屈するとは驚きましたな。」
筆頭家老の伊集院忠公がしみじみと呟いた。
「あれだけ苦労していた岡、隈本攻めもあっさり片が付くとは、こは殿のご威光かと存じまする。」
二番家老の新納忠武が頷きながら続けた。
「おだてるでない。代替わりで皆が奮起してくれたおかげであろう。」
島津家当主、島津善久が苦笑混じりに答えた。
「忠昌様が旗を降ろされたは嫡男の忠治殿のご尽力によるところが大きい。惜しい方を亡くしたものよ。」
本宗家・島津忠昌の嫡男・忠治は、伊作家への臣従が決まった半月後に30歳の若さで病没していた。
「忠治殿の必死の説得に、忠昌様もついに観念なされたと聞いておりまする。」
「ご子息の忠朗殿が忠治殿に協力されたからこそ、と忠隆殿が申しておりました。忠公殿はよい跡継ぎをお持ちで羨ましい。」
忠公の言葉に、肝付城から復帰したばかりの肝付兼固が続けた。
忠隆とは島津忠昌の次男、忠治の次弟にあたり、忠治の病死により本宗家の跡継ぎとなっていた。
「確かに。忠朗殿が本宗家に出仕したと聞いた時には驚きましたが、こういった深慮遠謀があろうとはさすがは忠公殿でござる。」
三番家老の樺山長久の言に、忠公はまんざらでもない表情を隠さなかった。
「あれは忠朗が勝手にやったこと、どうも我ら親子は仲が悪うて忠朗が戻ってきて居心地がちと悪くて困る。」
忠公の照れたような表情に、重臣たちは笑いをかみ殺していた。

「これで後顧の憂いなく、九州統一に専念できまするな。」
忠公が表情を引き締め、地図を広げた。
「伊東殿には城井谷を本拠に、大内殿の城を攻め落としていただきまする。また忠朝殿には府内を足場に四国の攻略をそのまま続けていただきまする。」
「成久殿は柳河を本拠にして横岳殿の攻略に専念いただき、相良殿には隈本から成久殿の支援をしていただきまする。」
忠武が続けた。
「殿には忠朝殿が岩瀬を陥として後、府内にお移りいただきまする。」
「四国方面が手薄に思えますが、忠朝殿だけで大丈夫でしょうか。」
善久の嫡男、忠良が心配そうな表情で善久に問うた。
「うむ。府内に移った頃には北九州の有力武将も傘下に入っておろう。それらを運久殿に預け、第六軍としようと考えておる。」
既に話を聞いていたのか、相州家・島津運久が小さく頭を下げた。
「なるほど、運久殿であれば適任でございます。これで細川殿からの攻勢も何とか凌げましょう。」
管領・細川政元は既に34ヶ国を支配しており、九州にもその手を伸ばし始めていた。
「後顧の憂いがなくなったからには、細川殿の思い通りにはさせぬ。九州の強兵で畿内の弱兵など打ち破って見せようぞ。」
善久の言葉に、重臣たちが大きく頷いた。


永正13年(1516年)夏  幕府より問註所執事に任ぜられる。
永正13年(1516年)秋  朝廷より正六位下・薩摩守に叙任される。伊東尹祐が岡城を下し、大友家を滅ぼす。
永正13年(1516年)冬  朝廷より正六位上・大内記に叙任される。相良治頼が隈本城を下し、菊池家が従属する。
永正14年(1517年)秋  島津忠朝を大将とした軍を岩瀬城の攻略に向かわせる。伊東尹祐を大将とした軍を城井谷城の攻略に向かわせる。
永正14年(1517年)冬  隈本城の菊池政隆が臣従する。伊東尹祐が城井谷城を下す。
永正15年(1518年)春  朝廷より従五位下・甲斐守に叙任される。清水城の島津忠昌が臣従する。

 

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