電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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[箴言二十九]
心身統一の達成を志すものは
感応性能の積極化ということには
限度がないということを忘れてはならない
If you aim at the achievement of unifying your mind and body,
you must not forget the fact that there is no limit to making your
susceptibility positive and constructive.
『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p270 )
そもそも天風会が五十年来唱道垂示(しょうどうすいじ)しつつある心身の統一法とは、適者生存の真理に遵(したが)い、心身一如の真事実を現実化し、人生に必枢(ひっすう)欠くべからざる健康と運命とを確保し、再度くり返すことのできないわれわれの人生を真実活きがいのあるものとして、その全生涯を如実に有意義にすることを終始一貫その全目的としていることは、われら天風会の全会員が十分に知り尽くしているところである。
そしてその根本原則として、心と身とを結合する唯一の中枢たる神経系統の生活機能を極めて順調に作用させることが、その第一の要訣であるということ、しかもこの目的を現実にするには、何をおいても精神生命生存を厳として自然法則に則(のっと)って処理することがその先決的要訣であるということ、またさらに精神生命の生存を自然法則に則って処理するということは、換言すれば精神生命の本然に即応して、いかなる場合、いかなることにも、その心的態度をあくまで積極的に堅持していかなければならないということ、これらは皆さんに敢(あ)えて贅言(ぜいげん)を要せざる理解であると信ずる。
がしかし、この点までの理解がいかほど明快であっても、平素力説するごとく、精神生命固有の感応性能がまずそのアンバランスを矯正して、確実に作用するように積極的に調整されないと、せっかくの理解があたら空念仏(からねんぶつ)に終わる憂いがある。
多くの会員諸子の中に、きわめて稀(まれ)ではあるが、ときたま心身統一法の理解が徹底的に明解されているにかかわらず、いざというときに、たとえば図らずも病患に襲われたとか、または運命的不慮のできごとに遭遇すると、そもそも何のために真理を理解したのか? と思われるような人がいる。
これはつまり、先に紹介した大切な精神生命固有の感応性能が、いつしかその積極程度に間隙(かんげき)を招来してアンバランスになったか、または知らず知らずの間に消極化したからである。
こういうと、あるいはその人はいうであろう。「随分と一生懸命教義を実行しているのに」と。しかし、特に注意すべきはこの点である。何しろ形容のできない複雑な今日は、文字通りマスコミュニケーションの時代である。たとえ懸命な努力で感応性能の調整に必要な教義や方法を実行しても、ややもすると強烈な他面暗示事項のためにその悪影響で、前掲の通りまったく知らず知らずの間に感応性能作用を不調和にされてしまうというように、これまた文字通り今日は油断のできない時代なのである。ところが、多くの会員諸子の中には、心身統一法を理解し、その教義と方法を実行すると、まもなく打って変わったように精神生命状態が積極的態度になり、自分自身でも驚くほどの頼もしい変化を実際的に実感すると、それですっかり喜悦の心持ちと共に安心感を感じて、もう完全にできたと思う考え方を抱く人がある。
これがいけないのである。これは遠慮なくいうと軽率な自己判断である。
過去の話であるが、終戦前に兄弟二人で入会し、二人とも相当熱心に来会しているうちに、兄なる人のほうがとかく講習会に出席しなくなったので、弟が出席を誘いにいくと、
「おれはもうすっかりわかって完全に卒業したから、そうちょいちょい行かなくともよい」
と傲然(ごうぜん)といって、弟の熱心な誘いにも応じなくなった。弟は兄のこの様子にすこぶる失望を感じたものの、尊属のことでもあり強いることもできずにいるうち、何と兄なる人は、ふとした軽い感冒におかされたのが原因で、結局急性の肺炎でついに落命してしまった。
これは古い仏道の説教の語句の中にも厳しく戒めてある通り、
「悟れたと思った時が迷いなり」
というのに該当する。
というのは、人生には、もう完全に理解したとか、あるいは卒業したとかいうことはありえないのである。
否、断然ありえないのが人生である。
否、否、人生とはそんな単純なものではないのである。
現にいつも講演のとき話す通り、あの当時世人から「いきほとけ」とまで尊ばれ、禅家の名僧であった石川素道師ですら、65歳のときに天風会に杉浦重剛先輩の紹介で入会されたとき、いまだ素道禅師よりも20年も若年であった筆者が「貴僧はすでに悟入徹底の方とお見受けするが、何の必要があって後輩者の説を聴こうとされるのですか?」と質問したところ、率直に「悟入徹底未(いま)だし、況(いわ)んや教法の実行に於いてをや」と明瞭にいわれて、さらには「人生というものは、なかなかもって悟れるものではござらん」としみじみいわれて、実にお亡くなりになる間近まで杉浦先輩と同伴で、熱心に聴講されていた。
実際、その真理に対する謙虚な態度は、演壇上から思わず合掌したい気持ちにしばしばならされたという、私には価値の高い思い出がある。
そして私の降壇後、親しく私の傍らに来られて恭(うやうや)しく合掌礼拝されて、「今日もまた有り難いかな、煩悩心が洗われました」と心の底から感謝されるには、当時まだ若輩だった私は、思わず内心忸怩(じくじ)たるものをしばしば感じ、いっそう自己の研修心に拍車(はくしゃ)をかけたものである。
事実において、こういうえらい人というものは、決してできたとか、あるいは徹底したとかということを、かりそめにも口にしない。
およそ人生道に果てなしということを十分に悟られているからで、それもこれも、要約すれば、前掲の箴言に記載してある通り、人の一番大切な、心の働きを左右する「感応性能」なるものが、その積極化を強要する点において、何らの限度がないからである。
換言すれば、久劫永遠の宇宙生命と相対比例の下に、まことにそれは驚異に値する無限的な存在以上の実在であるがためである。
さすれば、普通の場合、ともすれば忘れられがちな、人生の大消息を思いを新たにしてさらに心に受け入れ、さらにひとしおの努力に鞭(むち)打って、感応性能をいやが上にも正確かつ鋭敏にして、真実の積極化を現実化し、そして的確に把握することのできる人生の幸福を、わがものにしていこうではないか。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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[箴言二十九]
心身統一の達成を志すものは
感応性能の積極化ということには
限度がないということを忘れてはならない
If you aim at the achievement of unifying your mind and body,
you must not forget the fact that there is no limit to making your
susceptibility positive and constructive.
『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p270 )
そもそも天風会が五十年来唱道垂示(しょうどうすいじ)しつつある心身の統一法とは、適者生存の真理に遵(したが)い、心身一如の真事実を現実化し、人生に必枢(ひっすう)欠くべからざる健康と運命とを確保し、再度くり返すことのできないわれわれの人生を真実活きがいのあるものとして、その全生涯を如実に有意義にすることを終始一貫その全目的としていることは、われら天風会の全会員が十分に知り尽くしているところである。
そしてその根本原則として、心と身とを結合する唯一の中枢たる神経系統の生活機能を極めて順調に作用させることが、その第一の要訣であるということ、しかもこの目的を現実にするには、何をおいても精神生命生存を厳として自然法則に則(のっと)って処理することがその先決的要訣であるということ、またさらに精神生命の生存を自然法則に則って処理するということは、換言すれば精神生命の本然に即応して、いかなる場合、いかなることにも、その心的態度をあくまで積極的に堅持していかなければならないということ、これらは皆さんに敢(あ)えて贅言(ぜいげん)を要せざる理解であると信ずる。
がしかし、この点までの理解がいかほど明快であっても、平素力説するごとく、精神生命固有の感応性能がまずそのアンバランスを矯正して、確実に作用するように積極的に調整されないと、せっかくの理解があたら空念仏(からねんぶつ)に終わる憂いがある。
多くの会員諸子の中に、きわめて稀(まれ)ではあるが、ときたま心身統一法の理解が徹底的に明解されているにかかわらず、いざというときに、たとえば図らずも病患に襲われたとか、または運命的不慮のできごとに遭遇すると、そもそも何のために真理を理解したのか? と思われるような人がいる。
これはつまり、先に紹介した大切な精神生命固有の感応性能が、いつしかその積極程度に間隙(かんげき)を招来してアンバランスになったか、または知らず知らずの間に消極化したからである。
こういうと、あるいはその人はいうであろう。「随分と一生懸命教義を実行しているのに」と。しかし、特に注意すべきはこの点である。何しろ形容のできない複雑な今日は、文字通りマスコミュニケーションの時代である。たとえ懸命な努力で感応性能の調整に必要な教義や方法を実行しても、ややもすると強烈な他面暗示事項のためにその悪影響で、前掲の通りまったく知らず知らずの間に感応性能作用を不調和にされてしまうというように、これまた文字通り今日は油断のできない時代なのである。ところが、多くの会員諸子の中には、心身統一法を理解し、その教義と方法を実行すると、まもなく打って変わったように精神生命状態が積極的態度になり、自分自身でも驚くほどの頼もしい変化を実際的に実感すると、それですっかり喜悦の心持ちと共に安心感を感じて、もう完全にできたと思う考え方を抱く人がある。
これがいけないのである。これは遠慮なくいうと軽率な自己判断である。
過去の話であるが、終戦前に兄弟二人で入会し、二人とも相当熱心に来会しているうちに、兄なる人のほうがとかく講習会に出席しなくなったので、弟が出席を誘いにいくと、
「おれはもうすっかりわかって完全に卒業したから、そうちょいちょい行かなくともよい」
と傲然(ごうぜん)といって、弟の熱心な誘いにも応じなくなった。弟は兄のこの様子にすこぶる失望を感じたものの、尊属のことでもあり強いることもできずにいるうち、何と兄なる人は、ふとした軽い感冒におかされたのが原因で、結局急性の肺炎でついに落命してしまった。
これは古い仏道の説教の語句の中にも厳しく戒めてある通り、
「悟れたと思った時が迷いなり」
というのに該当する。
というのは、人生には、もう完全に理解したとか、あるいは卒業したとかいうことはありえないのである。
否、断然ありえないのが人生である。
否、否、人生とはそんな単純なものではないのである。
現にいつも講演のとき話す通り、あの当時世人から「いきほとけ」とまで尊ばれ、禅家の名僧であった石川素道師ですら、65歳のときに天風会に杉浦重剛先輩の紹介で入会されたとき、いまだ素道禅師よりも20年も若年であった筆者が「貴僧はすでに悟入徹底の方とお見受けするが、何の必要があって後輩者の説を聴こうとされるのですか?」と質問したところ、率直に「悟入徹底未(いま)だし、況(いわ)んや教法の実行に於いてをや」と明瞭にいわれて、さらには「人生というものは、なかなかもって悟れるものではござらん」としみじみいわれて、実にお亡くなりになる間近まで杉浦先輩と同伴で、熱心に聴講されていた。
実際、その真理に対する謙虚な態度は、演壇上から思わず合掌したい気持ちにしばしばならされたという、私には価値の高い思い出がある。
そして私の降壇後、親しく私の傍らに来られて恭(うやうや)しく合掌礼拝されて、「今日もまた有り難いかな、煩悩心が洗われました」と心の底から感謝されるには、当時まだ若輩だった私は、思わず内心忸怩(じくじ)たるものをしばしば感じ、いっそう自己の研修心に拍車(はくしゃ)をかけたものである。
事実において、こういうえらい人というものは、決してできたとか、あるいは徹底したとかということを、かりそめにも口にしない。
およそ人生道に果てなしということを十分に悟られているからで、それもこれも、要約すれば、前掲の箴言に記載してある通り、人の一番大切な、心の働きを左右する「感応性能」なるものが、その積極化を強要する点において、何らの限度がないからである。
換言すれば、久劫永遠の宇宙生命と相対比例の下に、まことにそれは驚異に値する無限的な存在以上の実在であるがためである。
さすれば、普通の場合、ともすれば忘れられがちな、人生の大消息を思いを新たにしてさらに心に受け入れ、さらにひとしおの努力に鞭(むち)打って、感応性能をいやが上にも正確かつ鋭敏にして、真実の積極化を現実化し、そして的確に把握することのできる人生の幸福を、わがものにしていこうではないか。