電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意して決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

南の海に住む泥(でい)という動物――興膳宏

2024-05-23 | 04-歴史・文化・社会
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「酔いて泥の如し」は、李白の友人だった杜甫の詩にも用いられているが、その解釈で一つ問題が出てくる。宋のある解釈では、「泥」についてこんな説を立てている。「南の海に住む泥(でい)という動物は、骨なしのぐにゃぐにゃで、水中にいるときは生き生きしているが、水から出ると酔っぱらって、ドロのかたまりみたいになる」。この説明では、ナマコのようなものだろうか。これが「泥の如し」の「泥」というわけだ。


◆南の海に住む泥(でい)という動物

漢字コトバ散策「泥酔」――「泥」の解釈で疑問残る、
興膳宏 京都国立博物館長
( 日経新聞(朝刊)2004.12.12 )

忘年会のシーズンになって、何かと飲む機会が多い。つい飲みすぎて終電車に乗りおくれたり、乗りはしても、居眠りをして乗り越す人もいる。寒風の吹きつける駅のベンチで、正体なく眠りこけている酔っぱらいもよく見かける。

意識不明になるまで酔っぱらうことを、「泥酔」という。酒仙として有名な李白は、しばしば「酔いて泥の如し」という表現で自分の酔態を描く。その一つ「内(つま)に贈る」という五言絶句はいう。

三百六十日
日日 酔いて泥の如し

自分は一年三百六十日、毎日のように酔っているというのがこの前半二句で、そんなおれに連れ添ったお前は気のどくにねえ、と妻への同情を詠(うた)うのが後半である。何しろ「百年 三万六千日、一日 須(すべから)く三百杯を傾くべし」(「襄陽歌(じょうようか)」)とうそぶく李白のこと、「泥の如く酔う」という描写も真に迫っている。

この「酔いて泥の如し」という成句は後漢のころからすでにあって、李白はそれをうまく利用している。「べろべろ」とか「ぐでんぐでん」などの擬態語で形容される酔態は、「ドロの如し」というイメージにぴったりである。

「酔いて泥の如し」は、李白の友人だった杜甫の詩にも用いられているが、その解釈で一つ問題が出てくる。宋のある解釈では、「泥」についてこんな説を立てている。「南の海に住む泥(でい)という動物は、骨なしのぐにゃぐにゃで、水中にいるときは生き生きしているが、水から出ると酔っぱらって、ドロのかたまりみたいになる」。この説明では、ナマコのようなものだろうか。これが「泥の如し」の「泥」というわけだ。これは小説にもとづく一種の通俗語源説で、確かな根拠に欠けている。ところが、いま多くの辞典がこれを「泥酔」の語源としていて、私は前から疑問に思っている。

もっとも、酔っぱらってぐにゃぐにゃになったわが姿から、南海の「泥」を連想して、「カッコ悪いなあ」と反省するためなら、この語源もまんざらではない。
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