世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
ボヘミアの印象派
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アントニーン・スラヴィーチェク(Antonín Slavíček)は、ボヘミア近代絵画の創始者とされる。
スラヴィーチェクが1890年代の新しい絵画運動の主導者と言われるのは、彼が最初のチェコ印象派だったせいでもあるだろう。スラヴィーチェクの絵は確かに印象派の絵だ。
が、その醸すムードは、ボヘミアのムードのように感じる。稀薄な大気、稀薄な陽光そのものが、ボヘミアチックなんだな。
生涯にわたって風景画家だった彼は、当時のチェコ風景画の二大巨匠、ユリウス・マジャーク(Julius Mařák)とアントニーン・ ヒトゥッシ(Antonín Chittussi)から当然、影響を受けている。師たちの描く風景のロマン的叙情も、スラヴィーチェクは受け継いだのかも知れない。
彼がどこでどう印象派に接したのか、私にはちょっと分からない。自他とも認める風景画のホープだった彼は、マジャークの死後、その後任として教室を継ぐ。そのときにはもう、すでに印象派の技法を我がものとし、自らに印象派のレッテルを貼っていたらしい。
が、間もなく後進育成の責務を捨て、教室を閉鎖して、自分自身の新しい絵画を探求するために、プラハを去る。向かった先はパリではなく、南ボヘミア地方。新しい技法を模索しながら、めぐりゆく季節の折々の田園風景を描き続けた。
大気の濃薄、陽光の強弱、樹木や草の濃淡など、移り変わる季節ごとに、自然とともに揺れ動くエモーションが、スラヴィーチェクの関心の方向だったらしい。色彩のトーンが和らぎ、フォルムがおぼろな塊に砕けて色斑にぼやけ、彼の描き出す自然風景は、メランコリーの内在する情景へと変わり始める。
ここに到ってようやく、スラヴィーチェクは、自らを円熟の域に入った画家と認めて、パリに赴く。……真面目な人だな、スラヴィーチェク。
パリ訪問の翌年、病気の妻の療養のために訪れたドブロブニクで腕を骨折。プラハに戻ってから、腕は完治するも、今度は脳卒中に見舞われる。
真面目な人なんだから、この不幸は失意どころじゃない。絶望だ。麻痺した身体で懸命に絵筆を取るが、二度とかつてのようには描けないことを悟って、自ら命を絶った。享年39歳。
自分の寿命を自分で決めるのは大事なことだと思うけど……残念だな。
画像は、スラヴィーチェク「公園の散歩」。
アントニーン・スラヴィーチェク(Antonín Slavíček, 1870-1910, Czech)
他、左から、
「六月」
「樹木の小道」
「プラハ、レンテ」
「旧市街広場」
「プラハ、ハヴェル市場」
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白の肖像
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ミロシュ・イラーネク(Miloš Jiránek)もボヘミア近代絵画の先駆者と位置づけられている。例によって、チェコ語の解説しか見当たらないので困る。コマルトフ。
画風は単純明快な印象派。概してチェコの印象派絵画は、画家が制作する環境かつ対象であるチェコ風景によるためなのか、落ち着いたトーンのボヘミアチックな情景の絵が多い。が、イラーネクの絵はフランス印象派に近い。いや、フランス印象派に直接に感銘を受けたアメリカ印象派に近い。
陽光のなかの何気ない、小洒落た田園生活の情景。移ろいゆく光への素直な讃歌と、その光が織りなす効果への関心と追求。
多くは女性をモデルに描いたもの。身体を覆う丈長のシンプルなドレスを着ている。そして何をするでもない。光の戯れを身に受けるためにそこにいる。
光と大気の表現本位の画面は、白と、をれを引き立てる青とが際立っている。クリアな印象派スタイルだが、ホイッスラーを想起させる同系色へのこだわりとアンティミスム的なムードとが、イラーネクの絵を印象深いものにしている。
このまま描き続けたら、やがて、ボヘミアチックにおとなしい絵になったのだろうか。絵が変化を見せる前に、イラーネクは36歳で病死している。
簡単な一言解説を引いておくと……
画家と同時に著述家でもあった彼は、1890年代に始まる、チェコ近代絵画の創始者世代の主導的位置にあった。新世代らは体制への芸術の隷属を批判し、芸術家の自由な創造や思想を喚起、芸術の解放に努める。
この流れのなかで、イラーネクは美術評論家および組織家として活動し、フランスにおける新しい絵画様式などを紹介。生前は画家としてよりも、著述家として有名だった。
……私も前々から思ってたんだよね。絵画でも音楽でも何でも、芸術分野を評論する人って、自分でもそれに携わってみたほうがいいのにね、って。
イラーネク、立派。
画像は、イラーネク「白の習作」。
ミロシュ・イラーネク(Miloš Jiránek, 1875-1911, Czech)
他、左から、
「白の習作」
「バルコニー」
「吊るされたヤーノシーク」
「小川の少年たち」
「艀舟」
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チェコ近代画壇のナンバー・ツー
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マックス・シュヴァビンスキー(Max Švabinský)も、近代チェコ絵画の先駆者の一人と数えられている。
例によってチェコ語が分からないので、詳しいことは知らない。そういうときは、芸術に言語は要らない、自らの感性に頼って、知識なし、先入観なしで、鑑賞だけする。
が、このシュヴァビンスキーという画家は、私の感性ではよく分からない。絵の一つ一つはかなり印象が残るのだが、それが一人の画家の画業のスムーズな流れにならない。……どうしてかな。
チェコ絵画史において、近代絵画への運動は1890年代に現われたという。シュヴァビンスキー青春真っ盛りの時期。
若きシュヴァビンスキーは好奇心が強かったのか、はたまた順応性が高かったのか。初期の彼はさまざまな様式を試すように描いていて、画風の変転が甚だしい。
20世紀に入るとグラフィック美術にも手を出す。画家らしく古典的な印刷技法をあまねく試す一方、野心からかスランプからか、それとも時代への迎合からか、商業ポスターやイラスト、切手・紙幣のデザインに到るまで手がけ、それがまた大いに成功を収める。
さらにステンドグラスや壁画、モザイク画などのデザインにも手を出し、美術学校で教鞭も取る。
あれもこれものマルチな活躍の一方で、依然画家の自負は失わず、当時のさまざまな分野の著名人の肖像画を制作。そして、裸の群像が豊穣を讃歌する肉感的な寓意画を、ネオルネサンス風のモニュメンタルな大作として、次々と完成させた。
同時代の先駆者たちが「悲劇の世代」と呼ばれたように、なぜか次々と早世するなか、彼だけは長寿をまっとうし、ミュシャ以降最重要の画家と位置づけられ、チェコスロバキアの国民画家として名声を博す。おまけに社会主義体制からも受け入れられる。
が、私には知識不足なのだろう、シュヴァビンスキーは巨匠の名を冠した故国の看板画家のように思える。彼の絵は、膨大な数にも関わらず、心に響くものは少ない。
実際、絵画として最も高く評価されているのは、妻をモデルに、貧しい人々の暮らす美しいモラヴィア高地を寓意的に描いた情景なのだという。
画像は、シュヴァビンスキー「貧しい地方」。
マックス・シュヴァビンスキー(Max Švabinský, 1873-1962, Czech)
他、左から、
「精神の親和」
「帽子をかぶったエラ」
「黄色い日傘」
「収穫」
「ジャングルの恋人たち」
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聖書あれこれ:ダニエルの幻視(続々々)
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ペルシャ王クロスの治世第三年、ダニエルはさらに、大いなる戦いについての幻を見る。
ダニエルはチグリス川岸で、亜麻布の衣を着、腰に金の帯を締めた、一人の人を見る。身体は緑柱石のよう、顔は稲妻のよう、眼は燃える松明のよう、腕と足は磨き上げた青銅のよう、声は群集の声のようだった。
このとき、他にも人々が連れ立っていたが、この幻を見たのはダニエルのみだった。
ペルシャに三人の王が立ち、続く第四の王は富強をきわめ、ギリシャ王国を攻撃する。ギリシャの一人の勇ましい王(アレクサンドロス)が立ち、大いなる権力をもって支配するが、その王国は子孫以外が受け継ぐ。
南(エジプト)の王と北(シリア)の王との抗争、云々。北の王に代わり、卑しむべき者(アンティオコス・エピファネス)が、奸計をもって北の王となり、権力を増す。
王の軍勢はエルサレムの神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を退け、偶像を据える。王は契約を破る人々をそそのかして神に背かせる。多くの人々が王に与し、迫害された人々は倒れる。終わりはなお定めの時まで来ないからだ。
王はいよいよ神をも越えて驕り高ぶり、異邦の神を崇め、他国に攻め入る。だが、終わりの時になって、南の王が彼と戦う。北の王は大軍をもって南の王を、さらに麗しの地(エルサレム)をも、侵略、略奪し、多くの人々が殺される。
王は新たな戦争のために、エルサレムに宿営する。だが、終わりの時が来る。天使ミカエルが立ち上がり、真理の書に名を記されたユダヤの民は救われる。死者は甦り、知恵ある者は輝き、義に導くものは星のように永遠となる。
ダニエルよ、お前は終わりの時までこの言葉を秘し、この書を封じておけ。多くの者は探り調べ、知識が増すだろう。終わりの時は、神殿が汚されてから1290日が定められている。忍んで待ち、1335日に到る者は幸いである。
……と。
画像は、ドレ「四つの獣についてのダニエルの幻視」。
ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré, 1832-1888, French)
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聖書あれこれ:ダニエルの幻視(続々)
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ダリヨス王治世の元年、ダニエルは預言者エレミヤの書により、エルサレムが荒廃から救われるまでに70年の歳月を経なければならないことを悟る。
そこでダニエルは切々と神に祈る。すると天使ガブリエルが飛来し、ダニエルに告げる。
お前の民とお前の聖都については70週が定められている。これは罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言を封じ、至聖者に油を注ぐためである。
それゆえ、エルサレムを再建せよとの言葉が出てから、メシアなる君が来るまで7週と62週あることを知れ。苦難のうちに広場と堀は再建される。
その62週の後、メシアは不当に断たれ、都と聖所は滅ぼされる。終わりは洪水のように到来し、戦いが続き、荒廃は避けられない。だが定められた終わりが、破壊者の上に注がれる。……と。
To be continued...
画像は、ドロスト「ダニエルの幻視」。
ウィレム・ドロスト(Willem Drost, ca.1633-1680, Dutch)
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