ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

悩み

2008-10-19 09:56:45 | ヒーリング

シャカは、人間の悩みには3つの種類しかない、と言っています。

いわく、

「ほしいものが手に入らないこと。ほしくもないものが手に入ってしまうこと。3つめは、その両方がどちらなのかわからないこと。」

これで行くとたとえば、「悩んでも仕方がないことを悩む」という悩みは、さしずめ3つめのどちらなのかわからないこと、ということになるのでしょうか。


今までの自分の人生を振り返ってみると、ひとつめと3つめはよくありました。

どんなことがあったのかもすぐにたとえば、を思い出せます。

たとえば、「欲しいものが手に入らないこと」。

こんなものは数限りなくありました。

それは誰だってそうだったでしょう。

幼い頃、「あれ買って~!」とせがんでも「そんなもの買ってどうするの! 必要ありません。」とか「おまえには早すぎる。」とか「うちにはそんなお金はないよ。」とか、いろいろな理由で断られつづけてきましたよね。(え? そうでもない? そういう人は2番目のほしくもないものが手に入ってしまうことが多かったんでしょうか・・)

ペット、おもちゃ、洋服・・まあ、こんな程度のものですけれどね。

そして、3つめの「ほしいものかほしくないものかの区別がつかないこと。」ということもありました、ありました。

たとえば、あの男の子が好き!私のこと、振り向いてくれないかなあ、と思っても相手がそっけない態度だと余計に好きになる。そのうち、逃げの姿勢を見せるから欲しい気がしているのか、本当はそんなにそもそも好きじゃなかったのか、区別がつかなくなってくる。そんな思春期、ありませんでしたか?


しかし、この2つ目。

「ほしくもないものが手に入ってしまう。」という悩み、というのはかなり奥深いような気がします。

まずもって、これが「悩み」だと認識できない。

悩みだと気づいた時点で手にしているものであれば、手放せばいいだけだから悩みにならないじゃん、なんて気もするし。

これは、たとえば、どういうことがありえるのだろう、と考えてみた。

宝くじの大口に当選する。

欲しかったから購入したんだから、欲しくもないものじゃないじゃないの、お金なんてたくさんあればあるにこしたことないし、と思うけれど2億も3億も6億も当たったらどう使うの?というと、意外に「え~、旅行にいく」とかしょぼい夢しか語れなかったりして、じゃあ、大して欲しくもなかったんじゃないの?という問いかけをしてみる必要があるのかもしれない。

好きでもない人からつきあってくれ、とかプロポーズされて、舞い上がって自分でも好きかもなんて思ってつきあいはじめてみたけれど、待てよ、どうもウマが合わない、なんか楽しくない、私ってそもそもこの人のこと好きだったんだろうか、と自問してみる。

なんか、どれも少し足踏みしそうではあるけれど、それが「悩み」とまでなるか、というとそんなこともないようなことしか思いつかない。

じゃあ、こういうのはどうだろう。

昔、萩尾望都という漫画家の作品に「ポーの一族」というのがあったんだけど(もう、誰も知らないだろうな~、当時、衝撃的だったんだけど。漫画がもはや漫画という娯楽レベルの話ではない、と思ったのが私は萩尾望都の作品からだったんです。)、それは不死の命を授かったこどもたちの話だった。何百年という時を生きる。そして、自分たちは成長しないので、怪しまれるのを避けるため、ひとつの街で住み続けることができない。ひっそりと自分たちだけの一族だけで世間の片隅で目に付かないようにして生きていく。

なにかを成し遂げて世の中のために役にたつ、ということもしてはいけないし、人間を好きになってもいけない。

これって相当なストレスじゃないだろうか。

そして、「何のために生きているのか?」という疑問が当然のごとく、わきあがる。漫画でもそういうシーンがありました。

「不死の命がほしい。」

これは古来からの人間のせつなる願いです。

権力を握った者たちは、このために莫大なお金や今から考えると馬鹿みたいに幼稚なものに頼ったり信じたりしていました。

でも、本当にそれが自分だけかなってしまったら、それは幸せなんだろうか。

そういう意味では、いちばん哀しいのは「何をおいてもほしい!と強烈に願っていたものが、手に入ってみると欲しくもないものだったということに気づいた」ということではないでしょうか。

それに賭けた労力や時間がすべて無駄だったと証明されてしまうわけですから。ヘタすると自分の存在まで否定してしまうような落ち込みに陥ってしまうかもしれません。

強く願っていたら願っていたほど、その反動の悩みも大きいものとなるでしょう。

「欲しいのか欲しくないのか」「手に入れたいものなのかそうでないのか」は、その対象となるモノで判断するのではなく、自分自身の生き方をどこに焦点を当てるかではっきりしてくるものだと思います。

俗に「欲に目が眩む」と言いますが、自分だけがいい思いをしようと思って出した欲というものはたいていあとでガラクタだった、ということに気づかされます。


昔、ソフィア・ローレン(イタリアの大女優。この人のことも今の若い人たちはもう知らないだろうなあ。「ひまわり」という映画、知りませんか?)が、

「幸せですか?」と記者にたずねられ、

「幸せよ。でも満足はしていない。」と答えたことがあるそうです。

この言葉を単にほほぅ、上昇志向の強い人だな、と捉えるのかもう少し違う意味があるかな、と考えてみる必要がありそうです。

その反対の人もいるでしょう。「満足はしているが、幸せではない。」と言う人も。

あなたは、どれですか?

「幸せで、満足している。」

「幸せで、満足はしていない。」

「満足はしているが、幸せではない。」

「満足もしていないし、幸せでもない。」

そして、どんな悩みを抱えていますか?

わたし?

ちなみに私は、「幸せで、満足もしているけれど、ここにいつまでもとどまっていてはいけない、という気がしている。」という感じでしょうか・・




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