ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ワイス博士のワークショップ ~退行催眠での私の気付き 1~

2018-04-26 09:01:46 | ワークショップ
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さて、今日はワイス博士が施してくださったグループ退行催眠で、私が得た気付きについて書きたいと思います。
3つもやりましたからね、まずは1つめ。
「足もとを見て下さい。そこはどんなところですか? あなたはどんな靴を履いていますか? 」
と言われたときに出て来たものは、小さなテラコッタのようなタイルで模様が作られたその家の玄関先のようでした。
私はピンヒールのハイヒールを履いていました。
内心で、(へっ、私らしくない・・)と思いました。
今世では生まれてこのかた、ピンヒールのハイヒールなんて履いたこともないからです。



そこから映像が家の中へ移って行きました。
なかなか豪華な家です。
「そこはいつの時代ですか?」
と言われ、ガレージにある車が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に出てくるような車だったので、
(これはアメリカの1950年代とかかな? いずれにしてもそんなに遠い昔ではない・・)
と思いました。
小さな男の子が走り回っており、ご主人らしき人もいます。
どうやら私はなかなか裕福な家の主婦のようです。
ガレージの車は誰かがピカピカに洗車しており、その人は専任のドライバーのようでした。
(使用人までいるなんてますますリッチなお宅ね)
と思いました。



「そこはどんな場所ですか?」
と言われ、周りを見回してみると、すぐそばにかなり切り立った崖のような山が見えました。
よく映画でみる「HOLLYWOOD」の文字がみえるような、あんな山です。
まさしくハリウッドの近くなのかもしれません。



「その人生で1番重要なことはなんでしたか? そこでは何が起こりましたか?」
と言われたとき、その山がバン!と爆発するような音がして、大きな火の手があがりました。
次のシーンではジープのような車で真っ黒になりながら命からがら逃げる私がいました。
顔も煤だらけになっています。
どうやら山火事か何かが起きて、その家も炎に包まれてしまったようです。



「その人生での死の瞬間にいきます。大丈夫です。痛みも苦しみも何も伴いません。ただ見ることができます。」
と言われて立ち会った私の臨終のシーン。
それはまるで幽体離脱かのように天井から眺めた景色でした。
立派なお屋敷の、重厚で立派な調度品が揃えられた部屋の大きなキングサイズほどもあるベッドに寝かされているわたし。
そこで現実の私が、
(ふぅん、あんな山家事で家を失ったのに、またこんな豪華な家で最期を迎えるなんて、どうやってその後立ち上がったのかわからないけれど、なんとかなるものねぇ)
と思いました。
わたしの周りには大勢の人たちがいます。
どうやら子どもや孫や甥っ子、姪っ子たちのようです。
何十人もいます。
孫や甥っ子という血のつながり的には少し遠い子どもたちは幼いこともあって、
「ちぇっ、つまんないなぁ。お外で遊びたいよぉ。なんでこんなところにずっとおとなしくいさせられてるんだよぉ。」
という態度をとっています。
それを見たとたん、その過去世のなかの私か現在の私かどちらか区別がつきませんでしたが、たぶん、どちらもでしょう。
私が思いました。
(だからイヤなんだよ! 子どもは! 臨終の場にあって心もなく居ようとするくらいなら出て行ってほしい。どうしてこんなにも大勢の人がいるの。私は死ぬときまで安らかにはしてもらえないの。もっと本当に私が逝くのを心から見送りたいと思っている数人の人たちの間でだけ私は逝きたかった)



そして目覚めました。
そこから得た私の学びは2つ。
1つめは、
「人生、なんとでもなるものだ。案ずるに及ばず。あんな山火事が起こるなんてことはどのみち想定できるものではないし、あれを想定してあんな場所に住まないほうがよかったとか、その先のぶんまで蓄えておかなくては、と思う必要があるものでもない。私は事実、また裕福になり最期を迎えた。大丈夫。」
というもの。
2つめは、
「私の子ども嫌いの理由の1つがわかった。」
というもの。
特に臨終のシーンでの「最期のときくらい安らかに逝きたかったのに。大勢の親族に見送られて旅立つというのを誇りや慰めと思う人もいるけれども、私は違う」という思いはとても強烈なものでした。
すごくリアルに感じられました。
腹立たしいような、悲しいような気持ち。
あとでワイス博士がおっしゃいましたが、
「ほんとうに自分が過去世を見たのか、自分の思考が創りあげた産物に過ぎないのかに戸惑う人も多いが、少なくとも、“感情”が伴うものがやってきた場合、それはあなたの想像が創りだしたものではない。」
それでいくと私が見た臨終のシーンはホンモノの過去世だということになります。
臨終だけがホンモノということもないだろう、そこがホンモノならその前のシーンなどもすべてホンモノだろうと考えたほうが自然だから、そうなると私は近い過去に裕福なたぶんアメリカ人だったことがあるのだなぁ、ということになります。



「最期くらい静かに逝かせてほしい」という思いがリアルであるのには、もう1つ強烈な記憶があります。
ゲーテだかパスカルだか忘れましたが、偉人が最期のとき、嘆き悲しむ見舞にきた友人に向かって、
「悪いが、死ぬのに忙しいので、出て行ってくれんかね」
と言った、という話を昔、何かで読み、
「なんていいセリフ! 私も病室で自分の感情ばかりを爆発させるような人がいたら、これ、使お」
と心酔したことを思い出しました。
これはブラックユーモアなのかもしれませんが、私にとっては真実の魂の叫びだ、と思いました。
そしてもし私が母より先に死ぬようなことがあったとしたら、たとえ相手が母であってもあまりうろちょろされるようであればこれを言いたい、と思っていたのです。
それはこのときの過去世が影響していたのかぁ、と思いました。
よほどこのときは小さい子どもがベッドの周りをうろちょろすることで臨終に不満を残したのだなぁ、と思います。



この死生観が今の私にとってものすごく大きく感情を揺さぶられるとか生き方にかかわるとは思いませんが、私はグループ催眠から醒めながら、
「こうして何回もヒプノセラピーを受けることによって、薄紙をはぐように1枚1枚、楽になって行くのだろうなぁ」
ということを実感したのでした。