私は、楽譜が読めない。その上音痴だ。小学生の時、市内のピアノ教室に入会した最初の日の事だった。初めての緊張したレッスンが終わると、先生が「悪いことを言わないから、ピアノでなくて他のことで頑張って」 そう言って入学金と書類を私に渡した。楽器を演奏出来たり、歌をうまく歌える人を、私と同じ人間とは認めることができない。
友人が、「最近、ブーニンが復帰して演奏を聴いて感動した」と話した。最初に友人が「ブーニン」と言った時、私には「プーチン」と聞こえた。なんと失礼な。私の空耳には、困ったものだ。ブーニンと聞いても、ブーニンが誰かわからなかった。妻は、分かっているようだった。
後日、妻が「5日の夜NHKBSの『ベートーヴェン』(正確には、『玉木宏 音楽サスペンス紀行「引き裂かれたベートーヴェン その真実」の番組録画しておいて」と言った。妻は、我が家のテレビに3個のリモコンがあり、それらをどう扱うのか未だにわかっていない。さっそく番組表を出して録画予約した。妻が、「その下の『天才ピアニストブーニン 9年の空白を越えて』も録っておいて」と言った。二つの番組の放送時間が夜の10時過ぎ。私たち夫婦は、夜の9時過ぎに寝てしまう。
日曜日の朝妻と録画された2つの番組を観た。『ベートーヴェン』の番組は、観始めて間もなく、妻が「期待していたのと違う。ブーニンを観よう」と言った。私は、番組を観て、初めてブーニンがソ連のあの天才ピアニストだと分かった。私が三十代後半の頃、ブーニンは日本でも大変人気があって、テレビやマスコミで騒がれていた。番組で若い頃のブーニンを見た。知っている。この人知っている。友人からブーニンと聞いてから、もう1週間が過ぎていた。喉に引っかかっていた魚の骨がやっと取れたように感じた。
番組が進むにつれ、妻のティッシュを、目と鼻に当てる頻度が増えていった。私は、ブーニンの天才ピアニストという、近寄りがたい存在感に圧倒されていた。私は、「天才」とか「秀才」と聞いただけで、穴があったらそこに身を潜めて静かにしていたくなる。劣等感の塊のような凡人である。それがだんだん天才という遠いところから親近感に変わってきた。ブーニンが糖尿病Ⅰ型だと分かった。9年間表舞台から遠ざかっていたのは、2つの理由からだった。左手を使い過ぎて、自由に動かなくなったのと、その後、転倒して脚を怪我をした。糖尿病の患者は、怪我が命取りになる。傷が治りにくく、下手をすると壊死を招く。ブーニンも怪我が悪化して、左足のくるぶしの近辺を10センチくらい切断した。壊死した患部を取り除き、元の足と脚を接合した。9時間に及ぶ大手術だった。
私も糖尿病である。今年すでに3回入院した。右脚の動脈の閉塞の治療のためだった。医師に幾度となく警告されていた。「これ以上悪化すれば、脚の切断になります」と。凡人の私の脚は、切断されても、天才ピアニストのブーニンのようにピアノが弾けなくなるということはない。天才と凡人の違いがあっても、同じ病気を持つ身。
ブーニンが言った。「ピアノは歌う楽器」 そう思ってブーニンの演奏を聴く。涙がこぼれる。ピアノが私の心に歌う。私は、天才ではない。ピアノ教室の入室を断られたほどの人。でも私には、音楽を聴いて、感動できる心がある。それだけ十分生まれた意味がある。そうブーニンのピアノが、私に思わせてくれた。
ブーニンの復活の影に、彼の妻榮子さんの支えがあった。私にも、もったいないほどの、常に励まし支えてくれる妻がいる。