団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

安倍首相辞任と孫の将来

2020年08月31日 | Weblog

  池江里佳子(20歳)さんが29日の競泳・東京都特別大会で約1年7月ぶりに実戦復帰した。彼女が「急性リンパ性白血病」と診断されたのは18歳の時だった。東京オリンピックで金メダルを期待されるほどの絶頂期にいた。

 28日金曜日安倍首相(65歳)が病気のため辞任すると発表した。彼は17歳で潰瘍性大腸炎だと診断された。首相として新型コロナウイルス対策、経済問題、中国問題など問題山積のさなか、誰もが予測していなかった辞任だった。写真家で探検家の故星野道夫さんが「人生とは何かを計画している時に、起きてしまう別の出来事のこと」と文芸春秋に書いていた。

 衆議院議員の甘利明さんがテレビで言った。以前安倍首相と二人きりで話していた時、安倍首相が「私の病気は治るわけじゃないから、コントロールしているだけだから…」とポツリと話したそうだ。

 私は40歳の時、糖尿病と診断された。長野県の佐久総合病院の「糖尿病教育入院」に妻の勧めで参加した。最初の日、担当の朔医師があいさつした。「皆さんの糖尿病は、一生治りません。もう皆さんは、糖尿病と一緒に生きてゆくしかありません。この2週間でどう糖尿病と一緒に生きてゆくかを学んでください。ここでこれから学ぶ一つひとつが必ず皆さんを長生きさせてくれます」 一緒に教育入院した20人の中から初日の夜、病室から出て行った人がいた。彼は「あれしちゃいけねえ、これくっちゃいけねえ。ふざけるなっていうの。俺は好きな物を喰って、飲んで生きてえように生きるんだよ。馬鹿馬鹿しくてこんなところにいられかって言うんだよ」とベッドまわりを片付け、風呂敷包みを肩にして大部屋から出て行った。

  病室から出てゆく彼を見て、私はこの教育入院を契機に糖尿病と生きることを決心した。2週間後、80㎏以上あった体重が64㎏になっていた。2週間ぶりに会った妻が、すぐに私だとわからなかったぐらいだった。大顏連会長と言われたほどの顔が痩せこけて確かに別人だった。その後、私は、自分の仕事を辞めた。多くの人から、「仕事を途中で投げ出すのか。無責任だ」と言われた。正しい決断だったと思う。あの時、仕事を辞めていなかったら、私は糖尿病が悪化して、もうこの世にいなかったかもしれない。私は仕事でなく、糖尿病との共生を選んだ。私と安倍首相を比べるなんておこがましいが、少しだけ安倍首相の気持ちが理解できる気がする。

 その後、妻は、外務省の医務官に採用された。医務官は、外務省の在外公館に派遣される医師である。私は、妻に同行して海外で暮らすことになった。仕事から離れてよくわかった。自分の仕事がいかにストレスで体に負担をかけていたかと。まわりの人々から、やれ逆玉だ、髪結いの亭主だと揶揄された。でも私の糖尿病は、うまくコントロールされていた。しかし糖尿病のコントロールが上手く行っているようでも、体内で合併症が潜に進行していた。やはり糖尿病は絶対に私を完治させなかった。2000年、チュニジアにいた時、狭心症の発作が起こった。そして2001年心臓バイパス手術を日本に帰って受けた。いまでも佐久病院で受けた教育入院で学んだことを続けている。私の糖尿病は、何とか表向きコントロールされて、コキゾウ(古稀+3歳)になった。

 今心配なことは、孫のひとりが15歳で安倍首相と同じ病気になったことだ。入退院を繰り返している。今回の安倍首相の動向を観ていて、思うのは孫の将来を見ている気がした。友人にメールで訴えた。友人が即、長い返事をくれた。「…あと10年もすればiPS細胞技術など最先端の医療も進むでしょうから将来は心配なく過ごすことができると思います。…」 そうだ、そう信じよう。「人生とは何かを計画している時に、起きてしまう別の出来事のこと」ならば、思いがけずに、良いことが起こることを期待しようと思う。


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