① 長女の里帰り
② 長女の養母の来日
③ ブルガリアの朋
① 15日の夜、友人の次女がカナダから子供二人を連れて里帰りしたので、我が家で歓迎の食事会を持った。去年4歳と2歳だった女の子は、大きく成長していた。日本語と英語を話す。孫たちに頬が緩みっぱなしの友人を見て、私も嬉しかった。
私は長男12歳長女7歳の時、離婚して二人を育て始めた。家を売却して小さな市営住宅での三人暮らしを始めた。無理があった。このままだと三人ともダメになってしまうと思った。長男は全寮制の高校へ進学させると決めた。長女は、アメリカの私のカナダ留学時代の先輩夫婦に預けることにした。子どもたちに苦労させたが、結果的に良かった。長男は、寮で親元を離れて来ていた生徒たちの中で一人親のこと両親が離婚したことから解放された。長女は、男親に谷に突き落とされたが、アメリカの育ての両親は、自分の親と違って、仲睦まじく理想的な家族を築いていた。子どもの異なった環境への適応能力は、凄い。やがて長女は、アメリカの生活に慣れ、言葉も習得した。私は、ほぼ毎日彼女に手紙を書いた。それがせめてもの親としての義務だと思い続けた。長女は、夏休み3か月間は日本に帰国した。私は、二人のための仕送りのために懸命に働いていた。3か月の短い間だけでも親子三人で暮らす事が出来た。歓喜で破裂しそうになりながら空港へ迎えに行き、見送りに空港へ行った後は、長く落ち込んだ。
お互いに住む場所が遠く離れれば離れるほど、再会の喜びは大きくなり、別れの悲しみは深くなる。
私たち親子三人は、離れたことで何とか家族崩壊を免れた。これには、長男が入学した全寮制の学校やそれを支えるスタッフ、長女を育ててくれたアメリカの家族のおかげである。
② 長女を育ててくれた夫妻は、日系2世と4世だった。二人とも戦争中収容所で辛い経験をした。何度も日本に招待を申し出たが、頑として受けてもらえなかった。その後、旦那さんが亡くなった。奥さんも癌になりステージ4から奇跡のように再起した。2014年、奥さんだけだったが、やっと日本に来てくれた。私の家に2泊3日という短い滞在だった。私は富士山を見てもらいたかった。ちょうど梅雨だった。3日間車を走らせた。最後の日、箱根から雲が晴れて、富士山のふもとの稜線が見られた。彼女は喜んだ。アメリカの日系人を苦しめた日本をやっと許してくれたのかもしれない。
③ アフリカのセネガルでNさん夫妻に会った。親しくなり夫婦ぐるみでお付き合いした。商社を定年退職して奥さんのふるさとブルガリアに住んだ。私たち夫婦も一度ブルガリアを訪ねた。ソフィアの観光もそこそこに3日間彼らの家でワインを飲み朝から晩まで話し込んだ。その後2回日本の我が家にも来てくれた。楽しい時間を過ごした。
「朋有 自遠方来 不亦楽」