9月2日ワールドサッカーアジア地区最終予選初戦UAE対日本は2:1で日本が負けた。勝負なので勝つか負けるかしかない。日本が絶対に勝たなければならないとは私は思わない。しかしUAE戦には不快感が残った。カタール人の主審にアラブびいきと思われる判定が多く見られた。
以前私はスポーツは人間が発明した戦争を回避する理想的な勝敗のつけ方だと書いた。スポーツには規則があり、規則は審判によって判定される。スポーツの戦いにおいて審判の判定が信頼できなければスポーツはスポーツでなくなる。
シンパという言葉がある。日本語の辞書で引くと『英語sympathizerの最初の部分sympaがシンパに略され:同情者、共鳴者。特に左翼運動などに直接には参加しないが支持援助する人』とある。英和辞書でsympathizerを引くと『原義:symは共にpathは苦しむでerは人を表し、同情者、共鳴者、支持者、シンパ』とある。
世間はシンパで溢れている。親子、師弟関係、宗教、政界、などなど。
私はカナダへ留学してニッポン人ゆえに差別された。ニッポン人として差別を受けると言うことは、私がカナダ人と称する白人とは区別された黄色人種であることを意味する。
グレイハウンドバスで旅行していた時、こんなことがあった。バスは時間ごとにドライブインに停まり、給油や食事やトイレタイムをとった。私がトイレに行くとトイレは有料だった。小銭を探していた。突然、一人の少年がトイレのドアの下に潜り込んだ。カナダの公衆トイレの多くはドアの下に40センチほどの空間が開けられている。使用中かどうかわかるのと、防犯上と言われていた。少年は潜り込み中からドアを開けた。「Brother,please.(兄弟、どうぞ)」と言った。少年はアメリカインディアンだった。少年と私は知り合いではない。ただモンゴライドという同じ人種なだけだ。人間の心にはいろいろな“シンパ”が宿っているようだ。
なぜかわからない。人種が同じというだけで有料トイレのドアを中から開けてくれるのか。同人種としてのシンパなのか。。私は「Thank you.」と言って中に入った。
アラブ諸国の一つチュニジアに3年間暮らした。暮らしていて感じたのは、アラブの人々は国が違っても連帯しているということだった。イスラム教という同じ宗教を信仰するからだ。異教徒には冷たい人たちである。ただ気になったのが、同じイスラム教を信じるインドネシア人に対しても我々アジア人への偏見を持っていたことだ。
カタール人の主審が同じアラブのUAEに審判の裁量を甘くすることで加担したかどうかは証明できない。ただ恐いと思うのは、特定の宗教が一般の規則にまで影響を持つことである。その点日本にも心配がある。
中国が南シナ海の南沙諸島に進出したことでフィリピンがオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に訴えた。裁判所は中国の進出を違法と判決を下した。中国は判決を無視すると発表。
ス ポーツでも国際法でも審判の権威は薄れてきているようだ。人間がどんな規則を作ってうまくやっていこうとしても、決めた規則を守らせるシステムが機能しなければ前に進めない。国際化が謳われるわりには、シンパ、えこひいき、差別、自国の利益のみを法を無視してまで得ようという野望ばかりが人間の心の中で増殖している気がしてならない。それでも私は正々堂々と戦い、終わったら恨みも不平も不信感も不満も帳消しにしてラグビーでいうノーサイドであって欲しい。