団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

日本人は決闘に弱い

2016年09月15日 | Weblog

 週刊文春9月15日号137ページに載った『「日本人は決闘に弱い」ハリルホジッチ監督 ネガティブ語録』が私の忘れたい過去を鈍い私の脳が鮮やかに蘇らせた。まるで私のことを非難されているとグサリときた。

 50数年前、日本の高校からカナダの私立全寮制高校へ移った。日本人は一人だった。ベトナム徴兵を逃れるために全校300人ばかりの半数以上はアメリカ人学生だった。当時日本といえば“フジヤマ”“ゲイシャ”“ハラキ~リ”“アッ ソウ(天皇陛下のお言葉だと言われていた)”ぐらいの知識しか持ち合わせていない生徒ばかりだった。

 ある日アメリカ人のトニーが私の部屋のドアをノックした。彼は私に挑戦状を頼まれたと言ってルーズリーフのノートに「○月○日午前10時体育館にて柔道の試合を申し込む ギブスン・ライト」と下手な字で書いてあった。英語にまだ問題が多かった私でもこれくらいのことは理解できた。

 それより少し前トニーに「柔道できる?」と尋ねられて「少し」と答えた。トニーとギブスンは同じテキサス出身だという。ギブスンは大学部の2年生の26歳でベトナム帰りの元海兵隊員とも聞いた。私は柔道を“少し”やったとはいえ小学生部の昇級試験で1歳年上の相手に抑え込みで負けた。相手は太っていて私の倍は体重があった。苦しくて殺されるかと思った。その後まもなく私は通っていた柔道塾を辞めている。そんな私が元海兵隊員と勝負して勝てるわけがない。死か生か。大げさと言われるかもしれないが、受け身もまともにできない私が軍人として訓練を受け、実際にベトナム戦争に参戦したギブソンと柔道とはいえ私が怪我もせずに生き延びられるとは思えなかった。私は“生”を選んだ。決闘の日、私は用事ができたとトニーに伝言を頼んだ。その日以来トニーは私を無視した。その噂は学校中に広まった。

 私はNHK総合テレビで木曜日に放送される『ファミリーヒストリー』を出演者によって観る。前回は高田万由子さんだった。父方の祖父の田中釜吉がドイツ留学中、大学の准教授のドイツ人に度重なる差別されたことが原因で准教授と馬が合わずにいた。ある日釜吉の足につまずき転倒した准教授が釜吉にピストルによる決闘を申し込んだ。当時のドイツでは男同士の争いの決着は決闘で白黒つけていたそうだ。18メートルの距離から双方がピストルを発砲した。釜吉は腕を打ち抜かれ、准教授は重傷をおった。釜吉の勝利となり、その後、大学で釜吉は誰からも一目置かれる存在となった。

 釜吉と私。えらい違いである。明治時代に日本からドイツに留学しただけでも大変なことである。不当で執拗な差別を受けたことは、両者同等でも決闘を受けた受けないには大きな違いがある。ますます落ち込む。番組の最後に司会の今田が「決闘、あの時負けていたら高田さんはここにいないことになりますね」と言った。私は「そうだ、そうだ。そうなんだよ。その通りだ」と独り言。沽券、体面、メンツ、プライドも大事だが、命を絶ってまでして守ることなのか。ここが偉人との違いである。

 ハリルホジッチ監督が言う決闘は、私の“決闘”とは違う。あるスポーツジャーナリストは「要は、相手との1対1の争いです。彼に言わせれば『日本人は決闘に弱い』ので、球際で負けるな、と選手たちに言い聞かせてきました。また『人がいいのはピッチ外だけにしろ』『ファウルを誘うプレーを増やしなさい』などとピッチにおける激しさや狡猾さも求めてきました」と“決闘”を解説した。鋭い日本人分析である。

 私はもう自分の生き方改造は無理である。人がいい、相手をファウルに誘わず、激しくもなく狡猾でもない、常に“決闘”から逃げ続けて凡人で終わりそうである。リオオリンピックでメダルを獲得した日本人選手は、決して“決闘に弱い日本人”ではなかった。私は『日本人は決闘に弱い』と言われない日本人がだんだん数を増やしてきているのを頼もしく思う。だがそれはスポーツの世界だけにしておいてほしいと願っている。


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