団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

再会②

2008年02月16日 | Weblog
 私は飛行機の中でとうとう一睡もできなかった。なぜなら見たいと思っていた映画が、それも日本での封切りがまだされていない映画がずらっと用意されていたからだ。私はがんばって3本半観てしまった。自分の節操のなさにあきれる。 

 3人で宿泊先に到着してから、まず荷物の整理をした。娘から預かってきたおみやげもミセス・ツジに渡した。正直、ずっと英語を使っていないのと睡眠不足で、ミセス・ツジと話していても、自分で何を言っているのかもわからない状態だった。しかし私の経験から中途半端な時間に寝ると、時差ぼけはおよそ2週間続く。時差ぼけが嫌で長い海外生活の後、3年間海外旅行をしてなかった。なかなか実行できないが、到着したその日から現地の時間で生活をすると、すんなりと適応できることが多い。妻と相談して、せめて8時までは起きていようと決める。時差ぼけがつらいのは、現地時間の午前2時に目を覚まし、そのまま眠れなくなることだ。なんとしてもそれを防ぎたかった。

 しかしミセス・ツジが今までの闘病の経過を話し始めると、眠気はいっぺんに吹き飛んだ。私は覚悟のある人間を、いつも凄いと思う。淡々と語るその内容は、覚悟が軸足で固定されていることを私に強く印象づけた。癌を躊躇なく医師は彼女に告知したという。そして彼女はその医師に感謝していると明言する。私が、もし癌に侵されたら、告知されたいと、今は思っている。しかし臆病で小心者の私がどう反応するか分かったものではない。日本ではこの癌の告知が大きな問題になっている。死に直面することは、だれにとっても未知への恐怖がつきまとう。覚悟ができている人は少ない。ミセス・ツジを目の前にして、私は彼女の冷静さに終始圧倒され続けた。こんな人が世の中にいるのだろうかと。

 その後、癌は最初の患部から左の肩甲骨に転移した。激痛に眠られぬ夜が続いたそうだ。医師は、すでにステージ4なので治療はするが痛みを和らげることに重点を置くと言った。ミセス・ツジの医者である2人の義理の息子さんから、メールで危険な状態だと何度となく日本へ連絡を受けた。私は私の娘を代理として、2回シアトルへお見舞いに送った。帰国した私の娘は、肩を落として悲しんでいた。ミスターツジの葬式からまだ2年経っていなかった。

 そのミセス・ツジの癌が化学療法と放射線療法で今は消えている。彼女は、敬虔なキリスト教信者である。彼女は、神の与えたもうた奇跡と感謝を忘れない。現在彼女は普通の生活をしている。私の頭の中を「もう2箇所に現れた癌が次にどこに転移するかを彼女は恐れていないのだろうか」の考えが巡る。やがてその思いは「彼女はすべてなるがままと受け入れ、今、普通に生きようとしている」という確信に変わる。

 明日から私たちと一緒にゴルフをするために、予約を取ってあると言い出した。いくらなんでも無茶な話だと私は思った。しかし彼女の意思は固い。私たちといえばゴルフ道具はおろか靴も支度もない。それに私は1月29日にカテーテル治療を受けたばかりである。体力的にも無理だ。そこで私はゴルフをせず歩いてついていき、妻がミセス・ツジとゴルフをする、ということで妥協した。明日は11時43分のスタートだと告げられた。予期せぬ展開だった。そしてそのゴルフ中、大変なことが連続した(続) (写真:台所カウンター上の持ち込んだ食料)
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