団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

おはぎと豚汁

2008年02月03日 | Weblog
 今日の昼は、散歩の途中で“おはぎと豚汁セット”420円を食べた。小さなちっともハイカラでない普通の食堂である。

 おはぎはアンコ、キナコ、ゴマのどれにするかを注文で聞かれる。私はキナコをたのんだ。小さな盆に大きなおはぎ一個と豚汁のフタつきの椀が乗っている。椀のふたをとると、ニンジン、ごぼう、大根、コンニャク、里芋、豚肉がていねいに行儀よく入っていた。切り方を見れば、いかにこの店の主人が丁寧でまじめな人かよくわかる。

 プ~ンと漂う煮込まれた野菜の穏やかで恥ずかしがっているような匂い。落ち着く。でっかいおはぎと適度な盛りの豚汁。すこし遅めの昼食だったが、この店に決めて良かった、という満足感が心地よい。私のようなひとり客が3人だけだった。それぞれなぜか“おはぎと豚汁セット”を静かに納得して食べていた。おはぎが全員キナコだった。

 また来ようと思う。古い形態の伝統的な商売が次から次へと消えてゆく。“従業員急募”の張り紙がだいぶ色あせていた。おじさんと娘さんらしき人、二人だけで切り盛りしている。次は絶対にゴマのおはぎを注文するぞ。

(写真:おはぎと豚汁セット)
差し替え2月7日分

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牢名主

2008年02月02日 | Weblog
 何年も前に、知人宅でわき腹が痛くなり呼吸困難におちいり、救急車で病院に運ばれた。夏の暑い夜だった。幸い病院に着くやいなや痛みが何故か収まってしまった。救急外来の医師は様子を見るために入院するよう私に指示した。20人ぐらいの大部屋だった。

 夜9時を過ぎたころウトウトしていた。「全員起きろ!」の大きな声に目が覚めた。やせた男がベッドの上に立ち上がっていた。「誰が窓を開けたんだ。俺はここに6年間入院している。俺の許可なしに勝手な行動をとるな。わかったか?」 男は息巻いた。

 新潮文庫に神坂次郎著『だまってすわれば』という本を、妻の恩師から海外に住んでいる時に送ってもらった。この本の中に江戸時代の牢獄のことが細かに書かれている。病院の大部屋はまさに江戸時代の牢獄の様を呈していた。『大牢の中は、労名主が見張り畳という名目で、畳を12枚以上も積み重ねてその上から見おろしているし、隅の隠居、穴の隠居も一人が畳5枚、上座の隠居、仮座の隠居は畳一枚を使い、中座の番役は二人で一枚、下座の助番などは三、四人で一枚。だがむかえ送りといわれるひらの囚人になると、一枚の畳に七、八人から多い時は十二、三人も詰め込まれ、寝るどころかゆっくり坐ることもできない状態である。まして熊太のような新入りなどは、その板敷の床から二尺五寸下の土間で一夜を明かすのが牢法になっている』

 牢名主。頭にその言葉が浮かんだ。恐ろしいと思った。私は絶対に明日の朝この病院から出ようと思った。牢名主には取り巻きの患者たちがいて、大きな声で飲みに行って来たスナックの女の話をしていた。私は突然とんでもないところへ入り込んでしまった。幸運なことに牢名主が外出中に入院したので『新入り』として挨拶の口上を陳べることもなかった。

 明日は牢名主が目を覚ます前に脱出しようと決心した。ほとんど寝ることもできずに夜を過ごした。牢名主の物凄いイビキに、さすがヌシになる奴は違うと感心した。次の朝、私は逃げ出した。私は家から電話で病院の事務に退院したと告げて、後日支払いに行くと伝えた。

 その国立病院はまもなく他の国立病院との統合で廃院となった。世の中、人間が集まるところでは、必ず上下関係がうまれる。まさか病院という場所で、日本人の特性に接するとは夢にも思わなかった。病院がこのような実態を知っていたのかどうかも、今となってはわからない。神坂次郎の『だまってすわれば』の牢獄の世界を身近に感じた。日本人の心の中で、江戸時代は終わってはいないらしい。牢名主は、学校にも政界にも経済界にもマスコミにもスポーツ界にも職場にも家庭にも、どこにでもまだいるようだ。

差し替え:2月4日分

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