団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

センテンススプリングな週刊文春

2016年05月20日 | Weblog

このところ日本のスクープ報道は『週刊文春』一誌の独走態勢である。週刊文春5月26日号に私を納得させる記事があった。

 「新聞不信:ポイントがズレた「舛添問題報道」;舛添要一都知事の公私混同、税金のムダ遣い事件は、本誌の精力的な追及によって、その詳細が明らかになった。本来こうした記事は、各紙の都庁詰め記者たちによる調査報道として一般に伝えられるべきであった。・・・」

 その通り。立派。日本の新聞各社は情けない。週刊文春がわざわざ“新聞不信”のコラムを掲載する理由が私の胸をつく。首相官邸、国会議事堂の廊下、都庁の玄関、官庁内の記者室。記者のイメージと言えば、ゾロゾロ取材対象者の後をモミクチャになりながらマイクや録音機をつきだし、記者でなくとも誰でも尋ねられるようなありきたりな質問をする相も変わらぬ取材風景である。こんな取材に不満を持つ私が友人にそのことを話した。友人が映画『64』を観れば日本独特な記者室での記者の様子が描かれていると教えてくれた。近いうちに観たい。とにかく横並び、各社協定というおよそ特ダネ、スクープに程遠いなれ合い集団である。

 そんな中、週刊文春は我が道を行くと他社に迎合することなく“本誌の精力的な追及によって”の気概で次々と不正や不条理を読者に伝える。読者としての私は、爽快、痛快この上ない。多くの週刊誌の記事は、電車の中吊り広告に列挙された以上の内容を見いだせない。海外に暮らしていた13年間、どんなに週刊誌を読みたくても入手できなかった。しかし数週間遅れで回覧された新聞各紙の週刊誌の広告を読めば、だいたいの日本国内での動きがつかめたものだ。週刊文春がずっと現在のようにスクープを連発していたとは思わない。週刊新潮とどちらを買うかは迷うが内容にさほどの違いはなかった。新聞も週刊誌にも書けない堅固な聖域がある。多人種多文化多宗教の寄せ合わせのアメリカと日本はここが違う。アメリカ映画やテレビドラマに聖域はない。だから自然に観ていられる。日本ではこの“聖域”の雁字搦めのシバリで常に奥歯に物が挟まったような表現に終わってしまう。

 週刊文春の記事が常に正しいとは言わない。私が週刊文春の記事すべてを受け入れるとも言わない。日本の新聞各社が聖域を保護する中、逆行するように巨大な聖域に歯向かい事実を読者に伝えようとする方針は評価する。膨大で入手困難な資料を集め調査精査していることも随所でうかがわれる。だから最近の週刊文春は電車の中吊り広告だけでは内容がつかめない。買うか図書館で記事を読むしかない。読み終わった後、よくここまで調べて記事にしたと喝采する。大新聞各社がそれらの資料が入手できないはずがない。だが記事にならない。

 週刊文春が扱ったベッキーとやらの不倫などの報道は、どうでも良い。私ぐらいの年代になると色恋沙汰のスキャンダルに関心がなくなる。しかし日本のこれから先の行く末を案じている。舛添問題。三菱自動車の不正。スズキ自動車の不正。東京オリンピック誘致に関するコンサルタント料問題。パナマ文書問題。気分が落ち込むような事件が次から次へと起こる。

 このところ晴天が続き、散歩で憂鬱な気分を吹き飛ばそうといつもより長時間歩いている。青い空が気持ちよい。泉を見つけた。ベッキーも妻も守ってあげることもできない不倫男がメールで週刊文春のことを「センテンススプリング」と暗号のように表現していたそうな。陳腐な発想にイラつく。だがSpringスプリングには「泉」の意味もある。週刊文春がこれからも泉のように日本の将来を憂える読者に爽快さ痛快さを味あわせてくれる記事(センテンス)を噴出してくれることを願い、地道で時間をかけた取材の労をねぎらいたい。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おひとりさま一個買い | トップ | マンション大規模修繕 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事