団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ノーベル賞と山極勝三郎

2018年10月03日 | Weblog

  台風一過の10月1日月曜日妻は通勤で苦労した。朝テレビとネットで交通情報をみて在来線が運転見合わせになっていた。新幹線は動いていた。妻が在来線から新幹線に乗り換える駅まで車で送ることにした。通った国道はあちこちに倒木があったが道路わきに片付けられていて車の通行に支障はなかった。道路上は台風で飛ばされた小枝や葉がにわか作りの映画撮影の撮影現場のように拡がっていた。妻は1時間30分遅れの新幹線に乗車できたが、東京駅からの電車が運転見合わせで普段20分の駅へ50分以上かけて到着した。

  帰りはいつもの時間に帰宅した。その夜京都大学の本庶佑特別教授(76)がノーベル医学生理学賞を獲得したと報じられた。ノーベル賞といえば、私が育った長野県上田市出身の山極勝三郎博士の“幻のノーベル賞”を思い出す。小学校の担任が山極勝三郎博士の“幻のノーベル賞”の話をしてくれた。担任教師は「山極勝三郎博士は日本人なのでノーベル賞をもらえなかった」と悔しそうに言った。当時の私には「日本人だから…」の意味がわからなかった。しかし後に高校2年で私はカナダへ留学して「日本人だから」を経験することになった。

 本庶京大特別教授のノーベル医学生理学賞以後、早速日本のテレビ局特集を数多く組んだ。その中で気になったことがあった。それは本庶教授がアメリカのカーネギー研究所やNIH=国立衛生研究所で3年間過ごしたが、家族のため、自分の研究のために日本への帰国を決意したというものだった。実際は“差別”が原因だった。本庶教授のような堅忍不抜な学者であっても、研究所での耐え難い仕打ちを受けたのだろう。私の妻もオーストラリアと英国の大学に留学した経験がある。引き受けてくれた担当教授からの差別はなかったが、周りの看護師、事務方などの差別はひどかったという。

 何はともあれ、今回の本庶教授のノーベル賞は日本に大きな歓喜をもたらした。豪雨、地震、台風、政治不信、行政不信、製造会社の検査不信など国民を悲しませ欺くようなことの連続である。本庶教授は「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤに仕上げていく」ことに魅力を感じているとも言う。そしてノーベル賞の賞金は、京都大学に基礎研究を支援する基金を設立して、そこへ寄付するとまで言った。

  安倍内閣は、組閣を終えた。大臣というよりでぇじんの顔ぶれ。基礎研究に潤沢な資金が必要と訴えるが何人のでぇじんがこの訴えを真摯に受け止めただろうか。野党は今度の内閣を「在庫一掃 閉店セール内閣」と評した。昔、出世の上りは「末は博士か大臣か」と言われた。仕事ができる大臣はとうの昔に在庫がなくなり、博士も大学機構の合理化と節約とやらで在庫がなくなってきている。10年先を、せめて5年先を読めないものか。

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