団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

せびり屋の理髪師

2020年04月09日 | Weblog

  2001年、私はチュニジアに住んでいた。妻はチュニジアとモロッコの医務官を兼任していた。妻は、3カ月に1回兼任国のモロッコへ出張した。妻が出張する時は、私はひとりで留守番していた。出張は3,4日だった。出張に同行したことがあった。

 モロッコの首都ラバトのヒルトンホテルに泊まった。ホテル内の理髪店で髪を切った。若い男性理髪師だった。顔色が悪く嫌な咳をしていた。腕も良くなかったが、口は達者だった。終わるとチップを要求してきた。私は彼をせびり屋の理髪師と名付けた。もちろんロッシーニの序曲『セビリヤの理髪師』をもじったのだが。

 モロッコから帰国してまもなく私はインフルエンザになった。約2週間ひどい咳と高熱とけだるさでベッドから出ることができなかった。妻は未だかつてインフルエンザに罹ったことがない。人類が今日まで生き残れたのは、妻のようにいろいろな病気に対して生まれながらに抗体を持つ人だったに違いない。人類すべてが抗体を持っていたら、今頃地球は人であふれていたであろう。私はラバトのせびり屋の理髪師の顏を今でもはっきり思い出せる。

 医務官を退官して日本に帰国して16年が過ぎた。妻と同行した海外生活は13年間だった。5ヵ国で暮らした。理髪店や美容院にエイズ、感染病や衛生問題で行けない国もあった。日本から持って行った電気バリカンが役に立った。妻が私の理髪師だった。ネパールでは頭に吹き出物がよく出た。清潔に保つからと妻は私を坊主頭にバリカンで刈り上げた。温かい太陽の光を浴びながら、妻に頭を刈ってもらった。服の中に毛が入らないようにと、ビニールの風呂敷を首の周りに巻いた。不便な生活だったが夫婦で力を合わせて乗り切った。日本に帰国して床屋へ行くのは、大きな楽しみになった。気に入った床屋を探すのに時間がかかったが今の床屋に決めてすでに12年経った。去年、床屋の主人の奥さんが急死した。しばらく主人ひとりでやっていたが、息子が跡を継ぐと言って公務員をやめて店に入った。

 直近で床屋に行ったのは2月初めだった。そろそろ床屋へ行かなければと思っていた矢先、8日に安倍首相が「緊急事態宣言」とやらを発令した。普段から8割以上の人との接触がない私である。宣言が出たからと言って、私の生活に大きな変化はないと思っていた。ところが床屋へ行くには、まず電車に乗らなければならない。電車は不特定多数の乗客がいる。床屋に着いて髪を切ってもらう時、嫌でも主人や息子と濃厚接触せざるを得ない。私は72歳の高齢者で糖尿病を持つ身である。こんな時、モロッコのせびり屋の理髪師を思い出してしまう。チュニジアに戻ってからのあの苦しみは、もう経験したくない。今度の新型コロナウイルスは感染するとインフルエンザより咳や胸の痛み、呼吸困難の度合いは、他のインフルエンザの比ではないという。クワバラ、クワバラ。床屋の主人に会いたい。でも私が保菌者で主人にうつすかもしれない。やはり自粛して自宅待機を続行。

 日曜日妻に髪の毛を切ってもらうことにした。海外での不便でも二人力合わせて暮らした生活を思い出した。海外で使ったバリカンは、サハリンを離れる日にリンさんにあげた。妻はハサミで切ってくれた。坊主にはならない。床屋の主人にはかなわないが、サッパリ。

 次は床屋の主人にまた髪を切ってもらいたい。

 

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