団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

春の足音

2022年03月18日 | Weblog

  散歩の途中、いつものように小学校の校庭脇の木蓮をチェックした。まさかの光景。なんと花が咲いていた。裏切られたような気持ちと意表外な展開に嬉しい気持ちがせめぎ合う。一日前、枝のつぼみは、まだ固く閉じていて小さかった。この数日気温は、20℃と4月下旬の暖かさだった。おそらく気温が木蓮の開花を速めたのだろう。また1年が過ぎてしまった。木蓮の花が咲き、花が散り、緑の葉がたくさん茂り、葉が散った。散歩で免疫力をつけようと、散歩が仕事であるかのように歩き続けた。この間、コロナは、消えるどころか、次々に変異している。すれ違う人が皆、コロナ保菌者であるかのような妄想が私を支配する。悲しい。私は本来こんな人間ではなかったはず。元の私に戻りたいともがいた。去年木蓮の花が散って1年が通り過ぎた。コロナ禍は、何も変わらない。ただ木蓮の花言葉「自然への愛」と「持続性」に夢を託す。

 小学校から元気な声が聞こえた。体育館からなのだろうか、声が高い天井に反響している。圧倒される若い熱源が私を通り過ぎた。交差点に来た。向かい側の横断歩道を保育園の園児たちが小さな手をあげて渡っていた。少子化という、まるで国が滅亡してしまうのではないかという危惧がある。でも幼い子供を見つけると、日本の将来を思い描く希望を抱いてしまう。私が老いたからであろう。若者や子供に嫉妬する。私が子供の頃、年寄りを見ると別世界の生き物のように思えた。まさか自分は、ああはならないだろうと馬鹿なことを考えた。そらみたことか。今はしっかり別世界に入ってしまった。

 小学校から少し離れた民家の庭に、黄色の花が咲いていた。ミモザのようだが、間違っているかもしれない。ミモザは、ユーゴスラビアとチュニジアに多くあった。春になると市場で売られていた。その花の付き方で、赤い実をたわわに付ける千両万両のように、子孫繁栄を願う花であるとも聞いた。私は、黄色や青色の花に魅かれる。ミモザの黄色も好きだ。花言葉は、「感謝、友情、エレガンス、密かな愛」感謝、友情、エレガンスに共感するが密かな愛はいかがなものか。

 散歩も帰路に入り家の近くの桜並木に足を進めた。桜のつぼみのチェックは、散歩の楽しみのひとつである。つぼみの大きさをチェックする気持ちは、「♪もういくつ寝るとお正月♪」と同じ気がする。桜は特別な花である。花言葉「精神美」に日本人が理想とする生き方を感じる。コロナ前、花見を兼ねて高校の同級生や親友家族との宴会を楽しんだ。今年も再開は不可能であろう。3回目の中止である。加えてちょうど家の前の桜並木の桜の木が4本去年夏の豪雨で流されてしまった。並木が並木でなくなった。それでも桜の木がまだ残っている。そして昨日、その桜のつぼみが、ちょこっと先がピンクになっているのを見つけた。心がほどける。これが「自然への愛」なのか。「密かな愛」かもしれない。

 コロナに戦争に地震。恐ろしいことが続く。内向きになりがち。ストレスで押しつぶされそうになっている自分に、ピンクに色づいた桜のつぼみが「精神美」だよと諭してくれる。また今年も桜並木の残った桜が一斉に満開になり、そして散るだろう。なるようにしかならない日常の中、今日も「自然への愛」を確認できる何かを見つけに、雨の中散歩する予定である。


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