団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

撤退

2019年12月09日 | Weblog

  高校の同窓生O君からメールが来た。恒例のミカン狩りのお誘いである。「ミカン畑は6年間続けましたが、イノシシの被害や害虫で20本位枯らしてしまいました。新たに植えた苗木も20本くらいありますが、獲れるようになるまではまだまだです。今般、体力の衰えとイノシシ被害に背中を押され、みかん栽培から撤退することを決断しました。思う存分収穫を楽しんでいただければ幸甚です。」

  去年、私たち夫婦は、ミカン狩りを辞退した。代わりにミカン狩りに夫婦で参加した同窓生で友人N君がO君からと言ってたくさんのミカンと野菜を届けてくれた。今年は年初からカテーテル手術などで体調が良くなかった。O君は、気を遣って私に誘いのメールを送ってこなかった。

  正直、メールが来たとしてもとても参加できる状態ではなかった。ミカン狩りは8日の日曜日。9日の月曜日には、東京の大学病院で末梢血管外科の検査日で東京へ行く。私はこの受診日がずっと気がかりだった。何故なら前回の診察で処方された薬を服用して1週間でやめてしまったからである。この薬を飲むと、心臓がパクパクドキドキした。脚の血管の血液の通りを良くする薬と聞いていた。薬をやめると心臓は、元通りになった。だが医師によっては、患者が処方された薬を無断で服用をやめると怒る。以前私はそういう経験をした。だから9日の再診日が来るのを恐れていた。

  O君のメールを見て、気持ちが変わった。文中の「撤退」の2文字で、8日のミカン狩りに参加することを決めた。O君にも仲介してくれたN君にも、メールで参加する旨を伝えた。7日土曜日は気温が上がらず寒かった。こんなに寒ければ、私の脚ではとてもあのミカン畑の急坂を登れないであろう。まわりの人々に迷惑をかける。しかし天気予報で8日は晴れて気温も上がるという。7日の夜、妻の誕生日を友人が祝ってくれて招待されていた。帰宅するとN君が留守電に朝9時半に彼の車で迎えに来てくれる旨が録音されていた。

  8日の朝、空は青空、陽の光がたっぷり。O君が待つミカン畑にN君夫婦と4人で向かった。O君が道路端で待っていてくれた。ずっと続くと思っていてミカン狩りが今年最後になると思うとO君の姿を見ただけでジーンときた。何事にも終わりが来る事は知っている。いざその場面に対峙すると駄々っ子のように現実を拒もうとする。O君が「お互い大変だ」と言った。(写真:ミカン狩りの作業着に着替えるよう、O君が作った洋服掛けとO君と太平洋)

  急な坂道を登った。私は、これが最後のO君のミカン畑訪問になると呪文のように唱えながら、一歩一歩登った。ある思い出が蘇った。私の父親が亡くなる4年前、当時父は68歳だったが、「太郎山に登りたい」と言った。脚が悪く、杖なしでは歩けなかった。標高1164メートルある上田市民に愛される山である。普通1時間半くらいで頂上に行ける。父親と私は、4時間かけて少し登っては休むを繰り返して、登り続けた。頂上から上田市を父親は黙って見ていた。

  (写真:日向ぼっこしていた私の近くでミカンを背伸びしながら採る妻)ミカン狩りを終えて1輪車にミカンでいっぱいになった段ボール箱を車がある場所まで妻や友人が下ろしてくれた。私は海を見下ろし、もう見ることがないであろう景色に手を合わせた。68歳だった父を72歳になった私は、とても近く感じた。

 帰宅して、O君が6年間の急坂を上り下りして愛情を注いで育てたミカンがいっぱい入った段ボール箱を運び上げた。その重さは、O君の汗と努力と試行錯誤のようだった。O君ご苦労さまでした。そしてありがとう。


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