団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

M-1グランプリと新しもの好き

2019年12月23日 | Weblog

  22日の夜M-1グランプリでミルクボーイが第15代王者に輝いた。お笑いの世界も浮き沈みが激しい。出てきたと思ったらいつの間にか消えてしまう。反面、いつまでも何でこの人がこの人たちが、と私が思う芸人もいる。確かに才能があり、実力が認められる芸人もいる。そういう芸人は少ない。今回優勝したミルクボーイは、今年初めてのテレビ出演とのこと。見飽きた芸人が多い中、新顔登場は嬉しい。新しもの好きの私を喜ばせた。

 私は子供の頃から「新しもの好き」と母親に言われた。これにはオマケが付く。「父ちゃんに似て」である。どうやら新しもの好きは、父から私に受け継がれたようだ。新しもの好きは、飽きやすい。母は本当は新しもの好きと言うより、飽きっぽいと言いたかったに違いない。母は小学校も満足に通えなかった。兄妹が多かった。9人いた。下に男の子が4人いたので、学校へ行かずに弟たちの子守をしたそうだ。その後は、紡績工場で女工として働き貧しい大家族の家計を助けた。ずっと同じ場所にいた。一方父は、10歳で丁稚になり、宇都宮、長野、東京で働いた。徴兵されて中国へ行き、捕虜になりシベリアへ送られる途中、脱走して帰国した。東京の住宅は、戦勝国民に奪われていた。母が疎開していた上田市で一からやり直した。私の実母は、27歳で第5子を出産時に赤子と共に亡くなってしまった。実母の妹が後妻として、私たち姉弟4人を育ててくれた。

 一か所にしか暮らしたことのない母と、あちこちで暮らしたことがある父。特に父親は、野球好きで映画を観、芸能雑誌を読むが、母はそのどれにも興味がなかった。興味がないというより、母にそんな余裕がなかった。父のやることなすこと言うこと全てが母の理解できないことだった。それが「新しもの好き」と父が言われる原因だった。父は子供に甘かった。母には厳しかった。夫婦喧嘩が絶えなかった。そんな環境の中で私の「新しもの好き」の種は、芽を出し、育っていった。育ちすぎてとうとうカナダへ留学することにまでなった。

 父の新しもの好きは、新製品、特に電化製品に対して向けられた。人好きで話好きでもあった。たくさんの人を家に招いて話をしていた。時には酒やお茶を飲みながら。1年に一度回ってくる富山の毒っけし売り(薬売り)のおじさんを家に泊めてまで話を聞きたがった。父と家に来た大人たちの話を私は階段の途中に座り込んで聞き入った。これは小学校で転校生がいると即応用された。周りからは、「新しもの好き」と批判の声も上がったが、それだけでなく見ず知らずの人にも親切にしてあげるという一面もあったと思う。母の「父ちゃんに似て、新しもの好き」がしっかりと私の中で血となり肉となっていった。

 新しもの好きは、好奇心が強いと言い直せる。適度な好奇心は、長所となる。度が過ぎると欠点となる。好奇心は、未知の世界への誘いとなる。海外への憧れもその表れであろう。小田実の『何でも見てやろう』は、大いにカナダ留学への後押しとなった。再婚した妻の仕事の関係で海外生活することになった。2,3年で任地が変わった。これなどまさに私のような新しもの好きにはたまらない刺激となった。

 最初の結婚は失敗に終わった。「女房と畳は新しいほうがよい」と落語の世界のような言い回しがあるが、すでに再婚して27年経つ。再再婚なんてまっぴらごめんこうむりたい。今は「女房と味噌は古いほどよい」がしっくり身に染みる。


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