17日火曜日、萩生田文部科学大臣は、数学と国語の記述式問題の再来年からの導入を見送ると発表した。理由は、採点者の確保が来年秋から冬になる、採点ミスを完全になくすことが期待できない、採点結果と受験生の自己採点の不一致を改善することが困難だからだと言った。
私はそもそも国が大学入試にこれだけ介入すること自体理解できない。義務教育は中学卒業で終わる。就職も進学も個人の選択に任されるはずである。高校の入試に国は、ほとんど介入していない。高校は市立、県立、私立が多く、国立は一部の大学付属に限られる。大学にも市立、県立、私立もあるが国立は、どこの県にも配置されている。国立大学は、独立行政法人化された。独立行政法人になったということは、廃止、民営化の可能性もありうる。これでは国立とは名ばかりで、経費削減のための愚策である。高校無償化より国立大学に対する補助を上げるべきだ。やることなすこと将来への展望がなさすぎる。
採点者の確保に問題があるという。これを理由にあげていること自体、教育者を馬鹿にしているとしか思えない。教師と教授の仕事の一つは、採点である。私は日本とカナダの高等教育を受けることができた。日本の高校からカナダの高校に移って驚いたことがある。日本では試験は、すべてペーパーテストの採点の点数だけしか書かれていなかった。一方カナダの学校では教師の評価・意見・感想・提案が丁寧に長々と書き込まれていた。試験もペーパーテストだけでなく、レポートや口頭尋問的な試験もあった。日本の高校ではペーパー試験の点数ばかりが取り上げられ、学年何番と結果が重視された。カナダの私が学んだ高校では、ペーパーテストの比重は低く、レポートや面接試験もそれ相当に評価された。私はなぜこのような違いがあるのか考えた。一人の教師が担当する生徒数の少なさ、授業日数の少なさ、学習進度の遅さが、カナダのあの高校の密度の高い授業に繋がっていると思う。日本の高校の教師は、担当する生徒数が多く、授業日数が多く、学習内容が多くその上難解。大学入試を変えてばかりいるより、まず小中高の在り方から変えるべきだ。
政策が先延ばしされたり、事実が隠蔽される時、実に用意周到に面倒なことが敏速に処理される。いつから日本人はこれほどまでに面倒くさがりになってしまったのか。記述式だと採点が面倒!ふざけているのか。他の国で当たり前のようにされている面倒な試験処理がなぜ日本ではできないのか。入試の結果は、受験生の一生を左右する。受験生を惑わせてはならない。
大学入試は個々の大学が自主的に施行するべきだと私は考える。記述式で選抜したい大学、マークシート式、実技。受験生が自分に合った試験方法で進学する大学を選ぶ。でも何においても順位をつけて評価したい日本人は、今の試験法を維持してしまうであろう。決める側の試験秀才の権益を維持するには、現行の試験方式が最適だからだ。
先日、歯医者へ行った。途中で駅のトイレに入った。清掃員のおじさんが知り合いらしい男性と話していた。「…桜を見る会だとかなんとか言ってるが、俺に言わせれば、あれは地獄を見る会だよ…やらなければならないことがいくらでもあるのによ。税金使って桜見ていられっか…」 まともなことを言っていると感心した。国会の質疑応答よりずっといい。
試験で人間性を評価できない。できないことを、ああでもない、こうでもないといじりまわす側もいれば、それを苦々しく見ている側もいる。それでも時間は進む。地球の終末時計はあと2分と言われている。これからはこの2分を戻すことができる人材が必要だ。大学もそういう頼もしい人材を自前の試験で選ぼうとする気概を持って欲しい。大学だけではない。個人の能力や思いにも期待している。