団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

あった、日本製品

2014年02月06日 | Weblog

《お知らせ:都合により2月12日水曜日分を本日投稿します》

 

  私にはテレビや映画を楽しむ方法がある。海外ニュースや最新封切り映画を見れば、画面に映る製品がどこの国のメーカーのものか目を凝らす。画面に映る製品で世界の動向が見えてくる。

 よく見るシーンに新聞記者やテレビの記者がカメラやビデオカメラを持って取材攻勢をかけているのがある。取材されている人物よりも私の眼はカメラやビデオ機器がどこの製品かを見極める。いまだにカメラはNIKONが圧倒的で、ビデオもSONY,CANON、PANASONICなどが多い。それを確認しては安堵している。

 アフガニスタンでテロがあって現場が映るとトヨタのランドクルーザーが国連のマークを付けて走っている。タイのデモを伝える町の道路は、いすずや日野のトラックや日本車に埋め尽くされている。ベトナムの通勤時間帯の道路には、日本のオートバイが溢れる。一方中国や韓国からの道路の映像の中に日本車を見つけるのは困難である。

 私は日本製品が国際競争力を失っていることを残念に思っている。私ごとき一般庶民が思い煩うことでないことは重々承知している。私には日本製にこだわる理由がある。17歳でカナダの全寮制高校へ転入した。学校で寮で嫌というほどメイド イン ジャパン=粗悪品と馬鹿にされた。悔しかった。全校でたった一人の日本人だった私の存在が生徒たちのうっぷん晴らしにされた。私と日本製品とは何の関係もなかった。ただ私が日本人というだけで、まるで私=日本国のごとくに扱われ、ことあるごとに嘲笑の種にされた。

 その後、日本は目覚ましい発展を遂げる。いくつもの会社が世界的ブランドになった。バブル崩壊を期に日本製品の凋落が始まった。1990年から妻の海外勤務に配偶者待遇の立場で同行した。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアに住んだ。どこに暮らしても、日本製品の浸透度、評判が気になった。カナダの高校で散々馬鹿にされたことへの反発があった。日本だってできるんだ、と信じたかった。12年続いた海外生活の最初の数年間は、日本製品には勢いがあった。そんな状況を実際に自分の目で見て耳で聞いて嬉しかった。セネガルあたりから様子が変わってきた。セネガルには中国のHAIER、韓国のLGが進出していた。いたるところにこの2社の看板があり、日本の家電品は影がうすかった。住んだ国々が発展途上国だった所為もあって、品質よりもとにかく値段が問題だった。

 日本に帰国すると12年前の日本とは別の国のようになっていた。浦島太郎になった気がした。とにかく日本は元気を失っていた。帰国して10年になる。3年前には東日本大震災に遭遇した。疲弊した日本の中に日本人本来の姿を再び見ることができた。大震災後、日本が変わってきた。

 世界には親日的な国もある。そうでない国もある。200近くの国家とそれに準ずる地域がある。すべての国から好かれることはありえない。国と製品は異なる。日本の製品によっては、世界の誰からも好かれるようになることは可能である。日本製品で日本を嫌いな人々を日本好きに変えることもできるかもしれない。妥当な価格、優れた品質、好まれるデザイン、アフターサービス。競争は激しい。しかし日本人の真面目さ、器用さ、我慢強さ、繊細さ、美的感覚があれば、とことんモノづくりを追及できるはずだ。期待している。


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変身、シャッター街

2014年02月06日 | Weblog

 《お知らせ:都合により2月10日月曜日分を本日投稿いたします》

 住む町の商店街のアーケードが取り外された。シャッター街はずっと廃墟のようだった。シャッター街になって久しい見慣れた活気のない街並みの風景が違って見えた。取り外された理由は分からない。アーケードが古くなって危険になった。アーケードの天井に付けられた照明の電気代の負担ができない。理由はどうであれ、暗くて重い雰囲気の商店街がアーケードを取り除いただけで、明るく空間の拡がりを感じる。そんな変化を目の当たりにして、3つの妄想が湧いた。

①    シャッター街をスクリーンに

  去年の暮も改修復元工事を終えた東京駅に“東京ミチテラス”というCGを使った光の祭典があった。東京駅の外壁全体が美しく幻想的な大スクリーンになって観客を魅了した。CGや映像の投影技術進歩は目覚ましい。東京駅で使われたような大規模な機器装置でなくもいい。簡易な投影機をシャッター街のあちこちに設置して暗くなったらシャッターをスクリーンにして、シャッター街の陰気な雰囲気を吹き飛ばせないだろうか。

②    シャッター街をキャンバスに

  ヨーロッパによくある狭い道の両脇に立ち並ぶ商店街が好きでよく歩いた。ヨーロッパの建物は煉瓦造りが多い。私の住む町のシャッター街の建物はほとんどが新建材で建てられている。①は夜しか使えない。ならばよく工事現場のまわりを絵や写真を印刷してある遮蔽用の囲いのようにシャッターをキャンバスにしてしまう。そこにその街の江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代などの商店街の風景を描く。

③    シャッター街を博物館に

 住民は冷たい。自分たちの生活を安定させるために大企業が経営する安くて駐車場が広く品ぞろえが豊富なスーパーやコンビニで買い物をするが、個人商店を平気で見捨てる。それがシャッター街出現の原因である。シャッター街は店舗兼住宅が圧倒的に多い。ということは店舗部分はそのまま空いているということだ。この空間の利用を考える。シャッターを上げないことには、商店街の廃墟化は防げない。どんどんゴーストタウン化が進む。ではどうするか。まずシャッターを上げる。アーケードを外しただけでこれだけ街があかるくセイセイとした。アーケードの次はシャッターが邪魔だ。このシャッターを取り外して商店街博物館にする。1商店に1枠の展示ブースを設ける。どの市町村にも歴史があり地元出身の偉人文化人有名人がいる。本来、博物館を建てて保存保管しなければならないモノは役所の倉庫にも商店にも家庭にもあるはずだ。各商店の枠は小さくてもよい。現にヨーロッパの路地にある商店街などの店もショーウインドーも小さいものが多い。何が展示されているのかと小さなショーウインドーを覗くのも楽しいものである。数十軒の商店の小さな展示場にその商店街にまつわる、その市町村にまつわる展示品は観る者の興味をひく。シャッター街の敵は、人通りのなさである。出歩く人の数を増やさなければ、それこそ町の中さえ“限界集落”になってしまう。

 無責任なただの思い付きかもしれない。シャッター街を見るたびに哀しくなる。何とかならないかと考える。商売の難しさは私も身に染みて体験している。客がいて、商品が売れなければ商売は成り立たない。商店街はフリーマーケットだの福引だのと企画する。企画すればするほど経費がかかり、月日が経つにつれて閉じたままのシャッターが増えていく。ここは発想を転換させてみたらどうだろう。人が戻れば、商売は自然発生するに違いない。アーケードを外しただけで、街の景色が変わった。もっと変わってもっと明るい街になってほしい。


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大発見、STAP細胞

2014年02月06日 | Weblog

  理化学研究所の小保方晴子(30歳)博士のSTAP細胞の発見が大きな話題になっている。私にはその発見の内容を理解するだけの知能も知識もない。大発見の科学的詳細を知ることをハナからあきらめている。ただ若い女性研究者が大発見をしたことを素直に喜んでいる。小保方さんの話の中で「ピンチに陥ると必ず助けてくれる人が現れて、助けていただけた」には自分の耳を疑った。私が自分の人生を総括する時に思うことと同じだったからである。

 私は自分の人生のいくつかの絶体絶命のピンチで助けてくれた人が現れている。4歳で実母を亡くした。残された4人の幼子たちの面倒を見るために実母の妹が継母になってくれた。「あの時、幼いあなたたちを見て、放っておけないと何も考えないで飛び込んでしまった」と今でも笑う。継母が来る前、東京と新潟の2家族に預けられたが、結局長野県に戻った。理由は分からないが、たぶん、私は貰われていくにはあまり可愛くない子だったに違いない。

 その後、家の近くの農業用水に流された捨て猫を助けようとして私は水の中に落ちた。農繁期以外はチョロチョロとしか水が流れていなかった。田植えの季節で水は満々と川渕にまで迫っていた。たまたまそれを見ていた近所のおじさんがいて、流される私と私が抱いていた猫を助けてくれた。私はこの事故の記憶はまったくない。親から何度も「あの時あのおじさんが助けてくれなかったら、お前は死んでいた」と聞かされた。

 高校に入って通ったアメリカから来ていたバイブルクラスの講師ネルソン夫人はカナダの高校へ留学するのに煩雑な手続きを引き受けてくれ身元保証人になって助けてくれた。

 日本に帰国して結婚したが、10年も続かずに離婚した。手元に残された2人の子供。長男は全寮制の高校が彼の面倒をみてくれた。長女はアメリカの友人一家が預かって育ててくれた。

 私は長野県に残り、働けるだけ働いた。子供が大学を卒業するまではと歯を喰いしばって仕送りした。息子には週1回、娘には毎日手紙を書いた。

 最後に幸運のキューピットが弓の矢を私の心を打ちぬいた。私の人生における大発見であった。40歳を過ぎてから出逢いがあって再婚した。今の妻は私の人生を変えた。妻は大学医学部を卒業してから私と結婚するまで、不妊治療の勉強をしていた。そのためにオーストラリアそして英国にも留学した。小保方さんにも同じような女性に対する思い遣りが研究の根底にあると聞いた。

 妻の研究は発見やいかなる賞にも結び付かなかった。けれども妻に後悔はない。私はそういう妻を尊敬する。今回の小保方さんの大発見のニュースにも妻は何回も目頭をティッシュで押さえていた。「ピンチに陥ると必ず誰かが現れて、助けていただいた」と小保方さんが言うと妻は「彼女には周りには傍から見たら無駄としか思われない研究を毎日何度も繰り返すたくさんの研究者がたくさんいるんだろうね」と言った。いかなる科学的な研究に従事したことがない、もともと理系でない私には彼女たちの研究の実際を理解することは難しい。でもそれを聞いて母の言葉を思い出した。

 「10人の人がいたら、そのうちのせめて3人くらいからは、お前をどんなことをしても助けてあげたいと思われるような、そういう性格の良い好かれる人になりなさい。お金より勉強より大切なことだよ」


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