団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

山桃

2013年07月11日 | Weblog

  妻を駅に送る道すがら気になる光景があった。鉄製の枠で車道と分けた幅1メートルくらいの歩道に無数の赤黒い直径2,3センチの実がびっしり落ちている。妻に「これって山桃かな?」と言うと「そうだよ。チュニジアでたくさん食べたよね」と答えた。山桃としたら大発見である。

 思い立ったら吉日。カメラを持って現場に行くことにした。暑い日が続いている。日陰を見つけ、なるべく直射日光を避けながら歩いた。道路にまで山桃は散らばり、その多くが車に押しつぶされていた。その所為かあたり一面甘酸っぱい山桃のニオイが立ち込めていた。庭の奥にに立派な住宅があった。山桃の木の高さ約5メートルで幹は直径30センチぐらいである。植木で庭は埋め尽くされていた。どの植木も手入れが行き届いている。

  山桃の背後で物音がした。よく見ると80歳くらいの腰が曲がった女性が箒で落ちた山桃を片付けていた。「こんにちは。これ山桃ですよね?」と声をかけた。「ああ、そうだよ。毎日ごっそり落ちて大変だ。少しは焼酎に漬けたりするけれどとても採りきれない」 私は心に思っていたことと違うことを口にした。「写真撮ってもかまいませんか?」「ああ、どうぞご自由に」そう言い残して女性は5メートルほど奥の玄関に向かった。

  本当は「山桃、少し頂いてもいいでしょうか?」と私は尋ねたかった。小心者でエエカッコシイは、山桃をただ収穫することもなく腐らせてしまうのはモッタイナイと解っていても、他人さまのモノをむやみに欲しがってはいけない、と勝手に決め付けている。山桃のジャムもゼリーも美味しい。この辺の果物屋にも山桃は並ばない。

  自責感と手に入れることができなかった無念さが疼いた。持ち主に黙って採れば泥棒である。「下さい」と言えないが、「上げるから好きなだけとって行って」と見ず知らずの持ち主が言ってくれるのを期待する理不尽さは持ち合わせる。金を払って買うことだってできたかも知れない。持てる者と持たざる者の間には先入観と遠慮と誤解が横たわる。忸怩たる思いに沈む。そんな気持ちを振り払おうとカメラのシャッターを押した。

  家に帰ってインターネットで“山桃”を検索してみた。九州には山桃を専門に栽培する果樹園もあって通信販売で300グラム1200円~2250円で売っていた。チュニジアでは山間部の子供たちが1キロ以上入った山桃を200円ぐらいで売っていた。もちろん日本の山桃は品種改良されているだろうけれど、商売になっているようだ。

 昨日、木からほとんどの山桃は落ちてしまっていた。落下した山桃もキレイに片づけられていた。モッタイナイことをした。来年は財布を持って「譲っていただけますか?」と思い切って声がかけてみよう。


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