仕事を離れて、オーストリアへ行ってきた。「え? オーストラリアへ行くんですか?」と複数の人間に聞かれたが、「リア」と「ラリア」の差は大きい。「ラリア」だと、どうしても仕事になってしまう。「リア」なら、多分ならない。だから、オーストリアへ。そして行くからにはどうあってもウィーン市内めぐりは外せない。
しかし、週末のウィーン1区は、観光客しか存在していないのではないかと思われるほど、観光客であふれかえっている。それも世界各国からの団体さんが多く、様々な言語が耳に入ってくる。オーストリア人たちは金曜の午前で仕事を終えるとのことなのだが、そのあとは一体どこに行ってしまうのだろう。
見どころは1区に多いのだけれど、1区のあまりの観光客の多さに加えて、フンデルトヴァッサー・ハウスがあるからという理由で先に3区に立ち寄ってみようと、マルクサーガッセに足を踏み入れた。そこでまずわたしを圧倒したのは、廃墟と化したゾフィエンザールだった。
ゾフィエンザールは「ゾフィー(バイエルン王女、オーストリア大公妃)のホール」という意味だ。1826年に建築されたホールで、クラシック音楽ファンには、英国のデッカ・レコードが1950年代から1980年代半ばまで、ウィーン・フィルの録音に使用したホールとして有名だ。舞踏会に使われる広いホールに高い天井、そして地下には屋内スイミングプールがあったために音響が素晴らしく、録音向きだったらしい。また、ヨハン・シュトラウス父子もここで演奏を行っているなど、由緒のあるホールであるが、この歴史的建築物は2001年8月の火災で外壁を残して焼失してしまった。
修復プロジェクトが開始されたたという話も聞いたこともあるが、どこまで進んでいるのかわからない。だが、ともかく、外壁を残して焼失したゾフィエンザールの写真は、ネットのあちらこちらに散らばっているので、無残な姿を目にする心構えもあった。
しかしショックだったのは、そのような写真には写っていなかったグラフィティ(というか、単なる壁への落書き)が正面側の壁に描かれていたことだ。(下の写真は、クリックで拡大します。)
ウィーンの街にはグラフィティが多い。1区でもかなりの落書きを見た。が、さすがに観光名所になるような名のある歴史的な建造物にはない。ゾフィエンザールのファサードのグラフィティには、「この建物には、もう何の価値もない」と言われているようで、わたしはしっかり落ち込んでしまった。
マルクサーガッセを挟んでゾフィエンザールのほぼ斜め前になるザイドルガッセ21には、このブログで何回か取り上げているピアニスト・作曲家の故フリードリヒ・グルダが生まれてから20歳あたりまで過ごしたアパートがあった。(その後グルダ一家は1区へ引っ越した。)
今ではそのアパートはなく、別の黄色い(1960年代か70年代あたりに建てられたらしいデザインだ)アパートがあるが、オーストリアではこういう場合は「ここに、グルダが幼年期と青年期を過ごした建物が建っていた」というプレートが、この建物の外壁につけられるはずである。見れば、確かにそのようなプレートがついていた。こういうプレートが市内の建物の至るところにあり、こういうものを色々と探すのも楽しいものだ。(たとえばホテル・ザッハーには、ここがかつてアントニオ・ヴィヴァルディが住んでいた場所であることを示すプレートがある。)
ところで、ウィーン3区出身のピアニストといえば、ザイドルガッセ出身のグルダのほかには、エルトベルク通り出身のジャズ・ピアニストの故ジョー・ザヴィヌルがいる。両者とも偉大なピアニストである。ウィーンではこのような偉大な出身者は、公園にその名を残すはずである。
というわけで、フリードリヒ・グルダ公園という名の公園もジョー・ザヴィヌル公園という名の公園もウィーンの中にあり、しかも3区の中にある。どちらもGoogleマップで探せるので、探してみるとよい。なんなら、行ったついでに足を延ばしてみても良い。
わたしは、マルクサーガッセとザイドルガッセからウィーン国立音楽大学に向かう途中に、ちょいと回り道をしてフリードリヒ・グルダ公園の前を通った。話には聞いていたが、公園のを囲むように新しいアパート群を建設中で、周囲一帯が立ち入り禁止で、中がどうなっているのかはわからなかった。が、きっと、その辺にあるきわめて普通の小さな公園だと思う。
(注:本文中の、地名について、「ガッセ (Gasse)」は「小路」「路地」「横丁」の意味なので、Marxergasseは「マルクサー小路」とも訳される。個人的に「小路」のイメージがつかめないので、「マルクサーガッセ」と記載した。表記の統一のためにはErdbergstrasseを「エルクベルトシュトラッセ」とすべきかもしれないが、こちらのほうは「エルクベルト通り」のほうが分かりやすいと思うので、そのように表記した。)
しかし、週末のウィーン1区は、観光客しか存在していないのではないかと思われるほど、観光客であふれかえっている。それも世界各国からの団体さんが多く、様々な言語が耳に入ってくる。オーストリア人たちは金曜の午前で仕事を終えるとのことなのだが、そのあとは一体どこに行ってしまうのだろう。
見どころは1区に多いのだけれど、1区のあまりの観光客の多さに加えて、フンデルトヴァッサー・ハウスがあるからという理由で先に3区に立ち寄ってみようと、マルクサーガッセに足を踏み入れた。そこでまずわたしを圧倒したのは、廃墟と化したゾフィエンザールだった。
ゾフィエンザールは「ゾフィー(バイエルン王女、オーストリア大公妃)のホール」という意味だ。1826年に建築されたホールで、クラシック音楽ファンには、英国のデッカ・レコードが1950年代から1980年代半ばまで、ウィーン・フィルの録音に使用したホールとして有名だ。舞踏会に使われる広いホールに高い天井、そして地下には屋内スイミングプールがあったために音響が素晴らしく、録音向きだったらしい。また、ヨハン・シュトラウス父子もここで演奏を行っているなど、由緒のあるホールであるが、この歴史的建築物は2001年8月の火災で外壁を残して焼失してしまった。
修復プロジェクトが開始されたたという話も聞いたこともあるが、どこまで進んでいるのかわからない。だが、ともかく、外壁を残して焼失したゾフィエンザールの写真は、ネットのあちらこちらに散らばっているので、無残な姿を目にする心構えもあった。
しかしショックだったのは、そのような写真には写っていなかったグラフィティ(というか、単なる壁への落書き)が正面側の壁に描かれていたことだ。(下の写真は、クリックで拡大します。)
ウィーンの街にはグラフィティが多い。1区でもかなりの落書きを見た。が、さすがに観光名所になるような名のある歴史的な建造物にはない。ゾフィエンザールのファサードのグラフィティには、「この建物には、もう何の価値もない」と言われているようで、わたしはしっかり落ち込んでしまった。
マルクサーガッセを挟んでゾフィエンザールのほぼ斜め前になるザイドルガッセ21には、このブログで何回か取り上げているピアニスト・作曲家の故フリードリヒ・グルダが生まれてから20歳あたりまで過ごしたアパートがあった。(その後グルダ一家は1区へ引っ越した。)
今ではそのアパートはなく、別の黄色い(1960年代か70年代あたりに建てられたらしいデザインだ)アパートがあるが、オーストリアではこういう場合は「ここに、グルダが幼年期と青年期を過ごした建物が建っていた」というプレートが、この建物の外壁につけられるはずである。見れば、確かにそのようなプレートがついていた。こういうプレートが市内の建物の至るところにあり、こういうものを色々と探すのも楽しいものだ。(たとえばホテル・ザッハーには、ここがかつてアントニオ・ヴィヴァルディが住んでいた場所であることを示すプレートがある。)
ところで、ウィーン3区出身のピアニストといえば、ザイドルガッセ出身のグルダのほかには、エルトベルク通り出身のジャズ・ピアニストの故ジョー・ザヴィヌルがいる。両者とも偉大なピアニストである。ウィーンではこのような偉大な出身者は、公園にその名を残すはずである。
というわけで、フリードリヒ・グルダ公園という名の公園もジョー・ザヴィヌル公園という名の公園もウィーンの中にあり、しかも3区の中にある。どちらもGoogleマップで探せるので、探してみるとよい。なんなら、行ったついでに足を延ばしてみても良い。
わたしは、マルクサーガッセとザイドルガッセからウィーン国立音楽大学に向かう途中に、ちょいと回り道をしてフリードリヒ・グルダ公園の前を通った。話には聞いていたが、公園のを囲むように新しいアパート群を建設中で、周囲一帯が立ち入り禁止で、中がどうなっているのかはわからなかった。が、きっと、その辺にあるきわめて普通の小さな公園だと思う。
(注:本文中の、地名について、「ガッセ (Gasse)」は「小路」「路地」「横丁」の意味なので、Marxergasseは「マルクサー小路」とも訳される。個人的に「小路」のイメージがつかめないので、「マルクサーガッセ」と記載した。表記の統一のためにはErdbergstrasseを「エルクベルトシュトラッセ」とすべきかもしれないが、こちらのほうは「エルクベルト通り」のほうが分かりやすいと思うので、そのように表記した。)