巣窟日誌

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「高島平ドリーム」

2006-02-05 22:48:52 | ニュース
高島平団地は、旧日本住宅公団(現年再生機構)が72年に完成させた。大阪・千里(62年)、東京・多摩(71年)両ニュータウンほど広大ではないが、高度経済成長の働き手として地方から東京へ出てきた人たちが夢を抱いて住み込んだ。
(朝日新聞 2006年2月5日第2面より)


本日(2006年2月5日(日))の朝日新聞の1面と2面で、「分裂日本」というシリーズ物の第1部として、高島平団地を取り上げている。日本の社会が階層化し、格差が広がって日本が分裂しつつあることを検証しようという主旨らしく、かつての「中流」が集まっていた高島平団地の現状に、一億総中流意識が崩れて分裂しつつある社会を映し出そうというわけだ。

この記事によると、高島平は高度経済成長を指させたサラリーマンがマイホームを最初に実現する場所であり、高島平団地に移ってきた人たちには、まずは高島平団地の賃貸棟を借り、収入や地位が上がれば次に分譲棟へ移り、さらには一戸建てへ…という「高島平ドリーム」があったらしい。

高島平団地ははわたしが生まれたあとにできた団地だ。前の名を徳丸田んぼといって、東京の穀倉地帯だった。とはいっても、ここで田んぼを耕していたのは母の世代までで、わたしが覚えているこの場所の昔の姿は、「一面の野原」だった。それはすでに団地になることが決まって、区画整理のために穀物が作られなくなった元田んぼ・畑の一時的な姿であったわけだが、この一瞬の姿?広大な草原、小さな川と水草、イナゴなどのバッタ類、そしてザリガニ?が、わたしにとって高島平の原風景だ。

高島平団地が出来たのは、わたしが小学校の5年のことだった。前年の1年間を千葉県にある病弱養護学校の寮で暮らしていたわたしにとって、団地の完成は「東京にもどってきたら、野原が団地に変わっていた」ように見えた。

できたばかりの高島平は、とくに高島平駅の周辺は、別世界のように思われた。近隣の蓮根団地(当時の蓮根団地のほとんどは3階建てだった)に比べて、1棟1棟の規模が大きく階数も高く、そして最初からスーパーや小売店がそろっていた。高島平の駅前はとても広くて整備されていた。無機質な団地群と団地の作る強いビル風とあいまって、その光景はどことなく近未来的だった。そしてここの住人は比較的若い世代が多かった。

当時の他の団地より家賃が倍近く高かったため、高島平団地の完成にともなって引っ越してきた人たちの中には、「高島平に住む」ということに対してプライドを持っている人も多かった。高島平団地の住民の中には、近隣にすでにあった蓮根団地を「貧乏団地」と呼ぶ者もいた。また、高島平団地内でも序列があったらしく、「うちは分譲に住んでいるのだから、違うのよ!」という言う人もいた。

だが歴史は繰り返すものだ。タバコ屋の店番をしていた母によると、1957年に完成した蓮根団地の住民も、1970年代の高島平団地の住民と同じようなメンタリティを持ってたらしい。まだ「2DKの団地のDKで、椅子に座ってカレーライスを食べる」ことがモダンだと考えられてれた時代に完成した蓮根団地は、当時はかなり先端を行っており、住民には結構プライドの高い人が多かったそうだ。

昨年の秋、散歩がてらに久々にこの団地の周辺を自転車で回ってみた。かつてあんなに輝き、近未来的で若々しく輝いていたこの団地は、枯れていて、高度成長期のレガシーのように感じられた。今でもスーパーはあるが、あの当時はもっとオシャレなものを売っていたはずだった。団地の1階にあった多くの個人商店のテナントはなくなっており、新たなテナントが見つからないのかシャッターを下ろしたままである。歩いている人間には年配者が多く、最初の高島平団地ができたときに高島平に引っ越してきた世代が、そのまま年をとったようだ。(年配者が多いという印象については、これを裏付けるように、朝日の記事では「この団地の住民の3割近くが高齢者だ」としてしている。)

朝日の記事には、かつての「高島平ドリーム」に夢破れた人たちが取り上げられていた。「一所懸命に働いていれば、物事は良くなっていくものだと」信じて真面目に生きてきた、かつての「中流」階級の人たちのやりきれない今が載っていた。

つまりこれが日本の現状なのだろうか。