『8月の家族たち』を新宿武蔵野館で見ました。
(1)主演のメリル・ストリープがアカデミー賞主演女優賞、共演のジュリア・ロバーツが助演女優賞にノミネートされた作品だというので、見に行ってきました。
夏の酷い暑さの中、オクラホマ(注1)の家に家族・親類が集まります。
そこの主人のベバリー・ウェストン(サム・スニード)が失踪してしまったというのです。
でも、すぐにその遺体が湖で見つかり、葬儀が催されます。
その後この物語は、死んだベバリーの妻・バイオレット(メリル・ストリープ)を中心にして描かれていきます。というのも、彼女は口腔癌を宣告されていて、様々な抗癌剤を飲んでいるだけでなく、鎮痛剤の中毒にも陥っているのです。それで情緒が不安定で、暑い中をわざわざやってきた家族や親類たちに酷い言葉を投げかけたりします(注2)。
その攻撃の犠牲になったのは、長女・バーバラ(ジュリア・ロバーツ)、次女・アイビー(ジュリアン・ニコルソン)、三女・カレン(ジュリエット・ルイス)(注3)。
特に、バーバラは、別居中の夫・ビル(ユアン・マクレガー)と娘と一緒にやってきているのですが、バイオレットはことさら厳しく当たります。
ベバリーの死によって図らずも一堂に会することになったバイオレットの家族ですが、果たしてウェストン家は絆を元に戻せるでしょうか、それとも、………?
本作は、戯曲を映画化したものであり(注4)、戯曲特有の匂いが漂っていますが(大仰で激しい内容の台詞が多く、それも練られた台詞が続き、見ている方は聞き逃すまいと緊張を強いられます)、演じるのが皆名だたる俳優ばかりですから(注5)、余り気にならず映画に惹きつけられて見終えることが出来ました。
(2)実際のところ、本作において、女性の登場人物の性格付けがくっきりとしていて、母娘の言い争いは実に激しく(注6)、それを演じる女優陣の演技には眼を見張るものがあります。
でもそうなると、男性の登場人物の存在感は、一流の俳優が演じているとはいえ、自ずと希薄なものとなってしまいます(注7)。
まず、バイオレットの夫のベバリーです。
彼は映画の冒頭に登場し、T.S.エリオットから「人生はとても長い」という章句を引用して、「そう考えるのは彼が初めてではない」と言ったり(注7)、また家政婦のジョナ(ミスティ・アッパム)と打ち合わせをしたりして、これから活躍するのかなと思いきや、すぐに画面から消えてしまいます(注8)。
また、長女・バーバラの夫・ビルは、浮気をしていることや、「ジーン(アビゲイル・ブレスリン)が自分勝手なのは、あなたが教育を放棄したから」などとバーバラに非難され、「もううんざり、頼りなさすぎ」となじられます。
三女・カレンの婚約者・スティーブ(ダーモット・マローニー)も一緒にやってきますが、どうもつかみ所のない人物で、ひそかにジーンにちょっかいを出したりもするのです(家政婦のジョナに見つかってしまいますが)。
さらには、バイオレットの妹のマティ・フェイ(マーゴ・マーティンテイル)の息子であるリトル・チャールズ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、目覚しが鳴らずに寝過ごしてしまい、ベバリーの葬儀に間に合わなかったことを父親・チャールズ(クリス・クーパー)に泣いて謝りますし、皆が一同に介した食事の席では、大切な食器を床に落として割ってしまいます。また、次女のアイビーと付き合っていることを皆に告白しようとしますが、上手く言えませんでした(注9)。
挙句は、女主人のバイオレットから、「男性は皆上着を脱いでいるけど」と皮肉を言われて、すごすごと上着を着るハメになったりします。
ウェストン家の絆が元に戻るには男性陣の奮起が必要のように思われますが、………(注10)。
(3)渡まち子氏は、「あまりにも演劇的な演出は個人的には好まないが、この作品の俳優たちの演技には圧倒された。“役者の芝居を見る”のなら、この映画で決まりである」として75点をつけています。
前田有一氏も、「色々な意味で、満足度の高い演劇的ドラマといえるだろう」として75点をつけています。
(注1)場所はオクラホマ州の「Osage County」(この地名が原題に使われています)。
(注2)例えば、次女・アイビーに、「どうして化粧をしないの?化粧をしなくていいのはエリザベス・テーラーだけ」などと言ったりします。
(注3)ここは、日本語の公式サイトに掲載されている相関図に従っています。
ですが、IMDbに掲載されている本作の「Storyline」では、「eldest daughter Barbara」はかまわないものの、「youngest daughter Ivy」及び「middle daughter Karen」とされていて、カレンとアイビーの位置が逆になっています(これは、英語版Wikipedia の記事でも同じように踏襲されています)。
(注4)本作は、戯曲『August:Osage County』(本作の原題も同じ)を書いたトレーシー・レッツが脚色し、ジョン・ウェルズの監督で制作されています。
(注5)最近では、メリル・ストリープは『マーガレット・サッチャー』で、ユアン・マクレガーは『インポッシブル』、クリス・クーパーは『ランナウェイ』、ベネディクト・カンバーバッチは『それでも夜は明ける』、サム・シェパードは『MUD-マッド-』、ミスティ・アッパムは『フローズン・リバー』で、それぞれ見ました。
(注6)最近刊行された精神科医・斎藤環氏の対談集『母と娘はなぜこじれるのか』(NHK出版、2014.2)の中で、臨床心理士の信田さよ子氏は次のように述べています。
「母娘問題のほとんどは娘から母に対する違和感、息苦しさ、時には恐怖といった感覚として自覚されます。それが反発や怒りへとストレートに結びつかないことが、娘の苦しみをさらに深くするのです。一方で母親はすべての言動を愛情から出たものだと信じて疑わないので、娘の苦しみに全く気づきません。無自覚な母と苦しむ娘」(P.148)。
なお、著者の斎藤氏は「母娘」関係について、同書の「序」で概略次のように述べています。
「双方が「女性の身体」を共有している」ために「母娘」の関係は「複雑」で「特殊」なものになります。もともと女性は、男性と違い、「普段から自分の身体性を意識せざるをえない状況で生きて」いますから、母親は、「女性らしさ」を目指して娘を躾けますが、「ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じて開始されることにな」ります。
例えば、言葉による「抑圧」によって(「すべての娘たちの身体には、母親の言葉がインストールされ、埋め込まれているといっても過言ではありません」)。
そして、「母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにはおか」ず、「まして抵抗したり逃げ出したりした娘は、解放感ばかりでなく強い罪悪感も抱え込みます」。
(注7)上記「注6」で触れた斎藤環著『母と娘はなぜこじれるのか』の「V 母娘問題は時代の産物」において、詩人の水無田気流氏は、「(自分の)母も三人姉妹。その上の祖母たちも三人姉妹。………それは賑やかな女所帯だったそうです」と述べた上で、「半面、男性の存在感が希薄」と述べています(P.190)。
(注7)「Life is very long」という文章は、T.S.エリオットの詩「うつろなる人間(The Hollow Men)」(1925年)の中に見られます(例えば、このサイトに翻訳が掲載されています)。さらに、ベバリーは、同じ詩の中から「ウチワサボテン(prickly pear)を回る」の箇所も引用します。
(注8)長女バーバラは「パパはボートに乗って、釣りと読書とお酒を楽しんでいるのよ。その内に戻ってくるわ」と言いますが、しばらくすると保安官がベバリーの遺体の発見を告げに家にやってきてます。
(注9)父親・チャールズは、その妻のマティ・フェイに対して強い姿勢をとりますが(「結婚38年目だが、息子に対して寛大になれないなら39年目はないぞ!」)、実はマティ・フェイ(そしてバイオレットも)が知っている重大な秘密を彼は知らなかったのです(空威張りにならなければいいのですが)!
(注10)上記「注6」で触れた斎藤環著『母と娘はなぜこじれるのか』の「序」の末尾で、斎藤氏は、「解決策」としては「まず第一に「問題の存在に気付くこと」です。気づいたら少しでも「離れる」(物理的にも心理的にも)ことができますから。このとき、父親やパートナーなど「第3者の介入」も有効です」と述べています。
ただ、ウェストン家の場合、ベバリーは死んでしまいましたし、ビルやスティーブも離れてしまいます。そして、次女アイビーは、リトル・チャールズと一緒にニューヨークへ行こうとするのですが、……。
★★★★☆☆
象のロケット:8月の家族たち
(1)主演のメリル・ストリープがアカデミー賞主演女優賞、共演のジュリア・ロバーツが助演女優賞にノミネートされた作品だというので、見に行ってきました。
夏の酷い暑さの中、オクラホマ(注1)の家に家族・親類が集まります。
そこの主人のベバリー・ウェストン(サム・スニード)が失踪してしまったというのです。
でも、すぐにその遺体が湖で見つかり、葬儀が催されます。
その後この物語は、死んだベバリーの妻・バイオレット(メリル・ストリープ)を中心にして描かれていきます。というのも、彼女は口腔癌を宣告されていて、様々な抗癌剤を飲んでいるだけでなく、鎮痛剤の中毒にも陥っているのです。それで情緒が不安定で、暑い中をわざわざやってきた家族や親類たちに酷い言葉を投げかけたりします(注2)。
その攻撃の犠牲になったのは、長女・バーバラ(ジュリア・ロバーツ)、次女・アイビー(ジュリアン・ニコルソン)、三女・カレン(ジュリエット・ルイス)(注3)。
特に、バーバラは、別居中の夫・ビル(ユアン・マクレガー)と娘と一緒にやってきているのですが、バイオレットはことさら厳しく当たります。
ベバリーの死によって図らずも一堂に会することになったバイオレットの家族ですが、果たしてウェストン家は絆を元に戻せるでしょうか、それとも、………?
本作は、戯曲を映画化したものであり(注4)、戯曲特有の匂いが漂っていますが(大仰で激しい内容の台詞が多く、それも練られた台詞が続き、見ている方は聞き逃すまいと緊張を強いられます)、演じるのが皆名だたる俳優ばかりですから(注5)、余り気にならず映画に惹きつけられて見終えることが出来ました。
(2)実際のところ、本作において、女性の登場人物の性格付けがくっきりとしていて、母娘の言い争いは実に激しく(注6)、それを演じる女優陣の演技には眼を見張るものがあります。
でもそうなると、男性の登場人物の存在感は、一流の俳優が演じているとはいえ、自ずと希薄なものとなってしまいます(注7)。
まず、バイオレットの夫のベバリーです。
彼は映画の冒頭に登場し、T.S.エリオットから「人生はとても長い」という章句を引用して、「そう考えるのは彼が初めてではない」と言ったり(注7)、また家政婦のジョナ(ミスティ・アッパム)と打ち合わせをしたりして、これから活躍するのかなと思いきや、すぐに画面から消えてしまいます(注8)。
また、長女・バーバラの夫・ビルは、浮気をしていることや、「ジーン(アビゲイル・ブレスリン)が自分勝手なのは、あなたが教育を放棄したから」などとバーバラに非難され、「もううんざり、頼りなさすぎ」となじられます。
三女・カレンの婚約者・スティーブ(ダーモット・マローニー)も一緒にやってきますが、どうもつかみ所のない人物で、ひそかにジーンにちょっかいを出したりもするのです(家政婦のジョナに見つかってしまいますが)。
さらには、バイオレットの妹のマティ・フェイ(マーゴ・マーティンテイル)の息子であるリトル・チャールズ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、目覚しが鳴らずに寝過ごしてしまい、ベバリーの葬儀に間に合わなかったことを父親・チャールズ(クリス・クーパー)に泣いて謝りますし、皆が一同に介した食事の席では、大切な食器を床に落として割ってしまいます。また、次女のアイビーと付き合っていることを皆に告白しようとしますが、上手く言えませんでした(注9)。
挙句は、女主人のバイオレットから、「男性は皆上着を脱いでいるけど」と皮肉を言われて、すごすごと上着を着るハメになったりします。
ウェストン家の絆が元に戻るには男性陣の奮起が必要のように思われますが、………(注10)。
(3)渡まち子氏は、「あまりにも演劇的な演出は個人的には好まないが、この作品の俳優たちの演技には圧倒された。“役者の芝居を見る”のなら、この映画で決まりである」として75点をつけています。
前田有一氏も、「色々な意味で、満足度の高い演劇的ドラマといえるだろう」として75点をつけています。
(注1)場所はオクラホマ州の「Osage County」(この地名が原題に使われています)。
(注2)例えば、次女・アイビーに、「どうして化粧をしないの?化粧をしなくていいのはエリザベス・テーラーだけ」などと言ったりします。
(注3)ここは、日本語の公式サイトに掲載されている相関図に従っています。
ですが、IMDbに掲載されている本作の「Storyline」では、「eldest daughter Barbara」はかまわないものの、「youngest daughter Ivy」及び「middle daughter Karen」とされていて、カレンとアイビーの位置が逆になっています(これは、英語版Wikipedia の記事でも同じように踏襲されています)。
(注4)本作は、戯曲『August:Osage County』(本作の原題も同じ)を書いたトレーシー・レッツが脚色し、ジョン・ウェルズの監督で制作されています。
(注5)最近では、メリル・ストリープは『マーガレット・サッチャー』で、ユアン・マクレガーは『インポッシブル』、クリス・クーパーは『ランナウェイ』、ベネディクト・カンバーバッチは『それでも夜は明ける』、サム・シェパードは『MUD-マッド-』、ミスティ・アッパムは『フローズン・リバー』で、それぞれ見ました。
(注6)最近刊行された精神科医・斎藤環氏の対談集『母と娘はなぜこじれるのか』(NHK出版、2014.2)の中で、臨床心理士の信田さよ子氏は次のように述べています。
「母娘問題のほとんどは娘から母に対する違和感、息苦しさ、時には恐怖といった感覚として自覚されます。それが反発や怒りへとストレートに結びつかないことが、娘の苦しみをさらに深くするのです。一方で母親はすべての言動を愛情から出たものだと信じて疑わないので、娘の苦しみに全く気づきません。無自覚な母と苦しむ娘」(P.148)。
なお、著者の斎藤氏は「母娘」関係について、同書の「序」で概略次のように述べています。
「双方が「女性の身体」を共有している」ために「母娘」の関係は「複雑」で「特殊」なものになります。もともと女性は、男性と違い、「普段から自分の身体性を意識せざるをえない状況で生きて」いますから、母親は、「女性らしさ」を目指して娘を躾けますが、「ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じて開始されることにな」ります。
例えば、言葉による「抑圧」によって(「すべての娘たちの身体には、母親の言葉がインストールされ、埋め込まれているといっても過言ではありません」)。
そして、「母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにはおか」ず、「まして抵抗したり逃げ出したりした娘は、解放感ばかりでなく強い罪悪感も抱え込みます」。
(注7)上記「注6」で触れた斎藤環著『母と娘はなぜこじれるのか』の「V 母娘問題は時代の産物」において、詩人の水無田気流氏は、「(自分の)母も三人姉妹。その上の祖母たちも三人姉妹。………それは賑やかな女所帯だったそうです」と述べた上で、「半面、男性の存在感が希薄」と述べています(P.190)。
(注7)「Life is very long」という文章は、T.S.エリオットの詩「うつろなる人間(The Hollow Men)」(1925年)の中に見られます(例えば、このサイトに翻訳が掲載されています)。さらに、ベバリーは、同じ詩の中から「ウチワサボテン(prickly pear)を回る」の箇所も引用します。
(注8)長女バーバラは「パパはボートに乗って、釣りと読書とお酒を楽しんでいるのよ。その内に戻ってくるわ」と言いますが、しばらくすると保安官がベバリーの遺体の発見を告げに家にやってきてます。
(注9)父親・チャールズは、その妻のマティ・フェイに対して強い姿勢をとりますが(「結婚38年目だが、息子に対して寛大になれないなら39年目はないぞ!」)、実はマティ・フェイ(そしてバイオレットも)が知っている重大な秘密を彼は知らなかったのです(空威張りにならなければいいのですが)!
(注10)上記「注6」で触れた斎藤環著『母と娘はなぜこじれるのか』の「序」の末尾で、斎藤氏は、「解決策」としては「まず第一に「問題の存在に気付くこと」です。気づいたら少しでも「離れる」(物理的にも心理的にも)ことができますから。このとき、父親やパートナーなど「第3者の介入」も有効です」と述べています。
ただ、ウェストン家の場合、ベバリーは死んでしまいましたし、ビルやスティーブも離れてしまいます。そして、次女アイビーは、リトル・チャールズと一緒にニューヨークへ行こうとするのですが、……。
★★★★☆☆
象のロケット:8月の家族たち
男優陣は穏やかで共同体の輪を保とう保とうとするところはどこか女性的に感じました。その癖、男優陣は最初に退席するサム・シェパードを含め、とても性的な存在で、その性的な働きかけは常に共同体の平和をじっくりと脅かします。
女優陣は常にイライラして共同体を壊すように壊すように働きかけているかのようです。元からこの共同体が成立しえない事を空気で知っているかのようです。
なので、最終的には性的対象にならない(と映画内で一応宣言される)デブのインディアンを第三者として取り込む、事で共同体を壊しながら、解決を図る。皮肉にもメリル・ストリープが大事と言った金によって、彼女の生活がメンタルともども保障される。
みんなダーク・サイトに落ちてるようなので、ジェダイのユアン・マクレガーにフォースを使って全員ぶった切ってもらいたかったです。怒ったカンバーバッチがドラゴンになって全員踏み殺してもいいです。
おっしゃるように、男優陣と女優陣とでは描かれ方が異なっているように思われるところです(確かに、「男優陣は最初に退席するサム・シェパードを含め、とても性的な存在」だと思われます)。そのために関係がもつれてきて非常に興味深い展開をするので、「怒ったカンバーバッチがドラゴンになって全員踏み殺」したりしたら、せっかくのグチャグチャが綺麗さっぱりとしてしまい、話が面白くもなんともなくなってしまうと思うのですが。
機能不全家族の罵倒合戦でしたね。
ボクのピックアップ場面は
三女ジュリエットのやさぐれ恋人ダーモットとジュリアの反抗的な娘役のアビっちのマリファナといかがわしい行為ですね。
家政婦さんがスコップで殴り掛かってたので未遂だったけど・・・
「あの子にも責任があるんじゃないの!」と罵って長女とケンカ別れな形でフロリダに帰っていったけど
長女ジュリアがアビっちにビンタして怒ってたのと同じように やさぐれ恋人に責任がないわけじゃなのは 奔放な三女でもわかってたろうから
劇中では描かれてないけど、帰ってから三女は恋人には「この大バカ!」と罵声を飛ばすなり ビンタするなりで 激しく叱責してた気がします
母親役の 長女役のジュリア
この二人の罵倒合戦がひどかったけど 親父さんが自殺する兆しを予測してたにもかかわらず 貸金庫の遺産が大事だから自殺を止めなかった・・とラストでありました(゜□゜;)
これは・・・どんなに温厚でもブチ切れる気がしました。この時点で長女以外はすでに帰ってましたが みんながいるときにこの事実を知ってたら、
母に対して みんな「ふざけるな!ばかやろう!オヤジを何だと思ってるんだ!」と全員が烈火になってたのは想像に難くない。