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葛城事件

2016年06月30日 | 邦画(16年)
 『葛城事件』を新宿バルト9で見ました。

(1)評判が大層良いので見てみることにしました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公の葛城清三浦友和)が、「バラが咲いた」を口ずさみながら、家の壁に「人殺し」などと大書されたイタズラ書きをペンキを塗って消しています。

 次いで裁判所の場面。
 裁判長が、「これから判決を言い渡します。主文は最後にします」と言って、判決文を読み上げます。「本件は、我が国でもまれな凶悪な事件である。………」

 再び、清が、家の庭にホースで水を撒いているところが映し出されます。



 さらに、裁判所の場面に戻って、裁判長が「主文を言い渡すので、被告人は前へ」と言って、「被告人を死刑に処す」と読み上げます。それを聞いた被告人(葛城稔若葉竜也)は、傍聴席にいる父親を見てニヤリとします。

 再度、家に植えられているミカンの木を見上げている清。彼は、その気からミカンの実をもぎ取ります。ここでタイトルクレジットが流れます。

 次の場面は、葛城家の居間。
 星野順子田中麗奈)が、鳴っている電話に出ようかどうしようか迷っているところに清が現れ、順子に向かって「何が目的だ?死刑囚の妻になるなど正気の沙汰ではない」と言います。
 順子が「電話に出ないんですか?」と訊くと、清は「電話が鳴ったら出るというのは日本の悪癖だ。そうでなくては、日本は、国際社会のリーダーシップはとれない」と答え、さらに「事件以来、左足が悪くてね。にもかかわらず、皆が俺のことを追い回すのでね」、「騒ぎたいんだよ。サッカーの試合の後、渋谷の交差点で騒ぐ奴らと同じ。馬鹿だ。マスコミと同じ。あれはリンチだ。正気からだから恐ろしい」などと喋ります。

 順子は、「ふざけるな、何が家族だ。お前みたいなションベン臭い姉ちゃんに分かるわけがない」と清に怒鳴られますが、「私は死刑に反対。人間に絶望したくない」などと言って、拘置所の稔と面会します。
 さあ、いったい稔はどんな罪を犯したのでしょうか、………?

 本作は、平成13年に起きた附属池田小事件を踏まえて作られた戯曲を実写化した作品。どこにでもありそうな普通と思える家庭から無差別殺人を行って死刑となるサイコパスの次男が生まれてしまうという、酷く恐ろしい話を大層リアルに描いているので、思わず自分の家族のことを振り返ってしまうほどです。三浦友和以下の出演者の演技がトテモ上手く、もう少し規模を大きくして公開されたらいいのにと思いました。

(2)本作についての「映画.com」のフォトギャラリーには、葛城家の門の前で一家を撮った画像があります。



 それを見ると、石井裕也監督の『ぼくたちの家族』を思い出します。
 その作品でも、家の前で撮った一家の写真がフォトギャラリーに掲載されています。



 2つの作品は、類似する点があります。
・立派な一戸建ての家を構えています。
・家族が、両親と男の兄弟の4人から構成されています。
・長男は、独立して子供がいます。
・原因は異なりますが、母親は脳に障害を持ちます。

 それがどうして、こんなにも雰囲気が違っている作品になるのでしょうか?
 言うまでもなく、両作における兄弟のあり方がまるで違うからでしょう。
 『ぼくたちの家族』における浩介妻夫木聡)・俊平池松壮亮)の兄弟は、力を合わせて脳腫瘍を患った母親(原田美枝子)の介護に当たろうとしますが、本作の新井浩文)と稔の兄弟は反目しあっているばかりか、どうしようもない結末を迎えてしまいます。

 こうした両様の結果をもたらす要因の大きなものは、あるいは父親の存在の仕方の違いなのかもしれません。
 『ぼくたちの家族』の父親(長塚京三)は、会社の経営者でありながら長男の浩介に何かと頼ってしまうダメ男で、酷く頼りない存在として描かれています。
 それで、兄弟の方は、力を合わせて難局を乗り切ろうと頑張るのでしょう。
 他方、本作の父親・葛城清は、金物商として店を商店街に構え、家も建てたという自負(「一国一城の主になった」)が強く(注2)、家族に対しても抑圧的であり(注3)、特に堪え性のない次男に対して厳しい姿勢で対応します(注4)。この家では、家族の誰かが何かをやろうとすると、清の容赦のない言葉が挟まれ(注5)、清自身は自分の言葉に酔いしれる一方で、他の家族は黙りこくってしまうのです。

 ただ何も、そうした父親の態度が本作で描かれるような悲劇を招いた直接の原因というわけではないでしょう。このくらいの独善的な父親なら、全国にゴマンといることでしょうし、もしかしたら、生まれつきの体質が稔をそのような行動に走らせたのかもしれませんし(注6)。
 それでも、両作を見比べると、家庭内での父親のあり方という点を考えてしまうのも事実です(注7)。

 それにしても、葛城清に扮した三浦友和には目を見張りました。すぐ前に見た『64ロクヨン』における捜査一課長役も貫禄充分でしたが、本作における演技には十分な説得力が備わっているように思います。

(3)本作は、常識をもってしては理解し難いサイコパスの稔を生んだ家族を描いている点で圧倒的ですが、さらに星野順子というこれまた理解し難い女を描いている点でも秀逸です。



 清がカラオケバーで遭遇する近所の人々の冷たい反応とか、葛城家の壁の落書きなどは、ある意味で常識の範囲内でしょう。ですが、順子は、「こうすることで本当の家族を失いました」と言いながら死刑囚の稔と結婚するのですから、理解を超えています。それも、「ちょっとずつでもいいから稔さんと家族になりたい」と言って、稔から「お前、頭オカシイだろ?」と怒鳴られてしまうくらいなのです。
 本作では、演ずる田中麗奈の演技力によって、あるいはそういう人間もいるのかもしれないと見る者に思わせ(注8)、それで本作のリアリティを一層増幅させてもいるように思いました(注9)。

(4)本作を見る前の6月21日には、釧路市で4人が包丁で殺傷されるという事件がありました。
 報道によれば、同件の容疑者は、「人生を終わりにさせたくて、死刑になると思って刺した」と供述しているそうで、そうであれば、本作において稔が死刑の早期執行を要望したのと類似していると言えそうです(注10)。

 ただ、釧路の事件の容疑者は、精神疾患で通院中であり、事件の数日前、近くに住む知人に「精神的に不安定だ」などと相談していたとのこと(この記事)。
 そうだとすれば、同件は、本作における稔と同じように、容疑者が責任能力ありとされた附属池田小事件や土浦連続殺傷事件とは違った様相を見せるのかもしれませんが、いずれにしても恐ろしいことです。
 この場合、“恐ろしい”というのは、自分がそうした事件に巻き込まれて被害者になりうる可能性もあるかもしれないと思うからですが、もう一つ、自分の対応の仕方がまずければ、自分の家族からそうした犯人が生まれた可能性があるかもしれないと思うからでもあります(注11)。

 なお、日本では、銃器が簡単に手に入らないために、凶器はいずれも包丁かナイフです(本作の稔の場合は大型のナイフ)。そのため、実際の事件も含めて被害者が比較的少数なのでしょう。これに対し、アメリカの場合だとケタ違いの被害者数になるようです(注12)。
 ただ、日本の場合、包丁やナイフが普通に販売されていて、これが簡単に凶器となるのは、アメリカの銃器と同じことと言えないでしょうか(殺傷能力の違いは程度問題とみなしうるのでは)?

(5)渡まち子氏は、「可笑しさ、切なさ、残酷さ。この映画には正解はない。ただ哀しみが漂うだけだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「それにしてもこうした事件というものは、被害者にばかり目が向くものである。だが私たちは、加害者の家族の苦しみというものにも、いくらかは関心を向けて良いはずである。その点も含め、ニュースを読むだけではまず気づかない視点に気づかせてくれる。「葛城事件」は、そんな価値ある映画である」として75点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『その夜の侍』の赤堀雅秋
 本作は、赤堀雅秋の作・演出で上演された舞台(2013年)を映画化したもの。

 なお、出演者の内、最近では、三浦友和は『64 ロクヨン 後編』、南果歩は『さよなら歌舞伎町』、新井浩文は『女が眠る時』、田中麗奈は『麒麟の翼』で、それぞれ見ました。

(注2)清は星野順子に、「俺はやるべきことはやってきた」と語ります。

(注3)保の長男の顔に傷ができた時、清の妻・伸子南果歩)は「追いかけっこをしていて机の角にぶつかった」と言うのですが、実は稔が殴ったためであることがわかります。すると、清は伸子を殴り、「お前が稔に甘すぎるから、こういうことになるのだ」と怒ります。

(注4)清は順子に、「小さい時勉強を教えてやって、お兄ちゃんはよく出来た。漢字の書き取りを何時間も続けた。だけど、稔はすぐサボる。我慢ということをあいつは知らない」と語ります。
 なお、こうした兄弟の違いという点は、唐突ですが、『殿、利息でござる!』を思い出してしまいました。そこでは、父親・浅野屋甚内山崎努)の教えを黙って聞く長男(後に妻夫木聡)と、飽きてしまってすぐに庭に飛び出してしまう次男(後に阿部サダヲ)とが対照的に描かれていました。

(注5)清は、家の中ばかりか外でも同じ調子です。例えば、中華レストランで誕生日の会を開いた時、長男・保の妻の両親も出席していた席で、ウエイターに向かって「20年の間、何かあるとここに来ていたが、前はこんなに辛くはなかった。日本人を馬鹿にしているんじゃないか?」などと延々とクレームを言い募ります(ここでこの場面の動画を見ることが出来ます)。

(注6)稔は、部屋に閉じ籠もる生活を送っていながらも、母親・伸子には心を開いていて「今は自分なりに試している期間。いつか一発逆転します。わるいけど、それまで暖かく見守って」と言います。元々、こんなふうにしか考えられない性格なのでしょう。

(注7)と言って、『ぼくたちの家族』における父親像が望ましいと言いたいわけではありません。何が望ましいのか決まったものはありえないでしょう。それぞれの家族においてそれぞれが模索するほか仕様がないように思います。

(注8)附属池田小事件に関するWikipedia の記事によれば、「この事件の判決確定後、甲(犯人)は死刑廃止運動家の女性と出会い、文通を経て獄中結婚をし」、また「愛知県出身の既婚女性から愛情の告白を受けており、その女性とも文通を行っていた」とのこと。

(注9)ラストの方で、稔の死後に訪れた順子を無理やり抱きしめた清が、「家族になってくれないか?」「俺が3人殺したら、俺と結婚してくれるのか?」と言うと、順子は「ふざけないでよ、あなたはそれでも人間ですか」と言って、立ち去ってしまいます。順子の偽善ぶりが暴露されたと言うべきなのでしょうか(順子は、死刑囚一般を愛したのではなく、死刑囚ということを契機に稔個人を愛したはずではないでしょうか)?

(注10)Wikipediaの記事によれば、附属池田小事件の犯人も同じようなこと(「命をもって償います」)を言っていますし、また、2008年の土浦連続殺傷事件の犯人も、「自殺したいために凶行に及んだ」と言っています。

(注11)同じようなことは、この記事でも指摘されています(ただ、その記事では、「一歩間違えれば自分もこうした加害者になったかもしれない」と考える人がいるという指摘がなされていますが、クマネズミは「一歩間違えると、自分の家族からこうした加害者がでるかもしれない」と思ったところです)。

(注12)49人が死亡したオークランドの銃撃事件(6月12日)は、テロ事件と見られているものの、日本の無差別殺人事件と同じような側面もあるのではないでしょうか?



★★★★★☆



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