映画的・絵画的・音楽的

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私の、息子

2014年07月04日 | 洋画(14年)
 『私の、息子』を渋谷ル・シネマで見てきました。

(1)予告編で見て良さそうな作品と思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は、ルーマニアの首都ブカレスト。
 映画の最初の方では、主人公のコルネリアルミニツァ・ゲオルギウ)(注2)が、居間で義理の妹オルガと話し込んでいます。
 コルネリアが、「私は味方なのに、息子のバルブボグダン・ドゥミトラケ)(注3)の方は、強制されるのが嫌なのか、一月電話1本かけてこない」と言うと、オルガは「放っておきなさい。だから前から、子供は2人作るべきと言っていたのに。バルブに子供でもできたらおしまいよ」と答えます。さらに「私達の世代は絶滅すべきだわ」とコルネリアが言うと、オルガは「それならもうすぐよ」と応じます。



 次いで、場面はコルネリアの誕生祝いのパーティー。
 コルネリアは夫と踊ったりしているところ、バルブがいないのを不審に思った客が「息子さんは?」と尋ねると、「急用で出かけたの」と答えます。

 別の日、家政婦のクララには、部屋の掃除が終わると、「クローゼットを整理したの、まだ新品同様よ」と言って、コルネリアは靴をあげたりします。クララが「自分には合いません」と嫌がるにもかかわらず、「じゃあ、娘さんにあげて」と言って手渡します。

 そんなアレヤコレヤがあった後、コルネリアがオペラの舞台の稽古に立ち会っていると、オルガがコルネリアを呼び出しに来て、「バルブに問題が。交通事故で、子供を撥ねて死亡させてしまったの」、「酔ってはいないよう。前の車を追い抜こうとしたら、逆方向から自転車に乗った少年が飛び出てきたらしい」と告げます。

 さあ大変です、コルネリアはどうするでしょう、それに対してバルブは、………?

 本作は、30歳になってもなかなか自立できない息子バルブと、その息子を自分のもとにいつまでも置いておきたい母親コルネリアとの関係を、息子が引き起こした交通事故を巡る騒動を通じて描き出すというものです。日本ではなかなかお目にかかれないルーマニア映画ながら、母親と息子との確執という普遍的なテーマを個別の出来事を通じてなかなか巧みに描き出していると思いました。

(2)劇場用パンフレットに掲載の斎藤環氏のエッセイ「映画「私の、息子」にみる親子の相克」で指摘されているように、コルネリアとバルブとの関係は実に微妙なものがあります(注4)。
 それだけに、一層バルブは苛ついて(注5)、コルネリアが「土曜日には亡くなった子供の葬式があるから出席して」と言っても(注6)、バルブの方は「そんなことはあんたたちでやっておいてくれ」などという反応しかできないのでしょう(注7)。



 本作では、さらに、バルブとコルネリアの間には、カルメンイリンカ・ゴヤ)というバルブの恋人がいて、話は一層複雑なものとなっています。



 コルネリアは、バルブが自分から離れたのはこの女のせいだと考えています。
 ですが、コルネリアがカルメンと向い合って話をじっくり聞くと、そんな単純なことではないことがわかってきて(注8)、この映画に一層の深みを与えているように思いました。

(3)母親と息子との関係を描いた作品としてクマネズミが思い出すのは、大部分の方と同じように、やはり韓国映画の『母なる証明』です(注9)。
 その映画では、女子高生殺人事件の容疑者として息子・トジュンが警察に捕まってしまうところ、息子の潔白を信じて疑わない母親がアチコチを駆けずり回ります。
 交通事故と殺人事件というように両作で状況が異なるところがあるとはいえ(注10)、息子のためを思って一生懸命になる母親の姿は共通するものがあるように思いました(注11)。

 親と子供との関係は、何時の時代のどこの国であっても様々な問題を引き起こし、身につまされますが、それはそれとして、見る前には本作がルーマニア映画と知らなかったところ、昨年の『汚れなき祈り』とは違って、ルーマニアも随分西欧化しているのだなという印象を持ちました。
 無論、賄賂等が横行する(注12)など旧体制のままのところがあったり、都市を外れた農家などはまだまだ貧弱そうだったりするとはいえ、主人公のコルネリアは富裕な舞台美術家(もとは建築家)で、立派な家に住み、その夫は医者であり、またコルネリアの誕生日のパーティーも随分と華やかなものです。
 ルーマニアは2007年にEUに加盟していますから、EUの経済力がより向上していけば次第にその恩恵を受けるようになるのではないでしょうか?

(4)村山匡一郎氏は、「親子の愛憎に満ちたもたれ合いを題材に、母親と息子の関係を通して家族の絆を問いかける」映画だとして、★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 佐藤忠男氏は、「近年、ルーマニア映画が国際的に注目を集めている。自国の現状を地道に批判的に見つめる佳作が次々に現れるからである。カリン・ペーター・ネッツァー監督のこの作品はなかでも出色の出来だ」と述べています。
 読売新聞記者の近藤孝氏は、「母であることの真実に迫る、まごうことなき傑作である」と述べています。



(注1)本作の英題は「Child’s Pose」(胎児の姿勢)。
 また、本作は、2013年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。

(注2)主演のルミニツァ・ゲオルギウは65歳であり、彼女が扮するコルネリアも大体そのくらいの年齢ではないかと思われます。

(注3)ラストの方でコルネリアが語るところによれば、バルブは大学院生で、来年辺り化学で博士号を取得する予定とのこと。

(注4)ギリシア神話におけるオイディプスとイオカステとの関係を暗示するような。

(注5)例えば、コルネリアが、バルブが購入を依頼した品物を間違えて買ってきて、「中身は同じ、値段は倍だけど」と言い訳すると、「完全な馬鹿か!」と怒鳴ります。
 バルブの怒りは、父親にも向かい、「腰抜けめ、あの女の言いなりだ」と言ってしまいます。
父親は黙っていますが、コルネリアは「あの子の言うとおり。あなたはあの子の言うとおりなんでもあの子に与えていた」と言います。

(注6)コルネリアは、亡くなった子供の家族の心証をよくして、できれば訴訟を取り下げてもらいたいと考えているようです(葬式の費用も夫が1万ユーロ出そうと言います)

(注7)それに、バルブは事故を引き起こした際に、付近にいた村人に殴られていて、葬式に出たりすれば殺されてしまうと怖れているのです。バルブは、コルネリアの介入をうるさがって「放っておいてくれ」と怒鳴るものの、かといってとても一人でこの件に立ち向かうことなど出来はしない相談なのです。

(注8)カルメンには連れ子がいて、現在、3人で暮らしているものの、近いうちに別れるとカルメンは言います。さらにカルメンは、別の男ができたからというわけではない、バルブは子供をつくろうとせず、この1年間何の徴候もなかった、などと語るのです。

(注9)母親と息子の関係を描いた映画作品はいろいろあると思いますが、最近では『あなたを抱きしめる日まで』とか『美しい絵の崩壊』でしょうか。でも、前者では息子は既に亡くなっていますし、後者は親友の母親を愛してしまうという内容ですから、本作とは雰囲気が違っています。
 なお、韓国映画では、同じような雰囲気を持ったものに、DVDで見た『嘆きのピエタ』があります。
 ただ、十字架から降ろされたイエス・キリストを抱くマリア像であるピエタがタイトルに使われているとはいえ、結局は、主人公のミソンはガンドの実母でないことがわかるのですから、本作と比較するのは適当ではないように思われます。

(注10)本作の場合、バルブが子供を轢き殺してしまったことは動かしがたい事実ながら、『母なる証明』においては、トジュンとは別の男が真犯人と判明したとしてトジュンは釈放されてしまいます。
 また、本作のバルブはなかなか自立できない男として描かれていますが(ラストでは立ち直るきっかけを掴んだようです)、トジュンは知的障害があるという設定になっています。

(注11)本作でコルネリアは、例えば、バルブが運転していた車が法定速度を超えていたと言う証人にかけあって、その証言を変えてもらうよう頼み込みます(明らかな嘘を言わなくてはならないために、証人から法外な金を要求され、コルネイアも最初は支払いを拒否するものの、証人の男が「過失致死で17年、双方に過失があれば7,8年。なにしろ前科がつく」などと言うので、要求に応じざるを得なくなります)。他方、『母なる証明』でトジュンの母親は、トジュンが女子高生の頭を石で殴ったのを見ていた廃品回収業者を殺してしまいます。

(注12)バルブの取調べにあたる警察官は、上の方からの電話があると、バルブが調書に記載した事故時の時速(146㎞)を制限速度(110㎞)内に書き換えることを黙認しますし、さらにはコルネリアが建築家であることがわかると、建築制限にかかわる当局の知人の紹介を依頼したりします(ここらあたりのことは、劇場用パンフレットに掲載されている中島崇文氏のエッセイ「映画『私の、息子』にみる現代ルーマニア社会」で取り上げられています)。



★★★★☆☆



象のロケット:私の、息子