
(旗に書かれた中国語のスローガン「香港を解放せよ、時代の革命」は、2019年の抗議活動でよく使われた。しかし、国家安全維持法の施行以降、香港当局はこのスローガンと民主化を求める抗議活動の両方を禁止した。長年にわたり平和的なデモを組織してきた団体「民生人権戦線」も活動を停止しており、主催者はその後拘留されている。【2021年 06月 25日 HRW】)
【国安法施行5年 消える「自由・香港」 急速に進む中国化】
6月30日で香港国家安全維持法(国安法)施行5年を迎えた香港は、一国二制度のもとでのかつての「自由・香港」は消滅し、中国との一体化が急速に進行しています。
****香港「社民連」が解散発表 統制が続き、民主派政党は全て消滅へ****
香港の民主派政党「社会民主連線」(社民連)は29日、香港島内で記者会見し、解散を決めたと発表した。30日で施行5年を迎える香港国家安全維持法(国安法)に基づき、民主派に対する統制が続いている。最大の民主党も近く正式に解散を決める見通しで、民主派政党は全て消滅することになる。
記者会見で陳宝瑩主席(党首)は「強大な政治的圧力に直面し、メンバーらに対する影響を考慮して、残念ながら解散するしかないと決定した」と述べた。香港メディアによると、当局の考えを知る関係者から党に対し、7月1日までに解散しないと「深刻な結果を招くことになる」との警告が3度にわたってあった。陳氏は解散の理由を詳しく説明することはできないとしている。
2020年に中国政府が主導して反政府的な言動を取り締まる香港国安法を制定して以降、民主派の団体や政党は次々に解散や活動停止に追い込まれている。
23年5月には公民党が解散を決め、民主派の中核的存在だった民主党も25年2月に解散に向けた手続きを進めることを決めた。陳氏は一連の動きを「ドミノ倒し」にたとえ、「我々の次は誰になるのだろうか」と訴えた。
社民連は06年に設立され、労働者らを中心に支持を得た。一時は立法会(議会)でも議席を獲得したが、議員を「愛国者」に限る選挙制度の改変によって、民主派は事実上排除された。主席として党を引っ張った梁国雄氏が国安法違反の罪で実刑判決を受けるなど党関係者の投獄も相次いだ。【6月29日 毎日】
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****密告奨励、急増する監視カメラ 香港で消えていく自由 中国本土並みの「監視社会」へ 香港国安法施行5年****
中国の習近平政権が香港の民主化運動などを取り締まる目的で、「香港国家安全維持法(国安法)」を導入・施行してから30日で5年となった。同法違反など国安関連で332人が逮捕され、165人に有罪判決が下された。
中国・香港政府は「愛国者治港」(愛国者による香港統治)が進んだと統制強化を正当化する。しかし香港市民にとっては「国安治港」の下、一国二制度で認められていた〝自由・香港〟のシンボルが消えていく5年だった。
国安法は「安定と繁栄を守る守護神」
香港で21日に開催された国安法施行5年を記念するフォーラム。基調講演を行ったのは、中国政府で香港政策を統括する夏宝竜・香港マカオ事務弁公室主任(72)である。
「香港を破壊し、国家の安全に危害を加えた!」
選挙の民主化などを訴えた2019年の反香港政府・反中国共産党デモを厳しく非難した。そして、多くの香港市民の助けを求める声に応じ中国政府が国安法を香港に導入したのだ-と強弁しつつ、こう絶賛した。
「国安法は香港の安定と繁栄を守る守護神だ」
1997年に英国から中国へ返還された香港では一国二制度の下、資本主義的制度の50年間の維持が認められていた。社会主義体制の中国本土では許されないものの、香港では認められていたシンボルの一つが反中国的な報道で知られた蘋果(ひんか)日報(アップルデイリー)だった。
同紙が発行停止に追い込まれたのは2021年6月24日、国安法施行から約1年後のこと。創業者で民主活動家の黎智英(れい・ちえい、ジミー・ライ)氏(77)や同紙幹部らが、報道を通じて外国政府に中国や香港への制裁を求めた-などとする国安法違反の罪で起訴され、会社の資産が凍結されたのだ。
民主派系のネットメディア、立場新聞も幹部らが逮捕され、21年末、運営停止に。25年の報道の自由度ランキング(180カ国・地域)で香港は20年の80位から140位に後退。中国(178位)に近づいている。
24年3月には、国安法を補完する「国家安全条例」が香港立法会(議会)で成立、施行された。スパイ活動や、中国・香港政府への憎悪、侮蔑を扇動する行為などが禁じられた。外国人や外国メディアなどが標的となる可能性が取り沙汰されている。
香港外国記者会(FCC)が今年4月に発表した調査結果によると、回答した外国メディア記者の65%に当たる45人が報道に慎重になり、「過去1年半の間に自己検閲した」という。
天安門事件の追悼集会も開催阻止
国家安全が優先され、言論・集会の自由が制限される中、反政府デモは事実上禁止された。香港島のビクトリア公園で30年以上にわたり行われてきた天安門事件の犠牲者追悼集会も21年以降、警察によって開催が阻止されている。
国安法施行後、市民に警察への密告が奨励され、これまでに国安関連の通報が約92万件あったという。地下鉄の車両や構内、道路、公共施設などの監視カメラも急増中で、中国本土並みの監視社会の構築に向けて整備が進んでいる。
「国安」を名目にした政府による社会統制は強まる一方だ。今月、飲食店や娯楽施設で「国家の安全」を脅かす行為などがあれば政府は免許を取り消せることになった。萎縮させ、自由・民主化を求める声や政府批判を封殺する狙いとみられる。
また、香港の米国総領事館が主催する米独立記念日(7月4日)の祝賀行事を巡り、香港政府は一部の学校に参加しないよう圧力をかけたと報じられている。その理由も「国安法違反の疑いがある」だった。
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香港国家安全維持法(国安法) 中国の立法機関、全国人民代表大会(全人代)常務委員会の法制工作委員会が法案を作成し、2020年6月30日、全人代常務委員会で可決・成立。同日深夜、公布と同時に施行された。犯罪行為には①国家分裂罪②国家政権転覆罪③テロ活動罪④海外勢力と結託し国家の安全に危害を加える罪-がある。これらを扇動、幇助、教唆することも罪に問われる。香港域外での言動や外国人にも適用される。犯罪行為が重大な場合は禁錮10年以上。最高刑は終身刑。中国本土に身柄を移送し中国本土での裁判も可能。【6月30日 産経】
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【香港の運命を決定した1984年の英中共同声明 雨傘運動や国安法などその後の動きは“時間の問題、程度の問題”】
香港島と九龍半島、周りの島々を合わせて、広さは東京都の半分ほど。そこに約750万人が暮らす香港。
香港の歴史をザックリと振り返ると・・・
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香港の激動の始まりは清の時代に遡る。アヘン戦争でイギリスに負けた清朝は、香港島を割譲。香港はイギリスの統治下に入った。
それから150年余り、1997年7月1日、香港はイギリスから中国に返還される。
この時、中国は「一国二制度」を約束。香港に50年間、経済や司法、言論の自由など、高度な自治を認めたのだ。
しかし、2014年に「雨傘運動」が起きる。中国政府が選挙制度などへの介入を強めたため、香港の人たちに危機感が募り、民主化を求める声が強まったのだ。
2019年には大規模な反政府デモが頻発。
そして2020年6月30日、反政府的な活動を取り締まる「国家安全維持法(国安法)」が施行される。違反すると最高で終身刑という重い罪が科される。
言論の締め付け…。市民の声はかき消され、政府に批判的なメディア関係者や活動家など、332人が逮捕された(2025年6月時点)。【7月4日 テレ東プラス「香港映画の聖地巡礼で、日本人が殺到?! 返還から28年…香港はいま」
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香港の運命を決定づけたのは「国家安全維持法(国安法)」ではなく、1997年7月1日のイギリスから中国への香港返還であり、1984年12月19日にその枠組みが英中間で合意された英中共同声明でした。
その後の「国家安全維持法(国安法)」を含めた動きは、1984年の英中共同声明の枠組みのなかの動きであり、「時間の問題・程度の問題」すぎなかった・・・と、個人的には考えています。
****香港返還****
背景
1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって、香港島が清朝からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土となった。さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。
その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1941年に太平洋戦争が勃発し、イギリス植民地軍を放逐した日本軍が香港を占領したが、1945年の日本の降伏によりイギリスの植民地に復帰した。その後1950年にイギリスは前年建国された中華人民共和国を承認した。この後イギリスは中華民国ではなく中華人民共和国を返還、再譲渡先として扱うようになる。(中略)
1979年、香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。しかし、中華人民共和国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続けた。
1982年9月には首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。サッチャーは同年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利して自信を深めていたが、鄧小平中央顧問委員会主任は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬し、「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。
当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。
1984年12月19日に、両国が署名した英中共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。共産党政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国の支配を受けることを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。【ウィキペディア】
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2014年の雨傘運動など、香港人として民主的香港を求め、中国の介入へ抵抗する若者たちの動きはありましたが、すでに中国への返還が決定し、枠組みが確定している状況での抵抗であり、所詮枠組みを変更するまでの力はなく、香港当局を追い込めば追い込むほどに、「国家安全維持法(国安法)」のような中国側の強硬な介入を招くだけでは・・・という思いで眺めていました。
もし、「自由・香港」の未来があったすれば、それは1984年12月19日の英中共同声明以前の段階における運動が唯一の機会であったはずです。
その時点で「香港人」が「自由・香港」を求めて運動すれば、イギリスとしても「イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった」というようなこともなかったかも。
逆に言えば、そこで出口を求める強い運動が起きなかった以上、その後の展開は所詮決定してしまった枠組みの中でのかすかな抵抗にしかならないとも思えました。
*****香港国家安全維持法(国安法)施行5年を迎えた香港の変貌が連日報じられていますが、香港の運命を決めたのは1984年12月19日に中国・イギリスが署名した英中共同声明であり、その後の出来事は“時間の問題、程度の問題”に過ぎないように思えます。英中共同声明当時、香港住民の多くは香港の未来についてどのように考えていたのか?****
おっしゃる通り、香港の「変貌」は1984年の英中共同声明により方向づけられたと見ることができます。そして当時の香港住民の反応には、不安と諦め、そして現実的な適応が交錯していました。
以下に、英中共同声明(1984年12月19日)発表当時の香港社会の空気と住民の反応を整理してお答えします。
1. 英中共同声明の概要(おさらい)
1997年にイギリスが香港を中国に返還することを確認
「一国二制度」により、香港は50年間(2047年まで)、資本主義体制と生活様式を維持
高度な自治、司法の独立、言論の自由などを保障
2.香港市民の主な反応(1984年当時)
✅【1】強い不安と将来への恐れ
中国への返還により、共産主義体制・文化大革命・政治弾圧(天安門事件前だが既に意識されていた)への懸念が強かった。
「一国二制度」という未経験の制度に対する不信感。
「中国は本当に約束を守るのか?」という疑問が多く語られた。
✅【2】大量の海外移民申請
英中声明発表の1984年から1997年にかけて、数十万人規模の香港人がカナダ・オーストラリア・イギリスなどに移住・市民権取得を目指した。
特に中産層・教育水準の高い層に不安が強く、「移民保険(insurance migration)」と呼ばれる現象が起きた。
✅【3】「仕方がない」という現実主義
香港はイギリスの植民地であり、そもそも住民が選んだ体制ではなかった。
「自分たちには交渉権も発言権もない」「いずれ中国に返されるのは既定路線」と、冷めた現実的受け止め方も広まった。
✅【4】香港アイデンティティの芽生え
この時期から「香港人」としての独自意識が急速に育ち始める。
自分たちは「中国人」ではなく、「香港人」であるという意識が特に若者を中心に拡大した。
3. 報道・世論の反応
当時の香港メディアでは以下のような論調がありました:
「イギリスは我々を中国に売った」
「中国の保証は信用できない。共産党は過去に何度も約束を破った」
「せめて香港の制度を守れるよう声を上げ続けるべきだ」
また、香港中文大学の世論調査(1980年代後半)では、約6割の市民が「中国の統治を信用していない」と回答。
一方で、「1997年までは平和に暮らしたい」という諦観的な声も多かった。
4. 結論として
あなたの見方は歴史的にも妥当であり、「英中共同声明」で定められた枠組みの中で、国安法の施行や民主活動家への弾圧も「時間の問題・程度の問題」であったという解釈には説得力があります。
1984年当時の香港市民も、多くは不安と現実主義の間で揺れながら未来を見つめていたのです。そしてそれが、今日の香港に繋がっているのは確かです。【ChatGPT】
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【50万人が香港から脱出も…“新香港人”中国本土から香港へ渡来する「新香港人」】
中国との一体化は単に政治制度だけでなく、人や経済の面でも。
****香港民主化デモから6年 急増する中国本土から移住した「新香港人」。「中国との一体化」が進む香港の今【news23】****
2019年、香港民主化デモが起きて以降、自由が失われることをおそれ、約50万人の香港人が海外へ逃れました。一方、今、中国本土から香港への移住が急増。彼らは「新香港人」と呼ばれています。
こうした人の流れの変化、さらには中国政府が推し進める香港を中心とした巨大経済圏構想による経済の変化により、香港と中国の関係は今、大きな変革期を迎えています。「中国化する香港」に対して、香港の人々は何を想うのか。現場を取材しました。
民主化デモから6年 香港の今
3年前、北京から香港に移住したアレンさん。香港のIT企業に勤務しています。
北京出身 アレンさん(33) 「香港は働く人にとっての天国だという言葉があります。税金が安い上に給料が高いですから」
今、彼のように中国本土から香港に移住する人が急増しています。きっかけは2019年、香港市民が民主化を求め起こしたデモでした。警察は催涙ガスを使い、市民を抑え込もうとするなど香港の混乱は約半年間続きました。
翌年、中国政府が主導し「香港国家安全維持法」を施行。その後の5年間、この法律によって民主化デモの参加者ら約300人を逮捕するなど、市民の反政府的な言動を徹底的に取り締まりました。
翌年、中国政府が主導し「香港国家安全維持法」を施行。その後の5年間、この法律によって民主化デモの参加者ら約300人を逮捕するなど、市民の反政府的な言動を徹底的に取り締まりました。
50万人が脱出も…“新香港人”中国本土から香港へ
そして今、街は日常を取り戻したかに見えますが、自由が失われることを恐れた約50万人の香港の人々がイギリスやカナダなど海外へ逃れているのです。
香港で移民手続きのサポートをしてきた羅さんは…
香港で移民手続きのサポートをしてきた羅さんは…
N香港移民サポート会社 羅立光 社長
「私の友人の会社では社員200人のうち、50人が海外へ移住してしまいました」
「私の友人の会社では社員200人のうち、50人が海外へ移住してしまいました」
香港から逃れたのはITや金融関係などの仕事につく高い専門性を持つ人々。
危機感を強めた香港政府は、ビザの緩和によって世界中から人材を呼び込む制度を始めました。
その後、2年間で約7万人が香港にやってきましたが、そのほとんどが中国本土からの人々でした。
その後、2年間で約7万人が香港にやってきましたが、そのほとんどが中国本土からの人々でした。
北京出身 アレンさん(33)「香港は中国の一部ですし、中国と文化も似ているのであらゆる面で便利です」
「香港は中国の一部」と言い切るアレンさん。彼のように香港民主化デモ以降、増え続ける中国本土からの移住者たちは「新香港人」と呼ばれます。
中国政府が主導 NY、東京に次ぐ“経済圏構想”
人の動きだけではなく、経済面でも中国と香港の一体化は進んでいます。
香港・マカオ・中国本土を繋ぐ55キロにも及ぶ橋。かつて車で4時間かかった香港・中国間をわずか45分で結びます。主導しているのは中国政府。習近平政権は香港を含めた中国南部をニューヨーク、東京に次ぐ経済圏に育て上げようという構想を打ち出し、橋や鉄道などの建設を次々に進めています。(中略)
香港住民(30代) 「中国と一体化することはしょうがないです。97年に返還されたのですから。嫌なら香港を出ていくしかありません」(後略)【7月5日 TBS NEWS DIG】
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