孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ネパール  今年も(地震からの)“復興は道半ば” 繰り返される女性の悲劇

2019-04-25 22:05:03 | 南アジア(インド)

(ネパール・スルケート郡で、隔離された小屋で火に当たる生理中の女性たち(201723日撮影)【24日 AFP】)

 

【“道遠く”から“道半ば”は改善か?】

毎年この時期になると目にするのが、ネパールの地震からの復興が進んでいないという記事です。

4年が経過した今年も・・・。

 

****ネパール地震から4年で追悼 復興は道半ば****

ネパールで、およそ9000人が犠牲になった大地震が発生してから25日で4年となりますが、住宅の再建は半分にとどまり、依然として多くの人が仮設の住居などでの不自由な生活を続けていて、復興の遅れが懸念されています。

 

ネパールでは、2015年の4月25日にマグニチュード7.6の大地震がおき、その後も余震が相次いで、合わせておよそ9000人が死亡し、住宅などおよそ100万棟の建物が被害を受けました。

地震が発生して4年になる25日首都カトマンズの広場で遺族や政府関係者などが参加して犠牲者を悼む式典が開かれ、参加者は地震が発生した時刻に合わせて黙とうをささげました。

ネパールでは、国際機関のほか、インドや日本などが復興の支援を続けていますが、再建が完了した住宅は全体の半分にとどまっていて、多くの人がトタンや廃材を使った仮設の住居での不自由な生活を続けています。

当初の計画では、来年末までの復興事業の完了を目指すとしていますが遅れが懸念されていて、今後、どこまで復興を急ぐことができるのかが大きな課題となっています。

地震で倒壊した建物の下敷きになって妻を亡くしたという55歳の男性は「地震で妻も家も失いました。早く自宅に住めるように政府の支援がほしい」と話していました。【425日 NHK】

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昨年の記事見出しが

“ネパール地震から3年 国土復興、道遠く”【2018424日 共同】

“ネパール大地震3年、遠い復興=新政権に不満の声”【2018425日 時事】

 

“道遠く”“遠い復興”が今年は“道半ば”になった分、多少は進んだ・・・ということでしょうか。単なる言葉の綾でしょうか。

 

ちなみに、昨年記事では“被災した住宅の約3割は手つかず”“被災した住宅約79万棟のうち、3年間で再建されたのは約119千棟”【共同】とされていたのが、今年は“再建が完了した住宅は全体の半分”とありますので、やはり多少は進んでいるのかも。

 

いずれにしても、復興が遅れている事実には変わりありません。

昨年記事では、復興の遅れの背景として、政党間の主導権争いが指摘されていますが【時事】、それも恐らく変わりないないでしょう。

 

【地震による生活苦が助長する少女の人身売買】

もう一つ変わりないのが、復興が進まないなかでの国民の暮らしの困窮、その結果としての女性の人身売買です。

 

昨年も“<ネパール地震3年>女性らの人身売買被害増”【2018424日 毎日】という記事がありましたが、今年も。

 

****売られる少女、ネパール地震の影****

ネパールから連れ去られたり売られたりした後、インドで売春させられる少女が後を絶たない。約9千人が亡くなった2015年のネパール大地震後、その数は増えている。

 

 「家族助ける仕事」とだまされ、インドで売春強要

「1回500ルピー(約800円)だ。ネパールの女もたくさんいる」

 

ニューデリー近くの旧市街GBロード。建物の1階に機械部品などの店が並ぶが、2階の窓は鉄格子がある。薄暗い階段を上ろうとすると見知らぬ男が声をかけてきた。2階以上は売春の場になっている。

 

次々と入っていく男性客について階段を上ると、たばこや便所のような臭いが充満する部屋に着飾った女性が50人ほどいた。部屋は何層にも入り組み、男性客を相手にする1畳半ほどの狭い空間がロッカーのように並んでいた。

 

「売春をさせられている多くがネパール人。色白で幼く見えるからインド人男性の人気が高い」。売春させられている少女を救う活動をしているNGO「レスキュー・ファンデーション」のアショク・ラジゴルさんは語る。

 

少女らの多くは12~18歳。睡眠薬入りの食べ物を食べさせられて農村から連れて来られたり、「家族を助けられる仕事がある」とだまされたりする。貧しさから親や親戚に売られることもある。

 

売春宿の経営者は人身売買組織に少女1人当たり5万~15万ルピー(約8万~24万円)を支払う。

 

2015年のネパール大地震の影響が大きかった。インド政府によると、国境で救出されたネパール人は、地震前の14年は33人だったが15年は336人に急増。16年は501人、17年は607人と増え続けている。その多くが被災地からの少女で、売春宿に売られる途中だった。

 

ネパール東部出身の女性(20)は、地震で崩壊した家を建て直すお金がなかった。3年前、「稼ぎのいい家事仕事」と知人に言われてついて行ったところ、この旧市街の売春街だった。

 

昨年7月に救出されるまで、監禁状態で1日に30人以上の相手をさせられた。「壁の内側のような暗い所に閉じ込められ、暴力を受け続けた」。同じ場所にネパールの少女が20人以上いて、売春を強要されていたという。

 

 HIV感染、救出後も差別 被害女性ら、自ら支援活動

エイズウイルス(HIV)への感染も増えている。国連の統計では、ネパールの感染者数は約3万1千人(2017年)。地元NGOなどは、実際には10万人以上いるとみる。(中略)

 

HIV感染の有無にかかわらず、売春の被害者は「けがれた存在」とされ、実家から拒絶されることも少なくない。ライさんが救出された時、ネパール政府は当初受け入れを拒み、帰国時は「HIVを持ち込んだ」と非難された。現在も政府の支援は限られる。

 

被害者支援に取り組むのは、ライさんのような自ら被害を経験した女性たちだ。

 

NGO「シャクティ・サムハ」の創設者の一人、チャリマヤ・タマンさん(42)も、16歳の時に食べ物に薬物を入れられムンバイに連れ去られた。救出されるまで1年10カ月、売春を強いられ、スカーフを扉にかけて自殺を試みた。

 

つらかったのは故郷に帰っても白い目で見られたことだ。「守るべき人に対する差別や偏見がなくなるには教育しかない」と話し、被害者の保護や社会復帰を支える。

 

支援に乗り出した日本人もいる。インド北部ダラムサラで約20年間、NGO代表として亡命チベット人を支えてきた中原一博さん(66)はネパール大地震をきっかけに被災地支援を開始。

 

人身売買の被害者への援助も始め、ニューデリーの売春宿から約50人の少女を救出した。HIVに感染した女性や子供が自立して生活できる施設をカトマンズ郊外に建設中で、今年夏には運営を始める予定だ。「今後は学校もつくって生き生きと学べる環境をつくりたい」と話す。

 

インドでは、売春目的の人身売買は重罪で最高は終身刑だが、実際に捕まる例は少ない。

 

インドのネットメディア「ザ・ワイヤー」のパメラ・フィリポウズ記者は「人身売買の組織は警察や政治家とつながっていて、取り締まりは期待できない」と話す。警察が売春の「優良顧客」の場合もあるという。「男が女を意のままにできるという考えが社会の底流にあり、教育でただしていくしかない」【218日 朝日】

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気が滅入る記事ですが、現実ですから仕方ありません。

 

【繰り返される「チャウパディ」の悲劇 背景には女性蔑視の文化】

ネパール関連で、やはり毎年目にするのが、生理中の女性を隔離する「チャウパディ」という習慣に関係する事故の話題です。

 

****生理中の女性の「隔離小屋」でまた死者、たき火で窒息か ネパール****

ネパールの警察当局は3日、生理を理由に粗末な小屋に隔離されていた女性が死亡したと発表した。たき火の煙を吸い込んだための窒息死とみられる。

 

ネパールでは先月にも同様の状況で母子3人が死亡し、非難の声が上がっていた。

 

ネパールの地方部の多くでは月経中の女性を不浄な存在とみなし、自宅から隔離された小屋での就寝を強制する「チャウパディ」という慣習が何世紀も続いている。

 

生理中や出産後の女性に触れてはならないとするヒンズー教の教えに由来し、隔離中の女性たちは食べ物や宗教的象徴、牛、男性に触れることを禁じられる。

 

チャウパディは2005年に禁止されており、昨年にはチャウパディを強要した者に禁錮3か月と罰金3000ルピー(約4600円)を科す法律も施行された。たが、今もこの風習は保守的な西部の辺境地域を中心に残っている。

 

新たな死者が出たのは西部ドティ郡で、先月31日朝、様子を確認に来た義理の母親が、煙の充満した小屋で死亡している女性を発見した。

 

地元の警察官はAFPの取材に、「小屋には窓がなく、女性は扉を閉めた状態で夜間に暖を取ろうと床でたき火をしていた。このため、死因は煙を吸い込んだことによる窒息死とみている」と説明した。

 

ネパールでは3週間前にも隣接するバジュラ郡で、女性1人とその息子2人がチャウパディで隔離中に煙で窒息死したとみられる事故が起きている。 【24日 AFP】AFPBB News

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このあたりの女性の権利が十分に考慮されていない風土・習慣というのもが、前出の人身売買がなくならない背景ともなっているのでしょう。

 

更にそこに地震被害というものが加わって・・・ということです。

 

ネパールは、観光的には独特の文化遺産やヒマラヤの壮大な自然など、非常に魅力的なものが多いのですが、地震被害から立ち直り、改めるべきものは改めた新たな姿を見せてもらいたいものです。

 

【“変わるネパール”も 生き神「クマリ」の人権配慮】

その「改める」という点では、少女の生き神「クマリ」に関する変化は、歓迎すべき一歩でしょう。

 

****神宿る少女「クマリ」変容 ネパール、「人権侵害」批判受け****

「クマリ」と呼ばれる少女の生き神がネパールで数百年にわたり崇拝されてきた。その伝統に基づいた暮らしぶりが変わりつつある。幼時から束縛される生活に対して人権侵害との批判が起きたためだ。

 

 

 経験者「大変だった」

「毎日が本当に大変だった」。首都カトマンズでそう語ったのは、4歳から12歳まで生き神クマリだったラシュミラ・シャキャさん(38)。親元を離れ、世界遺産の旧王宮広場にある館で暮らした。

 

サンスクリット語で少女や処女を意味するクマリは、仏教徒ネワール人のシャキャ(釈迦)と呼ばれるカーストから選ばれ、王国の守護女神の生まれ変わりとされる。

 

幸運をもたらすと言われ、ヒンドゥー教徒からも信仰を集めてきた。カトマンズのロイヤル・クマリのほか、他の古都にもローカル・クマリが複数いる。

 

クマリは初潮を迎えると神性が体を離れて別の少女に宿るとされ、占星術師や僧侶が次のクマリを選ぶ。「子牛のようなまつげ」「獅子のような胸」「柔らかくしなやかな手足」など32の身体的条件を満たし、供えられた水牛などの切り落とされた首を見て泣かないことも求められた。クマリになると、不浄な地面に足を触れてはならず、外出は年に数回の決まった時だけだ。

 

ラシュミラさんはクマリ時代、儀礼が忙しく、勉強の時間はほとんどなかった。「ぬいぐるみが友達だった」。引退して学校に入ると年下の子どもたちと机を並べた。「特に英語は全くわからなくて恥ずかしかった」と振り返る。猛勉強して大学を卒業し、ITエンジニアの職を得た。

 

「元クマリと結婚した男は1年以内に死ぬ」という迷信があったが、ラシュミラさんは3年前に見合い結婚。「夫は生きていますよ。大変だったけど、神と少女の二つを体験できたのは幸せだった」

 

 最近は…両親と面会、個別授業も

クマリには「親元や社会から隔絶し、子どもの人権を侵害している」との批判が国内外の人権団体から起きた。国連も2004年、児童婚などとともにクマリを「女性差別」と指摘した。

 

08年には、かかわりが深かった王制が廃止され、連邦共和制となった。政権を握った共産党毛沢東主義派(毛派)は一時、「封建的な慣習」としてクマリ廃止を主張した。

 

女性弁護士らによるクマリ廃止を求めた訴えを受け、08年にネパール最高裁は「生き神のクマリも子どもとしての人権は侵害されてはならない」とし、「移動の自由や家族に会う自由、教育を受ける権利がある」との判決を下した。

 

クマリそのものは残った。東洋大の山口しのぶ教授(仏教学)は「毛派もネパールの伝統で育ち、文化を共有する。神聖な存在をなくすことははばかられたのではないか」とみる。

 

王制廃止後、初のクマリがマティナ・シャキャさん(13)。3歳から9年間務め、昨年9月に引退した。

 

クマリだった頃、豊穣(ほうじょう)を意味する赤い衣装で朝の儀礼を済ませ、午前中は訪問者に祈りを捧げた。午後は館に先生が訪ねて来て個別授業をする。同年代の子どもが来ることもあった。その後はテレビを見たり、館内で自転車に乗ったりした。携帯電話で両親を呼ぶこともできた。

 

今は学校に通う日々だ。父親のプラタープさん(52)は「娘が家を出る時は寂しさもあったが、誇らしかった。クマリの館でも学んでいたので、学校への適応はそれほど難しくなかった」と話す。通学路で会う人々が手を合わせることが今もあるという。

 

家族で代々、食事など身の回りの世話をしてきたゴウタム・シャキャさん(52)は「時代の変化でクマリが変わるのは当然。引退後の生活も考えながら世話をしている」と話す。「どんなあり方でも、人々の信仰を集めている。この伝統は続くと信じている」【20181015日 朝日】

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カトマンズのロイヤル・クマリと他の古都のローカル・クマリでは、環境が大きく異なります。

問題となるのは、完全に外界から遮断されるロイヤル・クマリでしょう。

 

ただ、上記“マティナ・シャキャさん”がロイヤル・クマリだとすると、“午後は館に先生が訪ねて来て個別授業をする。同年代の子どもが来ることも・・・”ということで、従来聞いていた生活環境に比べたら随分改善されたようです。


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