今は、2015年10月3日の、夜11時です。下の文章の加筆を始めます。
副題-1、『二日目の加筆を始める前にお話ししたい、私の昨今、感慨深く思う人生の事』
私は月曜日から、志賀高原に旅行に行きます。普段鎌倉駅に歩いて行かれる処に住んでいるうえに、石段があって、駐車場が無いので、車を持っておりません。ところが、兄弟が誘ってくれて、北陸新幹線で、飯山まで行き、あとは、車に乗せてもらって、くねくねたるいろは坂をたどって、途中しかるべきところで降りて、高原のトレッキングをいたします。私に言わせれば大名旅行です。で、本当は二泊ぐらいしたいところですが、猫が居るので、一泊で帰ってきます。ここですが、主婦として、ご近所とべったり生活を送っていれば、猫を一日ぐらい預けることもできるでしょう。それは、私の方が画家として生きるために捨てた道です。
それから、自分たちを、主役として規定をしているのなら、子供がいるのだから、「子供に、一日ぐらい泊まりに来て、餌をやって」と言えるでしょう。だけど、主人は、そんなこと、考えられないという方ですから、私達は、どんなに大名旅行でも、一泊で切り上げて帰ってきます。
そんな私ですが、50代には、非常に過酷で激しい旅行をしております。たとえば、1999年のニューヨーク滞在は、宿泊先は日本で決めておりましたが、所属すべき工房は決めないで出かけました。そして、現地に行ってから、タイムズスクエアーのすぐ近所ですが、一部屋借りの形式では、プライヴァシーが保てず、(実はお母さんがパソコンゲームばかりやっているので、2才の坊やがまとわりついてきて離れない)ので、自分で探して、住所も変更しています。そして所属先の方ですが、有名美大の、大学院へひょいと入学ができています。2000年など、所属工房も住所も決めないで渡航をしています。そして、ニューヨーク一古い工房に所属して、住まいも独立したアパートを借りています。これはね。ちょっとね、普通の人には、あり得ない形の旅行です。
普通は、若くて、ハイレベルの人は、MITなどの、大学院へ入るために、日本にいるときに、入学許可を取り、学生としてのビザも取得してから渡航をします。住まいは寮に入るという形で、確保します。年齢の高い人なら、会社が現地の不動産会社(日本人経営のものもある)と、すでに、コンタクトがあるので、確保は容易だし、仕事先もある程度以上に前任者がいろいろ、道筋をつけてくれていると思います。だから、楽なのです。私の場合は、それが全くない、飛び込みです。大変な、意欲と、気力と、胆力があったという事です。でね、そういう経験を積み重ねて居て、相当な、実力を蓄えているという事です。肩書もないし、収入もないので、日本では、ありとあらゆる場面で、低く見られてしまって、仕事がやりにくいし、いろいろと、大変です。これから先に、この章内で、その詳細を語る藤田千彩嬢などに、どれほど、小ばかにされたことか?
しかし、絶海の孤島にでも流されて、たった、二人だけで生きていくとしたら、圧倒的なレベルで、私の方が上でしょう。特に今から五年ぐらい前で、まだ、60代のころだったら、誰にも負けない気力と胆力を示しえたと思っております。小沢一郎にだって負けないだろうと、思っておりました。たった、90日×三回ですが、すべて、自分自身で、トライし、道を切り開き、達成をしていくという経験を積み重ねておりますので、夏目雅子の映画の中のセリフではないが、「なめんでおくんぜよ」と言いたいぐらいの実力をつけていると、自負しております。
ただ、そういう冒険をしたのは、あと人生に残り時間が無いと考えたからでした。既に、55歳になっておりました。で、実際にパリに滞在したのは、56歳でしたが、長期滞在が可能になるための準備期間が惜しいと考えたのです。一応一番簡単なのは語学学校へ留学するという道です。だけど、57歳にもなって既に獲得している英語の学習のために束縛の多い語学学校に入るの? そんな事は、ばかばかしいと考えたし、かといって、ニュージャージーのプリンストン大学へ、入学したいなどと考えてしまったら、何年、準備しないとならないでしょうか? だから、『無手勝流でもいい。観光ビザ限度いっぱいの三か月でもいい。現地で、三か月で、仕事をまとめる』と決意していたのです。
そしてね。『父からの遺産は、使い切ってしまったけれど、母からの遺産が入ったら、また、同じ様な暮らしをしよう』と考えておりました。
ところがですね。母からの遺産が、本当に入った時には、心境が変わっておりました。普通の人として、つつましく生きるという方向へ変わっていたのです。その間に何があったかは、ここでは省きます。ただ、心底から、『それでいい』と、言う風に達観をしております。それで、たった、一泊の旅行でも、ありがたく思い、感謝しており、大名旅行だと、思っているわけです。でね、『行く前から、その幸運をむしゃぶりつくそう』と考えておりました。
~~~~~~~~~~~~~
副題0、『本日は、普段は、脇に置いていた、来年から初めて取り組む青色での、税務申告用の経理事務をやっておりました』
実際には何をやるかと言うと、普段は惰性に流されている、生活を、これを機会に見直そうという事です。で、何が一番気にかかっているかと言うと、来年から初めて青色申告をするのにその帳簿付けがたまっているという事です。私のやっている事業は出版業ですが、お金の動きとしては、本当に小さいです。
レベルの高い女性たちから、「あなたに本を作ってほしい」と頼まれましたよ。どうしてかと言うと、相当に小ぎれいで、真心のこもった本を作っていたから、見本として、引力があったというわけです。ところが、パソコンに異常が起きますね。誤変換多発です。普通ですと各種のワード類は、変換を記憶していきます。ところが、私は外部から操作を受けていますから、ワードアプリ特有の、記憶による積み重ねがありません。そして、その悪い操作をする相手の気分次第で、次から次へと誤変換項目が変っていきます。今は、助詞の【は、=音としては、ワとして、発音する部分】が必ず、歯と、変換をされてしまいます。また、助詞の、【に =誰に渡しましょうか?と言う風に使う場合のモノ】が、必ず、漢数字の、二に変換をされてしまいます。特に本を編集し始めると、特に美しくて、肝と言ってもよい文章表現のところで、誤変換が起こり、それが、どうしても治せなくて、結局のところ、文章そのものを削ったりいたします。
これが自分の本だからいいのですよ。特に、ほとんどが売らないで、献呈をしています。だから、少々誤変換が残っていても許してもらえるだろうと、信じています。しかし、他人の書物だと、誤変換が残っていてはいけません。それで、恐ろしくて引き受けられません。
ここなんです。ここが、私が「自分の損失は、簡単に言って五億円に達します」というところです。私の場合、特に二冊目がユニークな装丁で、しかも一見すると、高額な費用が掛かっていないみたいに見えるので、女性たちをひきつけたのでした。それは、2005年ごろでしたから、あそこで、パソコンの異常が起きて居なかったら、私は年に一冊、自分の本を、二冊、他人の本を出すというペースで、出版事業をやって行ったでしょう。パブリッシャーズドリームと言って、特別なベストセラーに恵まれる機会もあるだろうから、10年で、5億円ぐらいは、優に稼げるんです。
この間、少年A著の【絶歌】というのが話題になりました。政治的な真実を言えば、『あれは、彼が書いては、いない。彼は、犯行にも手を染めていない』と、私は思っておりますが、ここでは、その要素は捨てて、純粋に、出版事業として考えてみます。太田出版は非上場企業のようです。しかし、就活生に向けては、しっかりした会社案内と言うサイトを作っていますので、本日ではなくて過去にそれを見てみました。記憶によると、2013年度だったかの、売上高か利益だかかが、96億円だとありました。なるほどなあと思っています。順当な報告と言うところでしょう。
私は自分の出版事業からは何の利益も上がらないのだから、青色申告をしないでも、税金はかからないだろうと長らく思っていました。ところが、2014年度の市民税があり得ないほど高くて、これはまいった。青色申告をしないとだめだと、感じ入った次第です。特に事業主勘定と言う概念を、教えてもらったので、貸方・借り方の簿記記入が可能になりました。
事業主勘定とは、別のところAから、資金を持ってきて、或る別の事業Bを行うというものです。私の場合、遺産から資金を持ってきて出版事業を行うという形ですから、見事にそれにあたります。しかし、73歳になって、まったく新しい事に取り組むのですよ。面倒くさいです。だけど、税理士さんには、恥ずかしくて頼めないほどの小さな規模ですから、自分でやらないといけません。しかし、面倒くさいです。
でね。月曜日からお楽しみが待っているという、今日なら、それが、できるかなと、思い取り組みました。それはね。ちょうど、水族館のアシカが、何か演技をすると、スタッフが小鯵などを上げていますね。それに似ています。(苦笑)
しかし、ブログの方を手当てができなかったという側面はあり、皆様には、ご迷惑をおかけしました。お許しくださいませ。今は、4日の午前一時ですが、二時まで、誤変換直しと加筆に取り組みます。途中で加筆するところは、アンダーラインを引いておきます。
**************
副題1、『これは、それほど、心配することはない。ほとんど嘘の、<<<為にする>>>ニュースだから』
東大がランクを下げてアジアでは、一番の地位を奪われたという、そんなニュースを、ニュースウォッチとか7時のニュースとかで、NHKが、何回も繰り返して放映をすると、日本人の皆さまは、がっかりなさるでしょう。特に、戦後だけで、24万人を数えると思われる東大卒業生は、がっかりなさると思います。それから、順々に、ランクを下げたとされる他大学の卒業生も、がっかりなさったとは思いますが、気になさることはありません。
これは、多分ですが、嘘のニュースであり、ためにするニュースだからです。
しかしですね。申し訳ないけれど、言わせていただければ、どうして、ランクが下かと、外人が考えてしまうそのポイントはわかります。
それは、五項目ぐらいあるのですが、そのうちの一つ、施設に関する事は、申しあげましょう。それは東大内には、学生または、教職員がお互いに、談論風発ができる場所が無いと言う点で、それは、外国の有名大学に比較すると劣るということになります。
このポイントですが、京都大学で、ノーベル賞・授賞者が多発するのは、京都と言う街の地理的な狭さが原因であると、聞いたことがあります。京都は小さな盆地であって、学生も教職員も、その中に住んでいます。すると、大学近辺の、カフェまたは、飲み屋で、懇談をして、それが10時まで、続いたとしても、12時には、就寝できるという環境があります。
東京大学の教職員の間では、それが、不可能です。バーッとだだっ広く広がった東京圏の中で、どこに、お互いが住んでいるかは、ほとんど知らず、と言うか、特別な日でないと、お互いの、懇親を深める機会がないのです。特別な機会と言うのは学会であって、その二次会が、六時ごろから開かれる立食パーティであって、落ち着きません。深い話はできません。その次に、親しいメンバーで誘い合って、三次会に行くとしても、午前10時ごろから始まっている学術会議の方で、疲れ切っているうえに、二次会でアルコールも入っているから、学問的ヒントを見つけ出す様な、有意義な懇談などと言うのは、まったく無理になります。
しかも学生向けの施設と言ったら、食堂しかありませんが、それが、残念なことに劣悪な環境です。
まあ、私が経験したのは、1960年代ですが、2010年代に入って、芸大食堂が人気があると聞けば、そこよりもさらに、劣位にあるのが東大の学食だと、なるでしょう。芸大の学食って小皿料理が充実をしています。それからメインのディッシュですが、量は少ないです。
だから豚の生姜焼きのキャベツが、お皿からあふれ出てテーブルに散らかるなどとということがありません。また、たとえあったとしても芸大の学生は、将来自分がスターになり、庶民の人気を得ないといけないのだということが身についていますから、そっとティッシューでそれをぬぐってから立ち上がったりします。他人から、汚い作法の人だと思われたら大変ですからね。
一方で東大ですが、今は富裕層の子女でないと入れないと言われています。だけど、メラミン樹脂(?)の、てかてかした冷たい質感のテーブルの上が、汚いことはしょっちゅうです。量が多いので自然に散らかってしまうにしても、それを、自分の手で、ぬぐって立ち去る学生が少ないのです。そして、学生の数が多いので、食べ終わったらすぐ立ち上がらないといけないという感じです。テーブルは長テーブルで、間隔が狭い形で置いてあります。椅子は折りたたみ型のパイプいすです。そして、やはり、間隔が狭い形で置いてあります。
~~~~~~~~~~~~
副題2、『孤高の天才ペレリマン博士が自説を、発表をしたプリンストン大学と、その食堂』
さて、ここで、比較対象例として、プリンストン大学の学食の例を引きましょう。いや、皆さんから、また嫌われるでしょうね。わかっていますよ。また、ひけらかしやがって、嫌な奴だと思われることは。しかしですね。私は当時のお金で、500ドル+100ドル(当時のレートで、7万円)を出して、一日旅行へ連れて行ってもらったのです。アメリカへわたる渡航費、アパート代、美大大学院の学費等を含めると、その旅行は、一日で、20万円は、かかっていると言ってもいいぐらいのお金がかかっているのですから、吹聴気味になるのはお許しください。それに、プリンストン大学の同じ食堂を使った日本人はほかにいても、こういう文脈でそれを語る人はほかにいないと、思っていますし。
インテリアですが、アーリーアメリカン調で、ログハウスみたいな感じです。床は木製で、テーブルも木製で、椅子も木製です。椅子は、形としては、ソファー用の椅子みたいで、コーフィーを飲む際は、足を組んで、リラックスできる形です。日本の学食の、折りたたみ出来るパイプいすとは、雲泥の差があります。
さらに、『これには、かなわないなあ』と思ったポイントが二つあって、一つは、すべてのテーブルが個テーブルであって、長い形のものでは無いという事。しかも、お互いの間が、4mは、離してあるという事。
それから、スキップフロアーが採用をされているという事。帝国ホテルの旧館のロビーにスキップフロアーが採用をされていたのを覚えております。そのため、広い部屋なのだけれど、狭い部屋にいる様な錯覚を与えられること。
そして、隣のテーブルに座っているグループの話し合いの、姿がいかにも静かだったこと。普通のアメリカ人って、早口でしゃべり、ジョークの応酬をするのが得意です。ところがここにいる人たちは、早口では語りません。そして、相手の発言の後静かに間合いを置いています。いかにも相手を尊重するという形、相手の話したことの意味を考えているという感じ・・・・・なんか感じ入ってしまいました。こういうところに新しい思考とか新しい発明とかが起きて、いわゆる学問が、行われているのだと感じました。
ところで、その時は、1999年の11月で、私はまだ、NHKスペシャル【100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~】を見ていませんでした。が、そこに主役として登場するポアンカレ予想を解いたペレリマン(またはペレルマン)博士の唯一の動く映像が残っているのが多分、プリンストン大学の、階段教室だったと覚えております。
なお、ここで、小さな、お断りをしないといけませんが、この文章を読んで、そこが素敵だから訪ねてみようと思った方が『ここは、汚い』と思って、がっかりされる可能性も、指摘しておきましょう。それは、床は泥で真っ白だし、壁だって、ニスが塗ってあるというわけでもないし、華やかな壁紙が貼ってあるというわけでもないのですから。見ようによっては汚いのです。が、私は、『そこが、学問の発達の為には、最高の懇談の場所だなあ』と思っただけです。
ところでプリンストン大学は、私立なので、寄付で、施設の建設は賄われているでしょう。私の母校ICUも、寄付活動は盛んです。知っているある先輩など、女性なのに、そして、大富豪だとも思われないのに、400万円を寄付なさいました。たぶん退職金の一割を寄付なさったのでしょう。
東大って、すごいブランドであって、その恩恵に一生、よくすることができるのに、あまり、寄付行為で、話題になったことが無いですよね。現存の卒業生が、一人一万円を寄付しただけで、12億円が、あっという間に集まるマンモス大学なのですが・・・・・税金に、おんぶにだっこの精神が強いのかなあ?
@@@@@@ここが、推敲中の最先端です。ここで、午前四時になったので、未完ですが、就寝をさせてくださいませ。
副題3、『これは、日本が被植民地国家であることを証明するニュースだ。どうせ、鎌倉エージェント発でしょう』
後注1のマイケルムーアのいいところを、私が特別に取り上げて、2010年の、2月に書いた文章の中で、植民地国家を、容易に支配する為には、被支配国の国民をがっかりさせるのが最上の道であるというイギリスの学者の、T.ベン 氏の言葉を引いていますが、それの典型例だからです。
日本人はがっかりしちゃうでしょう。『そんなに私たちはだめなのか❓』と思って。それが悪人たちの狙いだから、乗ってはいけませんよ。
この一文も、また、後注1の一文も、もっともっと加筆をしないといけませんが、さすがに、私も体力がつきそうで、眠りたいと存じます。実は、月曜日から旅行に出かけるので、体力をつけておかないとならないでしょう。主人が怒っています。不摂生だと。
私は普通の肉体を持つ一個の人間です。むしろ体力がない方です。私が最近、9月26日より、ノンフィクションではなくてフィクションとして、文章を語り始めたので、『チャンスだ。ここで、彼女をつぶしてやれ』と考えた、鎌倉エージェント発の工作であって、スタップ細胞問題と、すっかり同じ仕組みのものです。
~~~~~~~~~~~~~
副題4、『一般の人は調査とか、学術雑誌と聞くと、それが、真実だとすぐ信じてしまう。そこを利用された嘘を、私はすでに、三つ発見をしている。それは、すべて、イギリスが利用をされている・・・・・第一の嘘、ゴッホの死の真相を曲解させた』
副題2に書いた通りですが、最初のものは、2011年に発表をされたイギリスの学者の研究による【ゴッホの死の真相】と言うものです。その学者によれば、ゴッホはフランスの、その地方(オーヴェール)に住んでいた、西部劇好きの少年によって、ピストルで、殺されたというものです。
私は、それ以前に放映をされた別の説を取る番組にたいへん感銘を受けて、それを何度も文章化しています。それは、BSジャパンで放映をされた説で、信ぴょう性が高いです。記憶に拠れば【ゴッホ最後の70日間】と言うタイトルだったと思います。それは、人を納得させる説です。すでに、ブログで、丁寧に書いているはずだから後で、探しておきますが、簡潔にまとめると、
ゴッホは純粋ではあるが、あまりに、純粋過ぎて、人を追い詰めるところがあった。耳をそぎ落としたのも、自分ではなくてゴーギャンであって、それを神性のあるゴッホはかばって、自分で、やったこととした。それゆえに、ゴーギャンは、かえって苦しんで、ゴッホの葬儀にも出なかったし、タヒチに、逃げることと成った。だから、ある意味でのゴーギャンの幸せを奪った。パリにいる家族との別離の事。だが、それこそが、ゴーギャンに天才的な画家としての後半生を導いたのだから、何が善か悪かは言えないところだ。
ゴーギャンとのいきさつののち、精神病院へ入院するが、オーヴェールの医師、ガッシュ氏が、
ゴッホの死の前後に、大変に奇妙な行動を取る。それは、身体が頑健なゴッホが、ピストルで撃たれた後で、自力で下宿に戻って、自分のベッドへ寝たのに、ガッシェ医師は、弾丸を取り去るとか、弾倉を縫い合わせるとかいう外科的手術を、行わなかった。しかも、死後、ゴッホの作品の、模写作品を大量に作り、それにゴッホの署名を似せて入れている。
ゴッホは、その番組に登場した二人の学者の研究が、発表される以前は、似た主題の作品を多数作るということで、有名だったが、数点ある同様の絵のうち、何点かはガッシェ博士の描いたものであると、推察されるという。番組内では、何故、ガッシェ博士がそういう事をしたのかと言う理由はぼかされていましたが贋作を作った理由が、人聞きの悪いものなので、ガッシェ家の遺族に配慮して、発表をされていなかったのですが、
私が代わって結論を述べると、ガッシェ博士は、ゴッホを撃った真犯人が弟のテオであることを知っていた。そして、ゴッホが、すぐ死ななかったことと、弟テオを弾劾しなかったことに苦しみ、苦境にあることを知っていた。弟テオの奥さんは、すぐ、ゴッホが、自殺をしたことにしてほしいとガッシェ博士に頼み、【ゴッホの手紙】と言う本を編集し始める。その本の前書きに、ゴッホは自殺をしたと添え文を入れた。
それは、ゴッホの性格をよく知っていたガッシェ博士自身の助言もあったかもしれない。そして、その本が、ベストセラーになれば、ゴッホは有名な作家(ここは画家を指す)になるはずで、そうなれば、ゴッホの絵は、高い値段が付く。・・・・・と、そういう目的で、がっしえ博士は、同類の絵を贋作をした・・・・と、私は結論を付けます。
どうしてそういう事が発見をされたかと言うと、いくつかは、小さな写真から複製をされた贋作だったので、ボタン等が描かれていなかったりするそうです。小さな写真からでは、そこが、厳密には複製できなかったらしいのです。。
一方で、弟テオと奥さんの方については、これもまた、遺族が居るので番組は、直接的な表現をしていません。が、私が感じた結論を言うと、現在のお金で、毎月15万円程度を、弟テオから送金をして貰っていたゴッホは、そのあまりにも強い純粋さによって、弟テオが、結婚をしても同様の、仕送りと、手当を求め続けたのです。
しかし、奥さんができて子供も生まれたテオは、奥さんが、「送金は無理だから、もうやめなさい」と言うのと、「引き続き送ってくれ。<生まれた子供を見に行く>と言うオランダへの旅行はやめた方がいい」と、主張をするのです。板挟みになったテオは、とうとうゴッホを殺そうと決意します。特におくさんがオランダの実家に帰ってしまったのは、交通がそれほど、発達をしていなかった、当時では、一種の離婚をほのめかされたとも同じだったと推察すれば、弟テオの消耗はすさまじいものだったと思われます。
しかし、撃ったは撃ったものの、事前の想定には反して、ゴッホは死ななかったのです。銃撃後三日も生き続けていたのです。しかも宿で、絶対に、誰にも「弟テオに撃たれた」とは言わなかったのです。これが、ゴッホの類いまれな神性と言うところです。撃たれる前には無神経に見えるその申請で、弟を追い詰めておきながら、自分が撃たれてみると、弟をかばおうと思うのです。または、半分意識不明になったともいえるのかなあ。だけど、歩いて帰って来たのですから、意識はあったと思います。その後、弟テオの方は、三か月で、死んでしまいます。うつ病にかかったのです。ただね、普通の健康状態から死までが、たった三か月と言うことは、どれほど、弟テオが悩んだかが推測されます。神のごとき純粋さと言うのも、ここでは、困った事だとなります。
ええと、2時40分です。寝ないといけません。体調を整えておかないと旅行が全うできません。恐れ入りますが、この続きは、別の日にいたします。お許しください。
まあ、これから書く予定の事を軽いメモで表すと、この文章が私のブログ無い文章としては、迫力があるものだったから、私の文章担当の読み手であった、井上ひさしが、これを壊滅させるアイデアを出して、それを、同じ鎌倉エージェントのお仲間である、石塚雅彦氏とか、アメリカ在住のCIAトップ連中が整えて、イギリス人学者(=いわゆる日本でいうところの御雇学者か、何でもいう事を聞く、お金大好きな人物)に頼んでいい加減な、説を唱えてもらったのです。
そして、それを、2011年、私が第一次フェイスブックで活発な投稿をしていて、人気が高かった時に、藤田千彩さんと言う多摩川大学出身で、元は、外国の通信会社に勤めている女性美術評論家に、広く、フェイスブック内部で、ひろめさせて、私が第一次時代獲得していた大勢の美術関係者との間を裂こうとしたのでした。
それをまた、私が見ぬいて分析をするものですから、それを覆すための、ニュースがSTAP細胞疑惑の始まりです。
で、それが、二つ目の嘘であり、
三つめがこの東大他の日本の大学のランクが下がったというニュースです。
なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3128579です。
後注1、
後注2、
後注5、