クリスマスが近づきました。今年天から、与えられたクリスマス・プレゼントは、いろいろあるのですが、これもその一つだったかもしれないと思うのが、上記の童話を、読んだことです。奥付には、小学上級以上とありますが、どうしてどうして、今、現在66歳の私が読んでも、『なんと、意味深いのだろう。そして、次の頁を読むのが、どうしてこんなに待ち遠しいのだろう』と思いました。
その前日、私は完全徹夜でした。「徹夜は、もう・年・だから出来ない」とよく、表向きには言いながら、実はしょっちゅう徹夜をしております。そして、徹夜明けの次の日は、何をするにも億劫です。しかし、その何をするにも億劫な朝の・六時から読み始め、家事をしながらですが、お昼までには読み終えてしまいました。
本当に、息をもつかせず、読ませる本です。そして、心を柔らかにしてもらいました。途中では、厳しい心理描写があって、『結構、重苦しいところで終わるのかなあ』と思っておりましたが、最後は、なんとも、穏やかで美しく、『すべての読者が、ほっとするだろう』というところで終わり、心理的なカタルシスを、充分に与えられます。
そして、私は、9章まで(約半分)を一時間で読み終わり、午前七時から、すぐ、八枚の礼状を書き始めました。礼状などスグに書かなければならないのですが、今の私は自分の本を郵送することで、てんてこまいであり、ともかく、前向きの事を先にやろうと決意しているものですから、礼状を書くのが遅れるのです。それを、書こうという気にさせたのでした。
どうしてそんな勇気を与えられたかと言うと、その章で、この本の第二の主人公であるミス・バーナビー(老婦人)と言う、メンター(賢者)が発言する言葉によって、主人公の悩める12歳の少女が、深く慰められるから、それに、共鳴したのでしょう。単純な言葉ではなく、思いがけない言葉の数々で。父と母が離婚をしそうなことへの心配とか、母がヒステリックに怒ることへの悲しみとか、さまざまな事が、相当なレベルで、消化(または解消)され始めます。そこで、先ずほっとするし、そのミス・バーナビーと言う人物像が、私には特別魅力的に映ったからです。
彼女は村中の人から「変わり者だ」と言われている人ですが、世界中をめぐってきた賢者で、しかもチェロを上手に弾く音楽家です。
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ここにおいてこの童話が、私が過去に、好きになっている、二つの童話と共通する構図を持っていることに気がつきました。言わずもがなのことですが、剽窃とか、コピーと言うわけではありません。・・・・・ただ、親だけでは、子どもはうまく育たないという一面があることも確かなのです。そして、感性が鋭く、後年、クリエーターとか、芸術家になっていくような人ほど、親と自分との間柄に悩むものなのです。そこへ、適切なメンターが現れ、状況をクリアーにしてくれる。・・・・・その構図が似ているのでした。
過去の愛読書とは、エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』と、北畠八穂の『悪たれわらしポコ』です。飛ぶ教室の主人公は、エリート校の寄宿舎に入っています。彼なりの悩みのある少年ですが、村のはずれに住む、哲学を知るおじさんに救われます。『悪たれわらしポコ』の主人公は、もっと低年齢であり、状況は、もっとすさまじく、苦しいものです。貧しくて担任の先生からも差別をされます。しかも自分が作った詩の曲が、合唱コンクールの主題歌になっているのに、その練習にさえ、加えてもらえません。
『どういうことに、なっているのだろう』とポコは深く悲しみますが、村のはずれに住む賢者のおじさんが、「それは、お前の名前、ポコを、畝戸(うねべ)と、漢字に直して、お母さんが東京へ応募してくれたんだよ」と、謎解きをしてくれることを機縁に、すっかり、心が落ち着くのでした。青森三沢基地、周辺の貧しい農村が舞台で、父親が戦死したポコの家では、お母さんは、遠くへ働きに行っています。が、その職業が基地に関係したもの(つまり、米兵相手の仕事)なので、もう、村には帰って来られないのです。捨てられたと思っているポコの周辺で、「お母さんは遠くからでも、いつも、ポコを見つめていた」と、判ったポコの喜び。ちゃんと愛されていることを知った喜び。
そこで、私はドッと涙を流すのですが、この上記の童話「私のねこ カモフラージュ」でも、最後に、ドッと涙が出る場面が用意されています。上質のエンディングです。しかし、途中の描写は、まったく甘くないのですよ。大人はこれを読むと、ある種、背筋が寒くなるかもしれない。子どもって、これほど、正確に親の姿を見ているものかと思って。だから、大人の鑑賞に堪えるのです。それに両親の関係とともに、学校社会での、そういう感性の鋭い子の、生きる場所の確保の問題にも触れています。いわゆる無視されるという種類のいじめを、どう克服するかを、美しく示唆しております。
著者は、コーディリア・ジョーンズと言って、後ほど、イギリス木口木版画の第一人者となる人ですが、この童話に書かれている頃、両親が一度別居しているし、そのために転校した先で、友達が出来ません。ので、自然を観察に出かけます。一人でスケッチをする。そういう孤独の時間が、創作者としては、非常に大切だったのでしょう。そして、内省的ですから、両親に対しても、大いに気配りをするのです。それは、かわいそうなくらいです。そしてそのベースになっている母への観察等が、とても、鋭いのです。そこあたりも並みの童話ではありません。
なお、イギリス木口木版画については、この「私のねこ カモフラージュ」を訳された山内玲子さんほかが、主宰しているアリスという団体があって、そのホーム頁をご覧になると、イギリス木口木版画が、たくさん出てきます。そのURLは、以下に
http://www5a.biglobe.ne.jp/~alis/index.html です。
2008年12月14日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
なお、今日は、昨日より、6時間早く更新していますので、良かったら、下も覗いてやってくださいませ。
その前日、私は完全徹夜でした。「徹夜は、もう・年・だから出来ない」とよく、表向きには言いながら、実はしょっちゅう徹夜をしております。そして、徹夜明けの次の日は、何をするにも億劫です。しかし、その何をするにも億劫な朝の・六時から読み始め、家事をしながらですが、お昼までには読み終えてしまいました。
本当に、息をもつかせず、読ませる本です。そして、心を柔らかにしてもらいました。途中では、厳しい心理描写があって、『結構、重苦しいところで終わるのかなあ』と思っておりましたが、最後は、なんとも、穏やかで美しく、『すべての読者が、ほっとするだろう』というところで終わり、心理的なカタルシスを、充分に与えられます。
そして、私は、9章まで(約半分)を一時間で読み終わり、午前七時から、すぐ、八枚の礼状を書き始めました。礼状などスグに書かなければならないのですが、今の私は自分の本を郵送することで、てんてこまいであり、ともかく、前向きの事を先にやろうと決意しているものですから、礼状を書くのが遅れるのです。それを、書こうという気にさせたのでした。
どうしてそんな勇気を与えられたかと言うと、その章で、この本の第二の主人公であるミス・バーナビー(老婦人)と言う、メンター(賢者)が発言する言葉によって、主人公の悩める12歳の少女が、深く慰められるから、それに、共鳴したのでしょう。単純な言葉ではなく、思いがけない言葉の数々で。父と母が離婚をしそうなことへの心配とか、母がヒステリックに怒ることへの悲しみとか、さまざまな事が、相当なレベルで、消化(または解消)され始めます。そこで、先ずほっとするし、そのミス・バーナビーと言う人物像が、私には特別魅力的に映ったからです。
彼女は村中の人から「変わり者だ」と言われている人ですが、世界中をめぐってきた賢者で、しかもチェロを上手に弾く音楽家です。
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ここにおいてこの童話が、私が過去に、好きになっている、二つの童話と共通する構図を持っていることに気がつきました。言わずもがなのことですが、剽窃とか、コピーと言うわけではありません。・・・・・ただ、親だけでは、子どもはうまく育たないという一面があることも確かなのです。そして、感性が鋭く、後年、クリエーターとか、芸術家になっていくような人ほど、親と自分との間柄に悩むものなのです。そこへ、適切なメンターが現れ、状況をクリアーにしてくれる。・・・・・その構図が似ているのでした。
過去の愛読書とは、エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』と、北畠八穂の『悪たれわらしポコ』です。飛ぶ教室の主人公は、エリート校の寄宿舎に入っています。彼なりの悩みのある少年ですが、村のはずれに住む、哲学を知るおじさんに救われます。『悪たれわらしポコ』の主人公は、もっと低年齢であり、状況は、もっとすさまじく、苦しいものです。貧しくて担任の先生からも差別をされます。しかも自分が作った詩の曲が、合唱コンクールの主題歌になっているのに、その練習にさえ、加えてもらえません。
『どういうことに、なっているのだろう』とポコは深く悲しみますが、村のはずれに住む賢者のおじさんが、「それは、お前の名前、ポコを、畝戸(うねべ)と、漢字に直して、お母さんが東京へ応募してくれたんだよ」と、謎解きをしてくれることを機縁に、すっかり、心が落ち着くのでした。青森三沢基地、周辺の貧しい農村が舞台で、父親が戦死したポコの家では、お母さんは、遠くへ働きに行っています。が、その職業が基地に関係したもの(つまり、米兵相手の仕事)なので、もう、村には帰って来られないのです。捨てられたと思っているポコの周辺で、「お母さんは遠くからでも、いつも、ポコを見つめていた」と、判ったポコの喜び。ちゃんと愛されていることを知った喜び。
そこで、私はドッと涙を流すのですが、この上記の童話「私のねこ カモフラージュ」でも、最後に、ドッと涙が出る場面が用意されています。上質のエンディングです。しかし、途中の描写は、まったく甘くないのですよ。大人はこれを読むと、ある種、背筋が寒くなるかもしれない。子どもって、これほど、正確に親の姿を見ているものかと思って。だから、大人の鑑賞に堪えるのです。それに両親の関係とともに、学校社会での、そういう感性の鋭い子の、生きる場所の確保の問題にも触れています。いわゆる無視されるという種類のいじめを、どう克服するかを、美しく示唆しております。
著者は、コーディリア・ジョーンズと言って、後ほど、イギリス木口木版画の第一人者となる人ですが、この童話に書かれている頃、両親が一度別居しているし、そのために転校した先で、友達が出来ません。ので、自然を観察に出かけます。一人でスケッチをする。そういう孤独の時間が、創作者としては、非常に大切だったのでしょう。そして、内省的ですから、両親に対しても、大いに気配りをするのです。それは、かわいそうなくらいです。そしてそのベースになっている母への観察等が、とても、鋭いのです。そこあたりも並みの童話ではありません。
なお、イギリス木口木版画については、この「私のねこ カモフラージュ」を訳された山内玲子さんほかが、主宰しているアリスという団体があって、そのホーム頁をご覧になると、イギリス木口木版画が、たくさん出てきます。そのURLは、以下に
http://www5a.biglobe.ne.jp/~alis/index.html です。
2008年12月14日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
なお、今日は、昨日より、6時間早く更新していますので、良かったら、下も覗いてやってくださいませ。