今日は、ちょっと突然ですが、外国物を離れて、今朝見たテレヴィの感想を書かせてくださいませ。実は午前中に用意したものが、11月7日に送ってあるエピソードをさらに新しく推敲したものでした。いまから、新作を書いている暇がなくて、自分の日記用に書いたものです。
~~~~~~~~~
普段、テレビはあんまり見ないのですが、時々、あれっと思うほど、よいものに出会います。特にインタビュー番組とか、ドキュメンタリーで。その際、出演者が感動を与えようとしているのに、与えられなかったりする場合がある一方で、期待をしていなかったのに、感動を与えられたりすることもあります。その違いはどこから出てくるのだろうと、主人に言うと「出演者の余裕のあるなしに関係があるだろう」といいます。
そういう意味で言うと、12月5日のNHKほっとモーニングの『船村徹氏の時間』は、なかなかの、ものでした。船村徹氏は、本当に余裕のある感じでした。彼は、ヒット曲を数々生んだ演歌の作曲家です。でも、最後の結論、「これからはモノクローム人生として、地方のよさを作曲に反映していきたい」は、非常に含蓄のある言葉でした。波の寄せかえり一つでも、鹿児島県の波は、鹿児島弁の音で寄せかえり、津軽海峡の波しぶきは津軽弁の音がするそうです。
明治の廃藩置県の行われる前には、日本にはその土地、固有の文化があり、(お酒の味が違うのを初めとして)、それを、大切にしていきたいということでした。
生涯現役の人として、作曲もするが、演歌を、実際にバンドを組んで弾き語りをして歩く、行脚を続けておられるそうです。
~~~~~~~~
さて、これからの文章は、船村さんが語らなかったことを、私が下世話なポイントまで落として推理をして、その結果、彼の人生が長い目で見て、より豊かになったと、いう、結論まで達したいのです。
この演歌の地方回りは、コロンビアと言う会社の専属作曲家を離れた後で、始まったことらしいのです。氏は内弟子と言うのも大勢かかえていて、それを、歌手として売り出していくので、家の子郎党を抱える一国一城の主です。それがいったん収入の面とか発表の舞台の面で疎外を受けて、苦しみを味わわれたのです。いや、ご本人はそこを、語られないので、想像です。「当時は、映画の世界でもそうで、専属の仕組みと、そのくびきは、強かった」と語られましたが、これは、お育ちのよい船村氏にとっては、相当違和感のある世界で、結局は、こうなさった方が良かったのです。
そして、独立無所属となれば、どんな会社の、どの歌手に対しても、楽曲を自由に提供できることになりますので、結果として、氏がより大物として、この世界で優遇されることへ繋がっていくのですが、その独立した当座は大変だったと思います。
私は母として、思春期が一番大変だと思うので、そのあたりまで家庭に専念していたために、画家としての出発が遅くて、その上美大を出ていないので、そのマイナスハンディを埋めるために、よく、公募団体展とか、コンクールに所属とか応募したのです。入選して、目録に名前が載った大きな展覧会だけでも、12個あるほどです。
が、今はすべてから、身を引いております。表向きの理由は、「時間が無い」ですが、本当の理由は、『物を書く自由を確保するため』です。絵描きとして、公募団体展に所属をしていると、カーストがあって、その決まりでは、まだ最上位ではない私が、文章を書くのは、逸脱をした事をしているとみなされるはずです。そうすると、生意気だとか、欲張りだとか、思われて、白い眼で見られます。
しかし、止める(自然に出品をしないことにするという形で、別に退会届をだしたわけでもないのですが)と言うのも、白い目で見られることになるので、どっちにしても、決断後、数年間は苦労します。だけど、ものすごいロングスパンで見れば、当座の損得は問題でなくなるので、自分の選択を信じて、行動するしかないわけです。
船村氏の場合は、その独立後、既に、40年を過ぎているので、思い出が、生々しくなく、穏やかに語られますが、その当時は相当大変だったでしょう。でも、一見すると損に見える事が、長い目で見ると得になると言うことは、結構あるケースだと思います。
人は誰でも、希望を持って生きていくべきで、私はさまざまな分野の文章を、一応ですが、自由・自在に書いていくということに、自分の希望を託している人間で、やっと、昨日から、英語の美術(アーチスト)紹介ブログを、始めました。もう少し、形が整ったら、また、皆様にもお知らせをさせて頂きましょう。
自分ひとりで、秘書もマネージャーもいなくて、所属する出版社も(芸能人だったら、プロダクションと言うところですね)ないと言う、一匹狼ですから、何をするにしても効率の悪いことは、はなはだしく、非常にシゴトが小さくなります。でも、自分の身丈にあった、やり方ですから、それなりに疲労も少ないということで、『これ以外に、方法も方便も無い』と、観念(もっと、きれいな言葉で言えば、覚悟)をしております。
2008年12月5日
雨宮舜(こちらが、ライターとして使いたい名前のつもりです)
川崎千恵子(本名であり、画家として、版画家としては、こちらをつかっております)
~~~~~~~~~
普段、テレビはあんまり見ないのですが、時々、あれっと思うほど、よいものに出会います。特にインタビュー番組とか、ドキュメンタリーで。その際、出演者が感動を与えようとしているのに、与えられなかったりする場合がある一方で、期待をしていなかったのに、感動を与えられたりすることもあります。その違いはどこから出てくるのだろうと、主人に言うと「出演者の余裕のあるなしに関係があるだろう」といいます。
そういう意味で言うと、12月5日のNHKほっとモーニングの『船村徹氏の時間』は、なかなかの、ものでした。船村徹氏は、本当に余裕のある感じでした。彼は、ヒット曲を数々生んだ演歌の作曲家です。でも、最後の結論、「これからはモノクローム人生として、地方のよさを作曲に反映していきたい」は、非常に含蓄のある言葉でした。波の寄せかえり一つでも、鹿児島県の波は、鹿児島弁の音で寄せかえり、津軽海峡の波しぶきは津軽弁の音がするそうです。
明治の廃藩置県の行われる前には、日本にはその土地、固有の文化があり、(お酒の味が違うのを初めとして)、それを、大切にしていきたいということでした。
生涯現役の人として、作曲もするが、演歌を、実際にバンドを組んで弾き語りをして歩く、行脚を続けておられるそうです。
~~~~~~~~
さて、これからの文章は、船村さんが語らなかったことを、私が下世話なポイントまで落として推理をして、その結果、彼の人生が長い目で見て、より豊かになったと、いう、結論まで達したいのです。
この演歌の地方回りは、コロンビアと言う会社の専属作曲家を離れた後で、始まったことらしいのです。氏は内弟子と言うのも大勢かかえていて、それを、歌手として売り出していくので、家の子郎党を抱える一国一城の主です。それがいったん収入の面とか発表の舞台の面で疎外を受けて、苦しみを味わわれたのです。いや、ご本人はそこを、語られないので、想像です。「当時は、映画の世界でもそうで、専属の仕組みと、そのくびきは、強かった」と語られましたが、これは、お育ちのよい船村氏にとっては、相当違和感のある世界で、結局は、こうなさった方が良かったのです。
そして、独立無所属となれば、どんな会社の、どの歌手に対しても、楽曲を自由に提供できることになりますので、結果として、氏がより大物として、この世界で優遇されることへ繋がっていくのですが、その独立した当座は大変だったと思います。
私は母として、思春期が一番大変だと思うので、そのあたりまで家庭に専念していたために、画家としての出発が遅くて、その上美大を出ていないので、そのマイナスハンディを埋めるために、よく、公募団体展とか、コンクールに所属とか応募したのです。入選して、目録に名前が載った大きな展覧会だけでも、12個あるほどです。
が、今はすべてから、身を引いております。表向きの理由は、「時間が無い」ですが、本当の理由は、『物を書く自由を確保するため』です。絵描きとして、公募団体展に所属をしていると、カーストがあって、その決まりでは、まだ最上位ではない私が、文章を書くのは、逸脱をした事をしているとみなされるはずです。そうすると、生意気だとか、欲張りだとか、思われて、白い眼で見られます。
しかし、止める(自然に出品をしないことにするという形で、別に退会届をだしたわけでもないのですが)と言うのも、白い目で見られることになるので、どっちにしても、決断後、数年間は苦労します。だけど、ものすごいロングスパンで見れば、当座の損得は問題でなくなるので、自分の選択を信じて、行動するしかないわけです。
船村氏の場合は、その独立後、既に、40年を過ぎているので、思い出が、生々しくなく、穏やかに語られますが、その当時は相当大変だったでしょう。でも、一見すると損に見える事が、長い目で見ると得になると言うことは、結構あるケースだと思います。
人は誰でも、希望を持って生きていくべきで、私はさまざまな分野の文章を、一応ですが、自由・自在に書いていくということに、自分の希望を託している人間で、やっと、昨日から、英語の美術(アーチスト)紹介ブログを、始めました。もう少し、形が整ったら、また、皆様にもお知らせをさせて頂きましょう。
自分ひとりで、秘書もマネージャーもいなくて、所属する出版社も(芸能人だったら、プロダクションと言うところですね)ないと言う、一匹狼ですから、何をするにしても効率の悪いことは、はなはだしく、非常にシゴトが小さくなります。でも、自分の身丈にあった、やり方ですから、それなりに疲労も少ないということで、『これ以外に、方法も方便も無い』と、観念(もっと、きれいな言葉で言えば、覚悟)をしております。
2008年12月5日
雨宮舜(こちらが、ライターとして使いたい名前のつもりです)
川崎千恵子(本名であり、画家として、版画家としては、こちらをつかっております)