銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

『蛙の大騒動―2、解剖実習』

2008-12-12 14:19:23 | Weblog
 うわーんと泣き出したら、奥から、父が飛んできました。そして委細を飲み込むと、寝巻きのまま、飛び出していきました。父は和服党で、普段着(室内着)は大島紬でしたが、その下着として古い浴衣を着ていて、それを、寝巻きとしていました。そのまま、着替えないで飛んで出て行ったのです。

 そして、15分ぐらいで、蛙を八匹ぐらい取ってきてくれました。次男坊で昔からやんちゃだったことで有名だったそうで、蛙を取るぐらい文字通り、朝飯前だったのです。確かに父は、そのとき、まだ、寝起き直後で朝ごはんを食べていませんでした。

 でも、その姿が丘の上に住んでいる、数十軒(いや、二百軒ぐらいからかも)見えたかもしれないということは、後で、考えてみると本当に申し訳ないことでした。実は、父は、晩年になるまで相当おしゃれな人だったのです。(上の写真は24歳のときのものです)

 晩年になって、既に何もかも洋服がそろって、どんなところへも出て行かれる、出席できるとなってから、安心して、やや、おしゃれではなくなったそうですが、若いときは、いつ何時、TPOに合わないという事ができても、すぐには、買えないわけですから、相当、考えて、揃えていたそうです。そんな父にとんでもない姿を、人目にさらさせてしまって、本当に申し訳なく思います。見ている人は蛙の解剖の事を知らないので、あの男性は何を遣っているのだろうと思ったでしょうし、知っている人が見たら、『ナンだったのかなあ。あれは』といぶかしく思ったでしょう。
 で、この一連の父母への感謝の文章は終わります。

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 ただ、昨日、ここまで書かなかったのは、実際の蛙の解剖実験について、これまた、記憶がよみがえり、いろいろな、事を考えて、今度はそれについて、お話をさせて頂きたくなったからでした。

 そんなに、おお苦労をしたのに、友達は理科が始まる前まで、「うわーっ。気持ち悪い」と言うし、なんと、理科室に入ると大きなガラスのふたつきガラスの容器に、蛙が既に何十匹と言うほど入っておりました。

 『先生が、二日ぐらいかけてお取りになったのかなあ』とも思いましたが、でも、ふと、『これって、いわゆる業者と言うのが、居るのではないかしら』とも思いました。子どもながら、理科の実験用教材を斡旋する会社があって、その中に、『生き物の配給と言うか、生き物を売る場合もあるのではないかしら』と思いました。だって、先生もおしゃれな方でした。だから、父や私みたいに、あんなみっともない格好をして、蛙をとっていらっしゃる姿を想像できなかったのです。

 先生は理科と言っても大学では、生物を専攻なさったから、生き物の分野に強い方で、だからこそ、化学ほかより、生物の実験には力をお入れになり、予算も充分あって、蛙ぐらいお買いになったのではないかしら。『なあんだ。そんなことだったのか、アンナに苦労をする必要は無かったのだ』と思って、ものすごくがっかりしました。一応先生に蛙を差し上げましたが、私の取ってきたサイズのものは胴体が、大体5センチから7センチまででした。『それはどうも小さすぎる』と、先生はお考えになったらしくて、私の蛙は、実際には使われませんでした。

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 先生は私たちの班に胴体が10センチ以上の殿様蛙を渡して、「これを使うように」と仰いました。それの四肢を、解剖台に打ち付けるのです。キリストの磔刑みたいに。蛙は麻酔が掛かっているのだそうです。この時点で友達は女の子も、男の子さえ、「うわあ、嫌だなあー」と口々に言い始めました。その時に私は、入学以来初めて、友達に、不満を持ちました。それまでは、みんなの事がこちらからは、大好きでした。なのに、昨日来、大変な苦労をしたものですから、蛙の解剖に意義を感じていて、非常に乗り気だったのです。

 誰が、腹を掻っ捌いたか覚えておりませんが、ともかく、腹膜が裂けて、内臓が出てくると、私は、その美しさにうたれ、相当な長時間かけて、それを、丁寧に写生を致しました。友達が、奇妙なものを見るような目で、私を見ていましたが、それは、気にせずに、ミニ・レオナルド・ダビンチになったつもりで、きれいに色鉛筆で色を挿して、仕上げました。ともかく、生きている内臓って、すばらしくきれいです。

 肺は赤くて、胆嚢は緑色、何か脂肪らしいものは、まっ黄色です。肝臓は肉屋に売っている色ではなくて、もっと、きれいだった記憶があります。蛙って、人間とは相当違う特徴を持つ、生き物ですが、脊椎動物ではあるので、内蔵の構成は同じなのです。

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 さて、しかし、ここで、思考はまた、変遷します。これは、私がAOLのメルマガ内ではよく取る方法ですが、このグーブログでは初めてだと思います。が、一度言ったことへ懐疑を持ち込みます。そして恐れ入りますが、またそれをひっくり返します。

 つまり、あれは、サイズが小さい蛙だから、冷静に解剖ができた。だけど、もしサイズが大きいもの、たとえばラット(大きなサイズのねずみ)とか、猫を、業者が持ち込んだらどうでしょう。それを、生きたまま、腹を裂くのです。それは、中学生が、きゃあ、きゃあ、言うのが普通かもしれません。

 でも、最近『豚が居た教室』と言う映画ができたそうです。それはまだ見ていませんので、詳しいことは何もいえませんが、横浜トリエンナーレでも、人間の肉体を、掻っ捌いた作品が、四点ぐらいありました。これの意義ですが、作者が何を狙っているか?

 私自身は洗練をされた、美しいものがすきですよ。だから、先に入った主人が「この部屋には入らないほうが良いよ」と言ったぐらいです。でもね、この根本的な衝動と言うか、なんと言うか、残忍なところも持っている人間と言うものを正面から見るための、暴力の研究であるような気がします。そこから、人間の精神のコントロールも出来るし、それゆえに品性の高さというものも、はっきり身につくことではないでしょうか?

 だから、あの、<腹の裂かれた蛙を、真正面から見据えたあの二時間強>は、私の一生にとって、とても、大切なものだったのです。蛙の肌は透き通っているような、薄い白で、フランスでは、蛙を食べる(ただし、殿様蛙ではなく、食用蛙ですね。それは、ものすごい大きな声でもうもうと鳴く蛙です)というのを納得しました。そして、先ほども言ったように、病気になっていない内臓とは、非常にきれいなものでした。

 ありがとう、蛙さん、そして、あの経験をさせてくださった先生や、田んぼの持ち主。そして、小さな男の子たち、そして、私のお父さん。・・・・・ありがとう。
2008年12月12日、    川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)

 なお、今日はいつもより、12時間ほど早めに更新をしております。もし、あなた様が、日本時間の夕方から夜にかけて、この頁をお開きになる方でしたら、下にどうして、私が大泣きをしたかが書いてありますので、良かったら、それも覗いてやってくださいませ。
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蛙の大騒動ー1

2008-12-12 00:30:55 | Weblog
 親に関する思い出は、こちらの、気分によって、美しいことを思い出したり、つらいことを思い出したりいろいろです。しかし、先週からの流れに沿って、もうひとつ、<これは感謝しなければならない・・・・・だけど、まだ感謝していない。しかも感謝しないうちに、親は死んでしまった>という話があり、それを、昨日から思い出しています。

 これは、五十年前の話で、中学二年のときの解剖用の蛙にまつわる話です。先生が「来週は蛙の解剖だから、必ず蛙を取ってきなさい」と仰いました。私はその時『嫌だなあ。この命令。蛙なんか、自分に取れるかしら』と内心では思いました。女の子だし、小さいときに外遊びをした事が無くて、蛙なんか、手で触ったことすらないのです。ともかく、小学校に入学するまで同い年の友達と遊んだ事が無い人間で、兄弟もいない一人っ子(7歳まで)でしたから、まったく、室内だけで、過した人間です。

 これは、父が一時期満鉄に勤めていて、満鉄の社宅には小さい子が居なかったということと、危険だったり寒かったりして、室内だけで過したことと、引き上げてからは親戚の家に逗留していて、そこにも小さい子はおらず、その後は、ご近所がほとんどいない場所(となりのトトロの家みたいなところ)に住んでいたからです。

 この蛙の解剖の頃は既に、家が一杯ある日吉に越していました。で、駅傍の金物屋で、竹の棒付きの網を買ってきました。学校から帰って、先ず、おやつを食べて、制服を脱ぎ、<同じ日吉に一人だけいる学友が、別のクラスなので、彼女を誘えないので、それも嫌だなあ>と思いながら、でも、超がつくほど、真面目なので、ともかく、田んぼに向かいました。

 横浜の五十年前と言うのは、丘の上は、住宅街に既になっていましたが、低地は田んぼだったのです。季節は五月の末。田んぼは田植え前で、あぜ道をきれいに塗り終わったところで、それが、まだ、固まっていないときでした。でも、田んぼの方には、既に水が貼ってありました。

 私は水の中に入ることは、予想もしていなくて、運動靴だったので、あぜ道を歩きました。すると、靴あとがくっきりとつきました。『まずいなあ。ごめんなさい。お百姓さん』と、心の中で思い、辺りを見回しましたが、誰も居ないので、安心して網を田んぼの水の中に突っ込んで引っ掻き回しました。

 蛙は居ました。でも、私には全然取れません。蛙なんか取った事が無いので、コツがわからないのです。三十分ぐらい奮闘して、あぜ道に点々と、靴あとを付けて回っていたら、どこからか、小学校三年生以下だと思う男の子が、三人ぐらい現れて、「何をやっているの?」と聞くので「かくかくしかじか」と申しますと、「僕たちがとってあげるよ」と言います。さすが男の子、しかも三人もいるので、たちまち、十匹ぐらい取れて、私はそれを、持ってきたバケツの中に入れて、さっきの棒付き網で蓋をして、逃げないようにしました。

 ところが、突然田んぼの持ち主が現れて、「何を遣っているんだ」大音声で叱られてしまいました。これは、丘の上に誰か知り合いが居て、電話でも掛けたのだと思います。だって、もう夕方だったから。夕方に農作業をするお百姓さんなんて、日吉には居ません。お百姓さんは、すなわち地主で、大金持ちで、趣味みたいにして田んぼを作っていたので、そんなに、大面積を持っているわけでもなかったのです。<ちょこちょこっと働けば、それで終わり>と言うような日々の作業形態だったでしょう。

 男の子たちは、その声で蜘蛛の子を散らすように逃げてしまい、私は独り、散々叱られました。「蛙の解剖を、しなければならないのです」と言っても、どうも、その人はやった事が無いらしくて、イメージがわかないらしく、ただ、ただ、私を「もう、大人なのに(既に背は高かった)、とんでもないことをする」と怒って、許してくれませんでした。でも、私は、蛙だけは必死でキープしたまま、丘の上にある我が家に逃げ帰りました。

 そして、井戸端にある、小さなコンクリート打ちの土間スペースで、網をはずし、台所用の別の金網でふたをして、その上に重りを置いて、蛙が充分に息が出来るようにしました。母に、「餌をどうしよう」と相談すると、「大丈夫でしょう。一日ぐらいえさを遣らないでも」と言ってくれたので、その晩は安心して寝ました。

 次の朝、早めに起きて、バケツの中から、ふたに釘で穴を開けたミルクの缶に移そうとしたのです。その頃は年がはなれた弟が小さかったので、ミルクの缶はたくさん家にあったのです。

 ところが、その途端、すべての蛙は、ぴょん、ぴょん、ぴょ、ぴょ、ぴょーんと、逃げてしまいました。私は蛙が、万一逃げる場合も予想して、広くてつかまえにくいと思っていた庭の方ではなく、四隅を囲まれた一坪以下の狭い土間においていて、そこなら、捕まえられるだろうと思っていたのに、予想外のすばやい動きで、さっと逃げ出し、エンの下というか、塀と家の間というか、どこかにすべてが、逃げ込んでしまい、一匹も手元には残りませんでした。

 蛙の身になって考えてみると、前日の夕方はショック状態で、身動きが鈍かったのでしょう。が、一日、静かにバケツの中で過してみて、「絶対に逃げてやるぞ」とでも、お互いに相談しておいたのでしょう。一瞬とでも言うようなすばやさで、一匹もいなくなってしまったのです。

 私は「うわーーん」と声を挙げて泣き出しました。だって、どう考えても、一人ではこれだけの数の蛙は捕まえられません。

 実は、前日あれほど、必死になったのは、横浜の中心街に住んでいる友達の家の付近には、田んぼが無いのを(遊びに行った事があるので、既に知っていて)自分がとっていかなければ、誰も解剖が出来ないと、思っていたのです。蛙がいなくては、自分も困るし、友達も先生も困ると思っていたのです。イラン映画の『友達の家はどこ』ではないが、自分も困るし、友達も困ることは二重に悲しいことでした。

 そして、一匹か二匹、捕まえるのだって、これから、やったら、学校に遅れてしまいます。だから、本当に悲しくて、しかも切羽詰ってしまって、声を上げて泣き出したのでした。

 この後は明日お知らせをさせてくださいませ。文章が長くなりすぎます。          2008年12月11日    川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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