銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

母が、弁護士を頼むほど、泣いた日

2008-12-10 23:18:43 | Weblog
 
大変、申し訳ございませんが、今日は昨日より、二時間程度早く更新しております。父に関する昨日の文章が下にあり、それの、続きとしての今日の文章でございます。良かったら、下もご覧をいただきたく。

 母は父に愛されておりました。それほど、強い実行力のある人で、本質的には弱いところのある男性を支える、ある種の意味で、理想の、ゴッドマザーでした。だけど、私が家にいた、25歳ごろまで、そうですね。父が、病気を発症しない前までは、母が明瞭な発言として、それ<すなわち、父を大切だと思っている>を、言ったことはありません。

 父が一時の気迷いとして、愛人みたいな存在が出来たころは、母はじっと耐えてギターの練習だけをしていたのですが、その後、その問題が解決してからは、ちょっと、安心しすぎて君臨するというぐらいに、威張っていたと、私は思います。

 愛するものと愛されるものは、愛するものの方が弱く、愛されるほうが、相手に強く出られると、若い頃に聞いた事がありますが、父が強く出られず、一方の母が、とても、自信のある強い人だったのは、母が父の愛を確信していたからだと、私は当時から知っておりました。だからこそ、気持ちを無視されることもある父が、かわいそうだと思っておりました。
~~~~~~~~

 ところが、私が自分自身のことで、本当に忙しくしているうちに、いつの間にか、父はパーキンソン氏病(治る見込みが当時はなく、必ず数年のうちに死ぬ事が予知されていた難病)にかかっており、そのことをどう自分で昇華するか、相当悩んだらしいのです。その上で、社交ダンスをリハビリとして始め、一週間に、5日ほど、別の会場でダンスのレッスンを受けるようになっておりました。

 例のごとく、お金を倹約する人ですから、そのうちの、4つぐらいは、公民館のもので県とか、市とか、区のクラブに行っていたと思います。一つだけ民間のダンス教室に、母を連れて行っていて、そこでは、「ものすごく仲がいい、おじいちゃんとおばあちゃんのカップルとして、有名だった」と、ずっと後の、ホテルでの大会のときに、母の後輩から聞きました。母はその時の同僚たちに、ずっと大切にされたので、父が亡くなった後も、その同じダンス教室に通っていました。タンゴを父と踊る時に、母がぐっと胸をそらせている写真もあります。

 しかし、そんな、ゴッドマザーたる母が子どものように、ぽろぽろと涙を流して、私の発言に抗議をしたときがあって、その時に、母もまた、父をどれほど、愛していたかを知りました。

 母は何でも丁寧にきちんとする人で、父の介護も完璧でした。そのために、胸全体の骨に、微細なひびがはいっているそうです。もちろん、父の体重が自分の2倍くらいあるので、すべてを自分でこなすのは無理で、介護の制度が整っていなかった25年以上前に、元看護婦だった若い奥さんに、一日に、二時間から、三時間来てもらい、一緒に体を清拭することとか、シーツ交換を遣ることにしておりました。

 で、ある日、銀行の用事か何かで、その人が来ている間に、母は、外出しました。その間に、入浴サービスの会社が来ていたのですが、母が帰宅する前に、その会社は、帰ってしまいました。父の体が重くて、お風呂場などへは運べないので、簡易クレーンみたいなものを利用して、簡易なバスタブへ入れるのです。

 だから、普通なら、とても、時間がかかるものだそうです。それが、いつもより、時間が少なくて終わったみたいで、それも、不思議だったそうですが、その謎は後で解けました。と言うのも、その留守番役、兼介護補助役の奥様が、気の毒そうに、「ご主人様を、ビデオに撮っておりましたよ」と教えてくれたそうです。

 母はびっくりして、すぐ、その入浴サービスの会社へ、電話を掛けました。「何の目的でビデオを撮ったのですか?」と。でも、相手は、「いえ、別にたいした目的はありません」と答えたそうです。しかし、その元看護婦である奥様が、「きっと、勧誘のための、宣伝に使うのでしょう」と、母に教えてくれたそうです。

 それで、母は弁護士にお願いをして、すぐ、そういう利用の仕方をしないで欲しいと、差し止めをしたそうです。それは、母、独りで、子どもにも相談もしないで決断をし、行動したことのようでした。

 後日遊びに行った私が、顛末を聞かされて「ええ、そんなことで、弁護士さんまで頼んだの?」とちょっと驚いた顔をしたら、母は、突然、涙をぽろぽろ流して、「だって、こどものようになっている人を、守るのは、当然でしょう」と、私に強く抗議をしました。その時に、母が、純粋な愛情、いわゆるアガペー(神の無償の愛と言うもの)に近いレベルで、父を愛していることを、私は知りました。

 「お父さんの裸を他人に見せるのが、それほど、嫌なの?」ともう一度聞くと、「そんな、ことは当たり前でしょう」と、またも、涙を流しながら、抗議しました。

 私は、床ずれ、一つ無い形で介護していて、決して、やみ衰えているという体でもなく、未だに、鍛えぬいた筋肉の残っている父が

 (もちろん、股間などを、映しているはずは無いので、・・・・・・それほど、あくどい事をしたら、誰もその会社へ、入浴サービスを頼まないでしょうから)

 変な形ですが、モデルとして選ばれたことは・・・・・一種の・・・・・母自身の誇りとしても良いのではないか・・・・・、と言うぐらいに、簡単に考えていたのですが、母の心情はまったく違っていて、口の利けない父の名誉を守りたいと、切に願っているのでした。父のことを、大切に大切に、扱(思)っているのでした。

 もう、働けない、お金も儲けてくれない、一種の無用の人となった父なのに、大切に、大切に扱っている母でした。

 あの母の涙を見たことも、今、私がどんなに、忙しくても、また、どんなに疲れていても、毎週一回は老人ホームへ母を訪ねる気力を、生んでくれています。あの母の涙は、それこそ、わが家版『我が母の、教えたまいし唄』です。

 2008年12月10日、             雨宮舜(川崎 千恵子)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする