最初に挙げた写真の説明をさせていただきたい。私は、東大勤務時代の写真をスキャンしていると思うのだけれど、パソコンが、18台ぐらい壊されているので、今は、見当たらない。で、ここでは、その二年前の、大学時代の写真を置きたい。教授は湊宏先生ではなくて、欧陽可亮先生だ。写真を撮って居る学生と、全部で、四人だけが、中国語を、学んでいる。教授は王義之の子孫だと、聞いている。お嬢様の肌のろうたけている事、それを見ると、その先祖の話も本当だと、思う。
この章では、東大時代にも私が4歳年上の、美形の青年に、こちらがそちら様に、惚れていると、そちら様から誤解を受けた話を初出として書いている。とても、恥ずかしい話として、それを語っている。別に誇って、それを言っているわけでは無くて、館野弘雄君が脳梗塞を患っていると、聞いたので、初出として、それも上げている。彼への慰め用の、プレゼントとして、それを上げて置く。
前歯に、金冠をはめていることがこの写真でもちらっと見えている。ただ、恥多いお話を二つも上げているが、私には、最上級の男性を相手のお見合いも持ち込まれており、それほどに、低レベルの女の子でもなかったとは、思うけれど。下はお見合い用スナップだ。小顔なことは確かであり、八頭身を誇っていたと、は、思うが。
ところで、ここで、二つの恥多い話をしているからこそ、下の、無事に結婚式に至った写真を披露したい。私達夫婦は同い年であり、主人が大学を転学、転科しているので、収入的にも社会人としても、準備が整って居なくて、こぎつけるまでが、大変だった。
普段、お化粧を全くしない人間が、私なので、お化粧をすると、きれいに見えると、出席者が、スピーチで、口々に言ってくれた。それと、この写真はアルバムからはがさず、スマホで、再録をしているので、主人が斜めになってしまっているし、主人の顔が、普段通りの美形には、写って居ない。きっと緊張をしているのだろう。当時の、彼の実物は、とても、さわやかな美少年だった。
初恋の人と結婚をして、万々歳の筈だったが、結婚生活と言うのは、絵にかいた餅ではない。お若い方には、「数十年間は、我慢が必要ですよ」と、は、お伝えしておきたい。だが、もうひとつ、「生きていくためには、必要な手段です」とも、言っておきたい。
************と、言う挿入を冒頭に入れて、この章の、本文に入って行こう。
これは、前報、と前々報の続きです。思いがけない知らせ・・・・・友人が脳梗塞で倒れて、施設に入って居る・・・・・という情報を聞いて、たじろぎ、そして感慨が深かったという話です。ひろおちゃんと言う同級生は、たった、三人だけが所属しているゼミで一緒で、そして、皇后美智子さまと、同一のソサイエティに所属していると聞いていたので、テニスなど、上得意で、健康的には満点の、男性だと、思い込んでいました。
副題1、『施設に入って居るという言葉が驚きで・・・・・きっと、高級な老人ホームを指すのだろうが、昔、NTT所属の104番担当の女性が母の老人ホームの電話番号を問い合わせている私に対して、何度も、「施設ですね」と、オウム返しに答えたので、非常に嫌な気分になった事を思い出した。可哀想にひろおちゃんは、と、思う』
脳梗塞を患った人が入る施設とは、どういう物かと思います。75歳以上だから、老人ホームだと思うのですが、それでも、上の二重ガッコ内で書いた昔の、エピソードの、嫌な気分を思い出し施設に入って居るというのが、気の毒でならないのです。母はずいぶんいい老人ホームに入って居て、しかも三人の子供が分担して、毎日誰かが見舞いに来る状況だったので、大変丁寧な扱いを受けていたと、思います。そして、前夜11時まで、私が居た次の朝、大往生という診断で、ほぼ、何も苦しまず、あおむけに寝たまま、事切れて居たそうです。後、一週間で、93歳を迎えるという時期でした。
ただね。本当の事を言うと、母は、その三か月前から、自分の意志で、ものを食べなくなっていました。匙で、与えようとするなどの、他人からの介助も拒否して居ました。で、家族(=こども)は、本人に問い合わせをせずに、延命措置をおこなわないという決断をしました。で、胃ろう、及び点滴による栄養補給は行わなかったのですが、それでも、三か月延命し、一種のミイラ状になり、やせ細るという形で、亡くなったのです。意志は、普通でしたよ。話と言うか、会話は成立していました。だから、自然に任せて居ても、人間が一人死ぬと言うプロセスは、大変なものです。しかし、飼い猫の老後(垂れ流しになって半年後だったか?な)と、その死を、すでに見て居た、私は、・・・・・猫よりも体重が多い人間が、死に至るまで、どれほどに大変になるか・・・・・は、悟っていたのです。
施設に入ったと聞いた、ひろおちゃんのその施設が、老人ホームであると仮定して、老人ホームがどういう場所かを語ります。母は、上に言った通り、そんなにいい環境で世話をして貰っているのに、家に帰りたがっていました。老人ホームと自分の家の違いは、モノが置けるかどうかです。家なら手芸の道具、お琴、ギター、そして、パソコン(株の情報を見るために、80過ぎにパソコンの使い方を覚えた)と、母が、長年携わってきた、趣味の道具があります。で、私自身は、母の思いを、聞いているので、老人ホームに入るという設計図は持っておりません。孤独死でも、ごみ屋敷になってもいいから、自分の家で最後まで、頑張りたいと、おもっております。このご近所でも、病院で最期を迎えましたと、言う人は多いですが、老人ホームで最期を迎えましたと言う人は、私が知る限り、ひとりだけです。
老人ホームの場合ですが、見舞いが多い方が大切にされると思います。母は毎日誰かが見舞いに来ているし、他者へ、奉仕の気持ちが大きかったので、老人ホームでも毎夜、他の人たちの洗濯ものをたたんでいましたので、大切にしてもらえました。ひろおちゃんの、心配をするよりも自分の心配をするべきですが、一つだけ気がかりだったのは、奥様が、軽井沢に転居したという話でした。
老人ホームが、どこにあるかがわかりませんが、もし東京近辺にあるのだったら、奥様は、軽井沢に居るわけなので、あまり、頻繁には見まいにいけません。そうなると、施設のスタッフが、ひろおちゃんを大切にしてくれるかどうかが、心配になります。また、軽井沢にある施設に入って居るのなら、お嬢さん方が見舞いに行けません。。
さて、今度は、そのお話をしてくれたフジ子さんへ、入って行きましょう。例の二つの疑問、その知らせは、天使のお知らせだったのか、悪魔からのお知らせだったのかを検討する為です。
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副題2、『私は着席後、たった15分ぐらいで、立つように迫られたのだけれど、それでも、誰が、出席をしているかは判別がついた。ただ、一人だけ、『誰だったかなあ?』と、言う人物がいた。それが、分からなくて、隣の人に聞くと、「フジ子さんよ」と答える。『フジ子さんって誰だったかなあ?』と、疑問の面持ちで居ると、その友達が、「ほら、AFSでアメリカに行った人よ」と答えてくれた。AFSを体験した人は、一学年下がって、あらためて、日本の高校の勉強をする。だから、私は、短い期間しか、同じ学年として過ごしていないし、その上、彼女と同じクラスになったことがないので、まったく疎遠な間柄だった。だから、顔が、判らなかったのだ。ただし、AFSと聞いた、その途端、昔の姿を思い出した。そして、圧倒的に、女っぷり、または、人間っぷりが、上がって居るので、それには驚いた。
彼女は以前と比べると、二倍ぐらい体重が増えているのではないかと思う程、ふっくらとしていて、他の人が七頭身か、八頭身である中で、只一人、六頭身ぐらいに見えた。でも、白いお洋服、白い肌。白い髪の全体が、不思議な調和を見せて、まるで、雪だるまみたいにかわいかった。そして、もっとはっきり言うと、絵本の中に出て来る優しいおばあちゃんと言う感じだった。
彼女はもしかしたら、英語を教えたりしているのかな? お化粧っ気のない、白いお顔に、銀縁の満丸い眼鏡をかけて居た。それも、全体の丸っこさと、調和して居て、或る種の独特の美しさを醸し出していた。テレビや映画では見たことのない顔。でも、童話とか、絵本の中には出て来る美しくて優しいおばあちゃん。
ここで、二日目に加筆をする。敢えて、有名人の中で、似ている人を探してみると、童話作家【魔女の宅急便】の角野栄子さんと似ている。でも、私が、横須賀線新橋駅で、出会った角野さんは、『ああ、やはり、マスコミに出ている人は、こういう顔なのか? 童話作家でも』と、思う程、キツイ表情の人であった。しかし、この5月28日の、フジ子さんは、角野栄子さんより、二回りぐらいふっくらして居て、本当に、優しい顔をしていた。
私は、フェロモン的に言うと、女っぽい人らしいのだけれど、考え方の上では、まったく女っぽくは無くて、嫉妬心という物を持たないのだ。そして美しいものが大好きだ。で、ぼんやりとフジ子さんに見惚れていたので、彼女がそれに気が付いて、彼女の方から、話しかけて来たのだったろうか?
それとも好奇心いっぱいで、自由自在な、私が、『こういう幸せそうなお顔は、どういう生活から生み出されるのか?』と思い、それが、不思議で、こちらから、話しかけたのか?
それが、どっちだったかが、木曜日辺りになってしまったら、どうしても思い出せないのだ。
だけど、それがどちらかだったかが、この館野弘雄氏の脳梗塞・罹患のニュースが、悪魔の知らせだったのか、天使の知らせだったのかを分ける重要なポイントなので、私は、実は、今、困り切っているのだった。
ただ、傍証的に考えていくと、彼女はこの学年のクラス会には、ほとんど出席せず、上の学年の、クラス会に出席する人だから、その日に、急にというか、珍しく、出席していたのは、やはり、私に、ひろおちゃんの、罹病を知らせ、私を、暗示的に、責める役目を担って、この会に、出席をしたと、推察もされるのだった。という事は、80%は、悪魔からのお知らせとなる。
ただ、フジ子さんの表情の中には悪意という物とか、・き・つ・さ・という物は見られなかった。本当に透明でさわやかだったので、彼女が、敵からの使者だったのか、それとも、ひろおちゃんの罹患を知らせ、『これから、彼について書くときは、それをわきまえて、書いてね』と、教える天使だったのか? 本当は、どちらだったか? それが、今もって、判らない。
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副題3、『全体で、三分間程度の短い会話だったが、話したのは、もっぱら彼女の方だった。で、任務をもって、出席をしたとも考えられるのだけれど、彼女の言葉を逐一たどると、以下の様に成る』
「私はね。お茶大の付属高校を卒業した後でICUへ行ったのよ」と、言う。まったく知らなかった。私が浪人をしたせいでもあるが、あの小さな学校で、一学年上に、フジ子さんがいたなんて、覚えがなかった。大学時代のフジ子さんは、結構目立たない感じで、暮らしていたと、推察された。塩見和子さんなど、圧倒的に目立っていたのだけれど、フジ子さんは目立たない感じで生きていたのだろう。
しかし、一学年上だと、聞くと、・・・・・豊田淑子さんと言う女性と、彼女が親しいかどうか?・・・・・を聞きたくなった。豊田嬢は、ICUでは、ジャズクラブのキーボード奏者だったので、舞台姿は覚えているが、それ以上に、懐かしいと思うのは、私とは中学時代の同級生だからなのだ。中学時代には、同級生の女の子は、15人しかいなかったので、特に懐かしい。淑子さんに関しては・・・・・若い日に、マレーシアに行き、日本語教師として一生を終え、そちらで亡くなっている・・・・・と、聞いている。しかし、結婚をされたのか? お子さんがあったのか? そういう事を私は知りたい。と言うのも、淑子さんの家は、1950年代は、本牧の丘の上に在り、お招きを受けて、私は、そこを、訪問をしている。母君は、当時は、最先端の、輸入花であったジャーマンアイリスを育てておられた。今、私もそれを育てているので、あのお庭が懐かしいのだ。母上は、無論、亡くなっているだろうが、兄上が、あの家を継いでいるのだろうか。兄上も亡くなっているとすると、兄上のお子さんが、淑子さんの、状況を知って居るかなあ?
で、私がすでに、知っている事以上の情報を持っている人が居たら、それを聞きたかった。で、フジ子さんに「あなたは、ICUで、どういう人達と付き合ったの?」と質問をすると、「館野君よ」と、彼女は答える。「ほら、奥さんもICUでしょう。だから、彼とは、今でも、よく行き来しているの」と、答える。私は怪訝な面持ちに成る。ひろおちゃんの、奥さんは、ICU卒ではなかったから。すると、フジ子さんは、私の疑問をすぐさま察知して、「ほら、お兄さんの方よ」と、答える。
で、納得をする。兄弟は、顔が似て居なかった。そして、『きっと、性格も違う』と、思う。ひろおちゃんの方が複雑で、幅が広い性格だろう。お兄さんの方とは、一度も会話を交わした事が、無いが、私に言わせると、『ひろおちゃんよりは、単純な人だろう』と、なる。
私は瞬時に、10年ぐらい前に、館野弘雄君と交わした、お嬢さんについての話を思い出した。お嬢さんが、キティちゃんを好きだと、言う話だ。60歳近くなって、クラス会で、隣り合わせの席になった時に語っていた。「いい大人が、あんなものをすきなんですよ。驚きますね」と言っていた。これは、その10年後の今になってみると、まったくおかしくはない。アメリカのセレブとか、女優でさえ、キティちゃんが大好きなのだ。
しかし私は、それを聞きながら、『もしかしたら、お嬢さんはまだ結婚をしていないのだろう』と感じた。しかし、それを質問をするのは、避けた。むかし、ひどい屈辱を与えられているからこそ、何かを語って、それが、復讐の臭いを放つことを避けたいと思っていた。
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副題4、『ここでも、何度目かのこととして、オネーギンからのアリア【青春は、遠く過ぎ去り】に戻って行きたい』
ああしかし、似た様な話は、職場でも起きているので、私は、どうも、非自覚的に、常に、フェロモンを発揮しているみたいだ。職場の方の、思い出も、非常にドラマチックで、掌編小説が書けるほどだ。ちょっと触れよう。
数歳年上の、上司に、家柄も、超ハイで、かつ、能力も高い東大の、助手様がいらした。教授は、そのひとを、後継者にしたいと、思っていらした。何人かいるポスドクの中で、そのひとを抜きんでて、重く用い、ちょっと、早めに、そのひとを、出世させたいと、思っておられた。その後で、院政を敷く為に、お嫁さんを世話したいと、思っておられた。普通だと、お見合い写真を渡して、お見合いをするという形になるが、教授は、もし、それで、不成功だった場合を恐れて、その若いお嬢さんを東大の、臨時職員として採用なさった。大変な美女で、助手さんの方も美形だから、お似合いのカップルだと、思われた。
ここで、そのお嬢さんの為に、かばって、言えば、・・・・・彼女は結局は別の人で、同じく美形の青年と結婚をした・・・・・と、種明かしを先にしておこう。でないと、彼女がかわいそうなので・・・・・
そういう状況下にあることは、すべての人が知って居て、二年が過ぎた。昼休みには、お嬢さんの方が、助手様の、研究室を訪問して、なにかのおてつだいをしながら、きゃ、きゃっと、笑い声をあげて居た。
しかし、私が、勤務をし始めて、二年強の事だったが、突然に、その助手様が、結婚を発表をした。その時には、みんながびっくりをしたと、思う。そして、私達、若い人は、本番の、結婚式にも披露宴にも招かれなかった。でも、私たち、若手は、ご自宅で、2週間後ぐらいに開かれた、うちうちの披露宴には招かれた。
人気のある住宅街の、駅から、10分以内の場所に、広いお庭の有る、大正時代に建てられたと、思しき、平屋建てが展開しているお屋敷だった。その離れ風の和室で、箱膳が運ばれてくるという形での、披露宴であり、お嫁さんは、洋服だったと、思う。そう勢、7人ぐらいのお客であり、出席者は、みんな例のお若いお嬢さんの、心中を察して、やや、緊張気味だったと、思う。
私は、この電光石火にして、驚天動地の結婚で、助手様が選んだ女性とは、どういう人なんだろうと、興味津々で、観察していた。すると、お嫁さんは、中肉中背で、メガネをかけており、お化粧っ気もない人だった。だけど、学問の世界の人ではなくて、親が、学者なのであり、ご本人は、専業主婦で、これから、やって行くというつもりのご結婚らしかった。
お嫁さんが最初に出席者に紹介をされたが、ほとんど名前ぐらいのご紹介だった。その後で、出席者を、年長から順番にお嫁さんに向かって、名前とか仕事内容について、助手様が、紹介をした。
その頃の私はまだ、結婚前であって、旧姓、いそべ(礒部)で」通って居た。助手様が、私について説明を始めると、奥様が突然、「あら、あなたが・・・いそべ・・・さんなの。ああ、よかった。あなたで」と、言った。誠実そうで、落ち着いた感じの女性だったが、その時だけは、素っ頓狂な声をあげたと言ってよかった。
私は、その瞬間に、顔から火の出る様な、恥ずかしさを味わった。『ああ、是って、例のソーピーと、館野君が、演じたプソイド恋愛の、繰り返しだわ』と、思い到って。この時の出席者の中で、この奥様の発言の意味が分かった人が居たかどうかを、私は知らない。その上、その頃の私は、全然にさばけていなかった。単なる、うぶな人だったので、奥様のその台詞に対して、瞬時に、「あら、いやだ。奥様、それって、大いなる失言、ざーますわよ」なんていう種類の、切り返しが出きる筈もなかった。
ただ、ただ、下を向いてもじもじしているだけだった。
この時の出席者で、奥様の言葉の意味が分かった人が居たかどうかを知らない。しかし、主人公のお婿さん(助手様)と、私には、意味がきちんと分かった。それを、読者様に教えよう。どうしてそうするかと言うと、館野弘雄君が脳梗塞を患って、施設に入って居ると聞いたからだ。彼へのプレゼントとして、これを語る。
つまり、このエピソードの裏側の真相は、助手様は、私が助手様に、惚れていると、感じていて、私から去るためと、教授が持ち込んでいる、院政を敷く為の美形のお嬢様との結婚の、二つから逃れるために、急いで、まったく別の世界の人を選んで、結婚を決めたのだった。その困ったちゃん二人の事を、奥様に、事前に語っておられたので、奥様は、その二人の若い女性に対して、興味津々で、待っておられたのだった。
そして、助手様が、より、厄介に思っておられたのが、私の方だったと、推察された。それは、例のきゃ、きゃっと、はしゃぐ、美形のお嬢様より私の方が年上で、先に紹介をされたので、判った事だった。助手様が、心配していた相手とは、例の美形のお嬢様の方では、なかったのだ。で、奥様は・・・・いそべ・・・・という名前を聞いたとたんに、『あら、この人なら、自分は、まけないわ。全然、大丈夫』と安心をなさったのだった。それが、「ああ、よかった」という発言に繋がって居た。
もし、美形のお嬢様の方に、助手様が困っていらしたのだったら、先に紹介をされた、いそべという女を見ても、聞いても、奥様はさらっと、見逃して、つぎにしょうかいされる、若くて美形の、女性の方に、意識を集中されて、居たと思う。そしてそちらの女性の美形っぷりには驚いて、・・・・・そのひとには、容貌においては、自分の方は、負けるからと、自覚をされるであろうからこそ、何もおっしゃらなかった・・・・・と、思われる。しかし、助手様は、私の方に、より重点を置き「彼女には、惚れられちゃってねえ。とても困っているのだ。だが、彼女は人柄は、いい」し、「頭もいい。だけど、奥さん業には向かない」とも、伝えておられたので、奥様は、私の、「人柄がよい」という評価の部分に安心して、私に対する警戒心が、まるでなかったのだった。
その日、未婚の二人の女性は、それぞれに、針の筵に座っていた。教授が、選んだお嬢さんと、実際のお嫁さんの違いがどこにあるかと言うと、卒業大学が違うのだろうと、私には、推察された。お嫁さんは、東京女子大か、津田塾の出身だと、思われた。東大勤務の、お嬢さんの方は、短大卒だったのだ。兄弟姉妹が多いご家庭の、しかも、下の方だから、いい大学に行くという気概がなかったと、思われる。これが、長女とか、長男だと、親が帝大卒なら、子供も偏差値の高い大学に進まないといけないという気分になるが、三番目のお嬢さんとか、四番目のお嬢さんとなると、親の方も、自分も、「いいよ、どこでも、好きなところで」と、言う感じに成るだろう。彼女は、この日、とてもつらかったと、思う。だけど、あっという間に、別の美形の青年と結婚をした。たくましい。記憶をたどれば、彼女は、七人兄弟の、末っ子だった。なるほど、私とは、違う。7つになるまで、ほぼ、一人っ子として育った私にはたくましさが、無かった。
ともかく、このケースでも、誤解が、50%以上はあると思う。東大内部で、私は常に助手様とは、別の部屋に居て、しかも、その助手様とは、まったく違う仕事をしていた。だから、接触がない。どうして・・惚れている・・と誤解を受けたのだろうと、思うが、ソーピー・館野弘雄・連合軍に辱めを受けて以来、二度目の事だったので、この時は、理由は深くは、詮索しないで、水に流して置いた。一度目の館野君の場合も、二度目の東大での経験でも、こちらとしては、「いわゆる告白なんかしたことがない」のに、そういう風に相手に思われているのだった。恥ずかしい。
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副題5、『国画会での思い出-その1・・・・・女性の、顔の、小さな・生まれながらの障害、そして、心配と、安心』
この、こちらは、告白なんか、していないのに、相手が『彼女は、自分に惚れている』と、感じ取ったり、奥様の方が、『あの人は、私の主人に惚れている』と、誤解をするケースが、その後、40を過ぎてから、国画会を舞台として、何度も、起きるようになる。
私は国画会では、不当にいじめられていると感じたし・・・・・(それが、今では、嶋田章三の真実とか、北久里浜の、大詐欺事件という大政治的案件に結びついて行くので、思い過ごしではないのだけれど)、・・・・・・1990年代には、今ほどの、深い真実には気がついて居なかったので・・・・・どうして、そういう風になるのかの、真実を知りたかった。ので、いろいろな人に電話をかけて、情報を探って居た。その中で、そういう、フェロモン系の誤解をする、男の会員がいたり、会員が男で、その奥様が誤解をしたりするケースもあったが、まったく誤解の起こりえない冷静で、静謐なご家庭もあって、その時電話を掛けた相手が、持つ、人間性の、高さとか、低くさとか、を、そのポイントからも学ぶことが多かった。人を見る目を養うのに、大きく役に立った。
私は、国画会の、洋画部に、1991年から、入選をし始め、2002年まで、出品をしたと、覚えている。1998年からは、版画部にも入選した。で、そこへの出品を、停止した後で、本を作り始めた。その本を、自分が人生で知り合った、人で、人柄がよくて、知的だと、思われる相手に、郵便で、送って居た。または、画廊で渡していた。ところが、編集中から、ハッキングによって、大変な妨害を受ける様に成る。本の内容は、心理学や、哲学、芸術の分野に限っているので、妨害を受けるはずもないのに、妨害を受ける。したがって、今の様な文章を書き始める。
だから、伊藤玄二郎を中心とする鎌倉エージェントと言うのは、ある意味で、自分で、自分の首を絞めていると、思うのだけれど、トカゲの脳味噌の持ち主なので、まったく反省をしないし、方針転換をしてこない。
で、何冊目かの時点で、妨害行為の一つとして、郵便が相手に届かないと、言う事を感じたので、自分で、配って歩くことにした。準備段階のハッキング中に、・・・・内容が面白過ぎて、高度だ・・・・と、鎌倉エージェントの、連中が感じ取ったので、郵便が相手に届かないという形での、妨害を受け始めたのだった。それで、配って歩く際に、切符代とか、交通費の節約を、したくて、ある路線のある駅を選ぶと、そこの町に住んで居る小・中・高校・大学・時代の友達も、ピックアップするが、と、同時に、絵の世界での、知り合いもピックアップをして、地図上に、印をつけて、訪問をして渡して歩いた。そういう時期がある。
そんな時節の、ある日、大学時代の友達の家に続いて、同じ最寄り駅を利用する国画会の会員のお宅を訪問をした。その時の話をしたい。電話を掛けたことがあって、非常に声のきれいな奥様だった。その奥様が、私に、警戒心を持っておられるのを、私は、以前から、感じていた。私も声がいいので、それで、嫌われていると感じていた。同類を人は嫌うのだった。しかし、実際に訪問をして、或ることを発見して、ひどく驚き、それ以来、奥様を許す方向へ移行をした。実は、奥様には、お顔に生まれながらの障害があった。しかし、結婚・相手として、素晴らしい画家(紳士でもあるし、収入も高い人)と結婚をされて居たので、頭が良い方だと、思われた。でも、夫を信頼しつつも、ひそかに、心配し続けておられたのだった。夫を奪う別の女性が出てくることを。それは、奥様の、ご自分の身体的障害からくる、劣等感が生み出した、被害妄想だっただろうが、そうなるのも自然な事だろうと、感じ入った。
で、私の方は、次の本を、そこへもって行くことは、やめにした。余計な、心配を与えないためだった。反対に、その時の、奥様の方の、表情なのだが、これが、東大勤務時代の、あの、助手様の、お嫁さんと、全く同じだったのだ。実際の私をご覧になった奥様の、表情には、「安心したわ」とか、「この人なら、私の夫が、よろめくはずもない」と、書いてあった。(大笑)
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副題6、『国画会での、思いでーその2・・・・私は国画会内部では、出世できなかったので、一般出品者の作品の合否を決定する審査会場には、出席出来ない。しかし、ある時に、どうしても、1993年度の審査風景を、調査し、確認する必要が出てきた。それで、ある男性会員に電話を掛けたのだ。けれど・・・・・そこで、驚くべき反応に出会って、そこから、NHKを利用した大いなる政治的謀略が生まれてくるのだけれど・・・・・』
この、・・・・・私が、相手に惚れていると、誤解を受ける話の中で、最も劇的であって、私が憤慨したケースがあり、それを、これから、語りたい。或る日、国画会の会員、W氏に電話を掛けた。それは、1993年か、1994年の、国画会の審査風景を、教えてもらいたかったからだ。私の方は、その時点(=2008年から、2014年間でのどこかの時点でのこと)では、国画会への出品を、停止している。したがって、相手にはこたえる義務はない。
でも、私の方に、絶対に真実を知りたい事案があった。それは、・・・・・NKさんと言う天才肌の女流画家の作品を、・・・・・国画会が、1993年か、1994年に落選にさせたのは、どういう経緯だったのか?・・・・・という案件だった。
すると、その時の相手は、「あんなの駄目だよ。だって、新聞沙汰にさえ、成ったのだぜ」と答えた。私は、びっくりした。その新聞報道については、何も知らなかったから。
私は、文化庁の在外研修生で、パリへ行くことができることが分かって以来、まったく新聞を読んでいなかった。それで新聞沙汰になったという件が何を指すかがわからなかった。
このNKさんは、普段は、女流展に出品をしていた。会員だったと、思う。しかし、後から知るのだが、薬科大学を卒業して、画壇に入ってきた人なので、いわゆる学閥(ムサビとか、多摩美とか、芸大とか、女子美と言う種類のもの)を持っていなかった。しかし、草間彌生と、一緒に五人展を都美館で、大規模な形で開くというほどの、特別な才能も持っていて、それなりに有名美術評論家から認められていたので、私は、自分が女流展に出品しながら、顔も見たことのないNKさんの作品には、注目をしていた。
一方NKさんの方も、私のうわさを聞いていて・・・・・(というのも、私は、地味にふるまっているつもりなのだけれど、どうしてか、とても目立つところがあるらしいので、女性たちの間でも、すぐ、注目の的となってしまうのだった。また、絵にも力があったと、思う)・・・・・私には、注目をしていたのだと、思う。で、1990年に、私が女流展に初入選をして、すぐ次の年に、国画会運営の、国展に入選をした事にも気が付いてくれたのだと、推察している。・・・・・女流展より国展の方が上だ・・・・・と、一般的には、評価をされていて、NKさんは、自分が女流展内部での、生きざまに行き詰っていたので、国画会に、活路を見出そうと、考えたのだと、推察している。私の様な、誰も他の人の引きがない一匹狼が、さっささっさと、自由自在な選択をして生きていくのも、『いい方法だわ』と、彼女は考えたのだと、思う。彼女が、その頃、自分の、いきざまに、行き詰っていたというのは、女流展と言う、おんなの世界での、足の引っ張り合いなども、見聞きして、それを、嫌がっていた可能性もある。・・・・・其れと、これは、後から、上條陽子さんに、あれこれを聞いて、知るのだが、離婚をしたそうで、それで、行き詰って来た面もあると、推察している。・・・・・そういうわけで、私は、顔を見たこともないし、話しをした事もないNKさんと、ひそかな心の交流を持っていた。
ところが、そのNKさんが、画壇から姿を消してしまった。それで、その事に気が付いてから、数年が経ってから、私は、上條陽子さんに、NKさんの現在を電話で質問をしてみた。すると、上條陽子さんは、「あのひとは、ハイジンになったのよ」と教えてくれた。私は、1985年ごろから、1997年まで、鎌倉で俳句会に所属していたので、ハイジンという電話内での、音声に対して、「俳人」を当てはめた。その上で、上條さんに、「へえ、俳句の世界に行ったの?」と、応じた。すると、上條さんが、「違うわよ。入院したのよ、精神病院へ」と、教えてくれた。ものすごく驚いた。
その理由なのだけれど、私はひそかに、・・・・・1992年の初入選に引き続いて、1993年にもNKさんが一般出品者として、国展に応募して居て、落選をしたのがメインの理由だろうと、推察した。
後から、離婚をしたと、聞いてそれが、納得されるのだが、NKさんが、国展1993年度に応募した作品は、材料費が、掛かって居ない、しかも、小さめの作品だった。それは、国展で、落選をした同じものを、次の周期で、行われる女流展に出し、そちらでは、審査がないので、合格して、上野の都美館で、展示をされるので、私は実物を見たから、知っているのだけれど、材料費としては、総計2000円程度でできるものだった。NKさんは、離婚をした結果、金銭的に不自由になり、そういう作品を作って出したのだった。ベニヤ製のパネルで、100cmX80cmぐらいのものに、週刊誌を一頁ずつに剥がしたものを、びっしりと貼って居た。
しかし、これは、別の面から見れば、許されるものだったのだ。いわゆるコンセプチュアルアートという意味で、許されるのだった。草間彌生について、読者の皆様は、明るいポップ調のかぼちゃを、思い浮かべられるだろうが、草間の、1998年までの、全作品・全資料を、アメリカの美大pratt institute の大学院で、研究をした事のある、私は、今の草間は、商業主義にのめり込んでいて、専属画廊の、意のままであろうし、それをまた、楽しんでいるので、前衛芸術家としては、化けの皮がはがれたとも思っている。『まあ、としだから、それも仕方がないですね。老人は、円満になり、角が取れるものだから』と、思っているが、NKさんの方は、前衛芸術家として真っ盛りの時に、突然画壇から、消えてしまったので、研究することが好きな私にとっては、絶対に真相を知りたい研究対象となったのだった。
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副題7、『国画会の思い出ーその3・・・・・さて、私は国画会と縁を切って既に、10年は過ぎていたので、相手から、そちら様の、・・・・・付き合い上の、義務感を感じるであろう、それを利用して教えてもらう事は、出来ない・・・・・と感じている。
で、誰に質問するかは、難しい問題だった。私は、その時点で、国画会内部に、50人を超える知己を既に、持っていたが、これは、東京の審査会場に出席した人でないと、教えられない情報だったし。頭がいい人だとは、知っている山口千里さんは、まだ、準会員だったし。地方に住んで居る人だと、どんなに人格が高潔でも、審査には、来ないケースが多いので、質問ができない。それと、高齢を理由に審査会場に来ない人もいて、そういう人にも質問ができない。
その上、私の事を熟知して居る人にも聞きにくい問題だった。私が何の為に、それを知りたがっているかを、微妙に察知してしまうと、思う。で、教えてくれないに決まっている。それで、私としては、相手を『あまり好きではないが、正直な人だなあ』と、思っている男性を選んだ。年上の人だった。
その人が、正直で、純真な人だと、言う判断は当たっているらしい。私は彼の、「駄目だよ。あいつ(=NK女史)なんか、新聞沙汰になったんだぜ」という答えに怒って、別の女性会員で、非常に親切で、人格も高い人に、愚痴を言ったら、「あら、でも、あの人って、国画会切っての、純真な人なのですけれどね」と言う答えだった。ので、私が、その男性を選んで、質問をしたのは、当たっては、居たのだった。私はできるだけ善人と付き合いたいとは、思っているし。
どうして彼を選んだかと言うと、一番最初の彼からの質問が、1991年の二次会という宴席における「どうして、ビールをつがないの?」だったから。「私は、非自覚的ながら、フェロモン横溢の人だ」と、この章では自分の事を、語っている。が、私の、もっとも、大きな特徴とは、・・・・常にものを考えている・・・・という事だ。それで、一種の白昼夢の人だと、見えるらしい。それは、そういう傾向を持たない人には、奇妙に感じられて、結果、単なる、なまけものだ、見做される。または、まったくのバカだと、思われる。それが館野君に、拒否されたり、東大での、助手様に、奥さんにするにはふさわしくないと、思われる理由のひとつだったと、思う。奥様に向いている女性とは、常に、旦那様に注目をして居て、そのひとのために、精一杯の、奉仕をする人が好ましいからだ。白昼夢にふけっている様に外部から見える私は、ホテルマンとか、旅館の女将とかとは、正反対の、性格と行動の、人間なのだ。
その上、私の身近には、お酒を好む人が居なかった。父も飲まないし、夫も飲まないし、唯一の勤務先であった東大では、「帰りに、いっぱいやって帰りましょう」と言う様な文化が無かった。だから、その二次会で、その会員に、「どうしてビールを注がないの、他の人に?」と、言われたときは、鳩が豆鉄砲を食った様に、ただ、ただ驚いた。
その時点(夜の八時頃)までに、午前中から、8時間ぐらい、上野で、初めて・・・・観客ではないという形で、参加した、国画会が、内包する、諸特徴(諸矛盾)について考え続けていたのだった。『これから先、ここで、やって行かれるだろうか?』と感じて居て、それを、考え続けていたのだった。初日から心配事がいっぱいあった。が・・・・・ビール云々という話で、白昼夢を破られた。
でも、初めて参入した国画会で、一応だが、注意をしてくれた人だ。だから、印象に残った。それで、例の国画会の裏側にあるもの・・・・・・例の北久里浜の件で、「彼女(=私の事)を絶対に会員にするな」と、嶋田章三さんは、裏から言われていたと推察しているが・・・・・を探りたくて、二、三度、同じ人に、電話を掛けた。すると、電話内でも、思いがけない答えが返ってきた。「あなたねえ。僕を恋人としては、選ばないでください。それからね。もう少し、落ち着いて、おんならしい事をやったらどうお? 例えば、花を飾ったりとか」と。
非常に驚いた。そして無論内心では、怒ったが、例のごとく、リアルな世界では、喧嘩をしない主義の人が、私だから、黙って受け止めた。が、そういう失礼な応対をする人だから、私としては、・・・・・彼に対しては、貸しがある・・・・・という関係だと、思ったのだ。それで、NKさんの、落選時の審査風景を教えてくれる人として、彼を選んだ。その時に、想定内の答えとしては、コンセプチュアルアートに対して、国画会の会員たちは、どう評価しているのか? 低くだろうが、それでNKさんが落選をしたのかどうか・・・・を、一番に、知りたかった。それから、NKさんには、既に大きな実績がある事を、国画会審査会場では、どういう風に考えたのか? 山寺重子さんは、女流展で、NKさんと、いっしょだから、その事を熟知して居るはずであるが、そういうNKさんの、国画会以外での活躍の模様を、審査会場で、他の審査員に教えたかどうか?をも、二番目の事として、知りたかった。
その二点を聞きたかったのに、帰って来た答えは、今度も私の想定を超えるものだった。「あんなの、駄目だよ。だって、新聞沙汰になったんだぜ」だったから。是では、審査会場がうんぬんかんぬんと言う段階でもない。それで、新聞沙汰とは、何であるかを知りたくなって、また、上條陽子さんに電話を掛けた。
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副題8、『上條陽子さんは、自身、とても優しい人だと、思うが、NKさんに対しては、厳しかった。それを知った日から、上條さんには、電話をかけて居ない・・・・と、思う』
上條さんの答えでは、こういう事となる。
上條さんの、妹さんがNKさんの家の近所に住んで居て、・・・・・事件が発覚をした日は、消防自動車等が、出動して大変だった・・・・と、妹さんは、言うそうだ。消防自動車と聞いたが、救急車が何台も来たという事かもしれない。問題点は、こうだ。・・・・・NKさんは、母親が死んだのに、遺体を放置したまま、葬儀をしなかった。それが、新聞沙汰と言う話になるらしい。
これは、一般的な事件としては、母親のもらっている遺族年金を引き続いて、もらいたくて、死亡を、秘密にするという話がある。そういう新聞記事に成る。私はNKさんが、母親の遺体を、放棄していた事件がいつ起きたのかを知らないので、新聞の縮刷版を読んだことが無くて、実際のニュース報道の、文章を知らない。
上條陽子さんがニュアンスとして、NKさんに批判的なのは、そういう・・・・・金銭面で、秘匿した・・・・・と、言う記事が出ていたからかもしれない。また、女流展に出した、総計2000円でできる作品を見て、彼女が金銭的に窮迫していると、考えていた人も多かったと、考えるのも一つの手だ。国画会の男性会員が、にべもない形で、NKさんを切り捨てたのも、そういう報道があったからかもしれない。
しかし、私の考えは、まったく違うのだった。彼女は、すでに、うつ病にかかって居て、葬儀を行うというほどの、処理能力がなくて、ただ、茫然自失をしていたから、そうなって居たと、考える。その上、彼女がうつ病になってしまった最大の原因が、国画会での落選という屈辱に在ったと、考えるからだ。
また、その年で、薬学部を出ているとは、実家は、お金持ちの筈で、彼女は豪邸に住んで居ると、推察して居た。皆様は、上野毛の、五島美術館の前にある邸宅をご存じだろうか? 敷地三千坪はあると推察され、うっそうたる林に囲まれている。あそこまで敷地が広くは無くても、敷地が、300坪は有って、中に昭和初期、もしくは大正時代に建てられたと、思しき平屋の、木造建築が経っているという種類の邸宅を、彼女の家として、想像をしていた。私は、そういう邸宅を、6棟知っており、そのすべてにお招きを受けて、上がって、お茶をした事がある。
それは、60年前から、30年前にかけての事であって、現在では、そのすべては建て直されていると、思うが、そのうちの一つが、うえに挙げた東大就職中の上司(=助手様)の家であり、高浜虚子の鎌倉の旧宅であった。で、私はNKさんの自宅としてそういうものを思い浮かべて、だから、遺体を放置したのだと、考えた。『臭いが、近隣に漂う事もないし、仕方がないから放置しよう』と、ぼんやりと考えていたのだろうと、思って、そういうブログ文も書いた。
しかし、それは、私の方が間違って居た。彼女は敷地面積が、35坪程度で、建蔽率50%ぐらいの地域で、総二階建てのいわゆる建売住宅に住んで居たのだった。隣の家との間には、植木さえ見えなかった。是では、臭気があたりに漂う。それで、・・・・大騒ぎになった・・・・・というのもうなずけた。
どうして私がNKさんの家の、実物を知って居るかと言うと、それが、NHK特集に、画面として、出てきたからだった。【NHKスペシャル空き家特集・・・・杉並篇】と言う社会派番組を装った、恐るべき、私いじめの作品だった。2009年の一月か、二月の放映だったと、思っている。その時の司会者(現地訪問者)は、今、(特に最近に)、テレビ東京の人気番組【ジパング】の司会をしている。
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副題9、『ジパング司会者、鎌田某氏、杉並区を舞台とした、NHKスペシャル【空き家特集】北側順一郎、ギャラリーアーチストスペース・・・・・そして国画会会員、某氏』
これから先は、別の章を立てて語ります。
【蛇足・・・・・というか、ユーリーカ!】
私ね、今日の文章の中に二つの、語彙があって、それが館野君と、東大の助手様に、「あの人は、僕に惚れて居るのだ」と、思わせた現象を生んだと、判りました。ほかにもあるでしょうが、大きな理由としては、私は・・・・・美しいものを見るのが大好きだ・・・・・と言うものです。館野君って、美智子さまの弟君とそっくりです。それから、東大の助手様は、お雛様みたいなお顔です。
それが、大きな原因でしょう。ニューヨークでも地下鉄の駅で、ものすごく貧乏だが、育ちは良さそうな青年を見つけて、じっと見つめていたらしいのです。それは、クィーンズと言う場所なのですが、マンハッタン島に入ったら、その青年が下りたので、私もおりて、お茶に彼を誘って、どういう人間であるかを質問をしました。
思った通りの上流階級出身らしいのです。ただ、エジプト人であり、親元からは、生活費は、仕送りとしては、今は、もらっていないと、見えました。自分ではほとんど稼げない青年だったのです。それで、超貧乏らしいのです。しかし、貧乏だからこそ、たった、1ドル50セントのコーフィーもおごられるのを拒否して水だけを飲んでいるのでした。誇り高いのです。携わっている分野は詩だそうで、私が、「もう、詩集を出したの?」と、聞いたら非常に怒りました。
「詩集を出していないと、詩人ではないと言うのか?」と、言って怒りました。
で、修復するために、「私は、あなたが、とても、育ちがいい人だと、思ったから、いろいろ質問をしたかったのよ」と告げました。それで、少し機嫌を直してくれたので、お別れしました。
ただ、その時の、私側の真実を言うと、彼が、着ているものがミステリー満載だったから、興味を抱いたのです。非常に素材の良いスーツを着ていたのです。夏ものでサマーウールと言う種類の生地でできています。しかも、5センチ角ペイン格子という珍しい、生地でした。白地に、焦げ茶色の細い線でガラス窓風に、格子が入って居て、それだけを見ても、ものすごく上等な生地だと判ります。しかも大柄な、彼のサイズにぴったりでした。つまり、注文仕立てだという事。
しかし、驚くべきことには、ぼろぼろなのでした。「ほとんど、こじきです」と言う程にボロボロなのでした。しかし、汚れは全くないのです。白地なのに、どこにも汚れがついて居ないのでした。・・・・・という事は、この青年は、三日に一回、コインランドリーで、このスーツを洗っていますね。コインランドリーで洗うから、こういう風にボロボロになったのだわ。・・・・と、推察しました。で、アメリカとは、中古を使う文化ですから、中古品のお店に行けば、これほど、ぼろぼろには、なっては、居ない、Tシャツとかセーターが手に入るでしょう。でも、彼にとって、そういう洋服は、低レベルに見えるのだと、思います。色合いが全然違うから。真っ白な生地のペイン格子とは、もし、ぼろぼろではなかったら、ぜいたくそのものの生地なのです。
私は、もし彼が怒らなかったら、もっと聞きたいことがありました。たとえば、「あなたって、外交官になるための勉強をしに、アメリカに来たのではないの」とか。「しかし、詩の世界に移動をしたのは、なぜ?」とか。
そして何よりもそのぼろぼろのスーツを手縫いで治してあげたいと、思いました。しかし、1ドル50セントのコーフィーさえ拒否する彼が、そんな申し出でを受け入れるはずもなくて、黙って見送りました。
その短い会話の最中に、彼が、「僕は、あなたがずっと、僕のことを見つめていたのには、気がついて居ましたよ」と、言いました。是こそ、館野君や、東大の助手様を見ている時と、同じ眼付なのだと、思いますよ。しかも、同時に頭の中では、高速回転で、ものを考えているのです。・・・・・彼が抱えているアンバランスの、秘密を知りたい。それを知るためには、どういう風に何を質問したら、わかるかしら?・・・・・と、たった、10分程度の間に、激しく、思考を続けているのです。
つまり、白昼夢の世界に入って居るわけで、従って顔の、表情などとろんとしていると、思いますよ。それが、「彼女は、自分に対しては、激しく惚れて居て、困るなあ」と言う、結果になるのでしょう。
ただ、ニューヨークに居る時の私は非常に活発です。英語を使っているときは、別人のように活発になります。ですから、地下鉄を下りた彼を即座に追いかけて、地上に出たら、すぐ、近所に在った喫茶店に誘い、お話をし始めたのです。会話をしてみると、私が知的好奇心の塊であり、
しかも、・・・・・一種の世捨て人になって、社会から疎外感を味わっているだろう、彼を、・・・・・・否定的ではなくて、・・・・・肯定的に、受け止めて、会話をするので、・・・・・最初はうれしかった・・・・・と、思います。
しかし、詩集と言う語彙が彼を激怒させたのは、それがお金がかかるモノであり、
また、社交術が必要な世界だからです。パーティに積極的に出て、セレブ階級と付き合ったりして、その過程で、出版界の、誰かと知り合いになるとか、批評家に認められることが必要です。しかし、今の洋服では、そういう場所に出られません。彼は、閉塞状況下に在ったのです。しかし、たった、30分間でも、彼を見つめて、称揚の気配を伝えた、私の存在は、彼にとって、ひとつのなぐさめには、成ったと、思いますが・・・・・生活費の足しと言う意味では何の役にも立たなかったで、それは、切ないですね。特に彼に出会ったのが、1999年の10月か、11月だったのです。もう、冬に入って居ます。それなのに、サマーウールのスーツです。それは、エジプトは暑くて、ニューヨークの冬に使う様なウールを売って居ないからでしょう。それも、見て居て非常に切なかったです。
なお、このブログの2010年から数え始めた延べ訪問回数は、4684718です。
6月1日に非公開の文章として書き始め、2日に公開をし始めて、3日までかかって完成をさせた。
雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)
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