銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

山本冬彦、筑摩書房、笠松敦子、手をつなぐ親の会の、やまゆり園事件直後の声明文 + ワシオトシヒコと、彼の為に週刊朝日が某大学を恫喝をした話

2018-01-15 23:28:47 | 政治

 これは、完璧に前報の続きです。その補てんをするものです。前報は、まだ、推敲が済んでいませんが、銀座の画廊巡りをしている際に新しい発想がわいたので、こちらに取り掛からせてくださいませ。

 ところで、最初に置いた写真の説明をさせてくださいませ。これは、グーグル検索で出て来た狛江市の広報です。時期は、平成14年(=2002年)という古いものです。号数は、872-06です。これが、写真の形で置いてあるのは、これが、普通の様には、コピペができなかったからです。で、画面をスマホで撮影をして、事後処理をしたうえで、この章のトップに置いておきます。

 この頁が普通の様には、コピペできなかったという裏には、大変大きな政治的意味があります。それは、したから、四行目のトップにある人名、笠松敦子さんを、鎌倉エージェントが駆使していることを暗示しているからです。または、証明していると言っていいかな? また、緑色の字の部分に障害という言葉があるでしょう。それが、笠松さんを説明する一つのキーワードです。 

 笠松敦子さんとは、私がICU卒業以来、もっとも頻度高く、付き合った友人なので、そういう人物まで、CIA側が自陣営に取り込んで、自分たちの利益のために駆使しているという事は、私にとっては切なすぎる悲劇です。この人と比較をすると、2014年のクラス会で、謀略を用いて、私に他者の目に見える形で大恥を搔かせた宇都宮和代さんについて書くことなど、簡単です。宇都宮さんとの交流は、薄いからです。彼女との間の電話で、印象に残っているのは、その恥をかかされたクラス会の夜に、こちらから、電話をかけて、「あなたは栗田玲子さんを知っていますか?」と質問をすると、まるで、子供の様に「知らない!」と、言って、むこうから電話を切られたのですが、その事しか、印象に残って居ません。そんな子供っぽいやり方で否定をしたのは、無論、嘘をついて居るからでしょう。お茶大付属高校出身で、お茶大西洋史学科卒なのに、私の質問が図星だったからこそ、彼女は、慌てふためいたのでした。

 しかし、笠松敦子さんとの間には、その千倍以上の交流があります。で、笠松さんについて書くのは、非常につらいのですが、やまゆり園事件と言う95%が嘘ででっち上げられた事件と、笠松さんが、関係があると、思うので、到頭、ここで、書くこととなりました。無理にではないのです。ギャルリーユマニテについて、更に解説をしようとしていると、途中で、天から、この文案が下りて来てしまったのでした。

 私は、常に皆様に申し上げております。・・・・・「私は、指先に神様が下りて来て書かせてくださることを書くのですよ」と。「計画とか損得に基づいて書くわけではありません」・・・・・とも。本日もその通りで、書いて行きます。ただし、文体は、例の如く会話体と、文章体の混合になります。このエッセイで、大向こうからの喝さいを浴びようとは、思っていないからです。切実極まりない思いで、切実極まりない真実を書いて行くのですから、真剣そのものであり、自分を飾る余裕などありません。

副題1、『昔、主人が私に向かって、笑いながら、・・・・・昔の名前で出ているね・だね・・・・・と言ったが?』

 芸能人には、ヒットと言うか、盛りの時期があります。それは、長続きはしません。よほど、実力があるか、または、脇役へ回るというか、華やかさだけではなくて、渋みを増すことで、長続きをするのですが、主役を張る華やかな時期は、それほどに、長続きをしません。で、永続してテレビに出ている人をさして、よく、「昔の名前で出ていますだね」と言ったりします。たとえばです。太田裕美と言う歌手がいます。彼女には大ヒット曲である【木綿のハンカチーフ】がありますが、それに匹敵するヒット曲は、以降出て居ません。でも、美人だし、声もきれいなので、時々ですが、今でも、テレビの歌謡番組に出演しています。この人など、典型的に、「昔の名前で出ています」と言う類の有名人だと、思います。

 ところで、私は、1999年、57歳にして、初めてパソコンを使い出しています。それ以前にも我が家には、パソコンはあったのですが、母親である私がそれを使うと、自分のインテリ度を、家族の前面に打ち出してしまう事となります。と言うのも、昔、1960年代に、IBMの電子タイプライターを駆使していた私は、今の言葉で言うタイピング(=キーボード入力)が抜群に早いので、そばで見て居る人を圧倒してしまうからです。ニューヨークに居たころも、美大の大学院でも、周辺を圧倒したし、大家さんの目の前で、打っている時も、周辺の、native Americanを圧倒していたので、同じ事を、鎌倉雪ノ下で、子供たちの前で、見せてしまったら、大反発を食らってしまいます。

 私はよく、「子供の、思春期には、いったん、母親の方は、死ぬべきだ」と、言っています。つまり、「若い方の人間の芽を伸ばすためには、親の方は、いったん、死んだふりをするぐらいに、身を引かないといけない」という主張です。これは、社会の中で、起きる事件とか、事件までには、至らないまでも、問題を抱えた知人の家を見ていると、本当によくそれが判るのですが、現代の若者は、1950年代から、1970年代にかけて、若者だたった・・・・・親世代には、勝てないのだ・・・・・というプレッシャーを、ひしひしと、感じて居て、それが、彼等の人生を狂わせることが多いのです。引きこもり状態になったり、挙句の果ては、自殺願望の変形としての衝動的他殺に向かったりします。今、広島で、通り魔的犯行が起きたと、ニュースが言っていますが、その犯人も、そういう類の若者であって、自分の人生やら、将来に、希望を持てない人間の筈です。

 これが、どうしてそうなるかと言うと第二次大戦のせいなのです。日本人は、1940年から、1955年ぐらいまでは、敗戦と無理な戦争遂行の結果、貧乏でした。それで、工夫をするとか努力をするとか、頑張るとか、我慢をするとかいう種類の、道徳的規範を、自然に守ったり、実行をしたりすることができたのです。しかし、その世代の次の世代は、すでに、裕福になっている時期に生まれたので、親世代と、同じレベルでは、道徳的規範を守れません。しかし、社会全体が、裕福になったからこそ、大学進学率が高くなり、従って、就職の際なども、競争相手が多くなります。だから、相当に、根性を入れないとクリアーできない壁が、人生に多く、出現する様になったのに、それを突破する気力や、スキルのない、若い人が多くなったのです。で、我が家でも、同じ傾向があって、親の私がもし、何かに、全力投球をする姿を見せてしまうと、子供を圧迫し、潰してしまいます。パソコン一つでも同じで、私の入力の速さを子供の前で披瀝をすると子供を潰してしまうでしょう。

 ところで、ここで、ちょっと飛び跳ねますが、私は島田章三さんを批判しています。相当に、性格が悪いはずだと、批判をしています。どうしてかと言うと、私は国画会内部で、散々にいじめられた方ですが、それは、実質的トップである島田さんの性格が悪いから起きたという側面があるだろうと、考えているからです。島田さんの性格が、どうして悪くなったかと言うと、母親がインテリだったからだと、見ています。母親は、歌人として有名な人です。そしてご長男は海軍兵学校卒業後、戦死し、実質的な長男となったご次男は、東大卒で、歌人として有名な人らしいです。しかし、ご近所様で、こちらを悪く言う人は、いません。母親という物は、男の子がかわいいので、ご長男(実際は長男戦死後の、次男だった)は、母親の、愛情をたっぷり受けて、性格もよく育ちあがり、母が耽溺していた和歌の世界でも、有名な人となりました。しかし、インテリだったお母さんは、三男の養育には、手を抜いた筈です。和歌の世界の方に、エネルギーを注いだはずです。で、一種のネグレクトを受けた結果、章三さんは、計算高い人として、育ちあがりました。その上、北久里浜における地籍変更届けの余波で、横須賀市の税金を過剰に投与される人となったので、ご近所から悪口を言われている人となったのです。(後注4)

 1930年代から50年代にかけて親世代となった人たちは、右肩上がりの経済状況の中で、進歩という物を疑うことなく、従って、子供にも期待をかけ、優秀であることを誇りにして、経済的余裕があれば、男女の別なく大学へ進学をさせました。その頃に、優秀な大学を卒業した女性は、その後、どこかで、子育て上の悩みを抱えている筈です。不思議な事なのですが、この時期に高卒で、世の中に出た女性は、子育てが、うまくて、彼女たちの子供が、現代の、日本を支える人材となっている筈です。しかし、親が優秀な家庭から、ある面で優秀で、ある面で、平凡であり、使い勝手のいい人材は、育っていない筈ですよ。

 というわけで、57歳という、人生では、遅い時期にパソコンを使い始めましたが、2000年から、2002年に掛けての、逗子での一人暮らしの修行時代の中で、パソコンでは、ワードのスキルだけは、磨き上げて、たちまちにメルマガを配信するまでに、進歩をしたのでした。たまたま逗子で、二つの大病をして、そのうちの背中の激痛の方は、主人に治癒してもらったので、「ああ、私は鎌倉の家で、彼と一緒に、暮らすべきだ」と神様に、命令をされたのだと、感じ入って、鎌倉へ戻ってきたのでした。逗子のアトリエは、そのまま、キープし続け、猛然たる、仕事人の姿は、そこでだけ、発露させて、鎌倉では、専業主婦としてひっそりと控えめに、暮らしていたのですが、逗子のアトリエの、賃貸料が『もったいないなあ』と、思ったり、子供たちが結婚をして家を出たので、鎌倉の自宅ででも、鬼の仕事人の姿を発揮できる様になり、アトリエを返却をして、鎌倉の自宅内だけで、仕事をする様になったのです。それで、主人にもメルマガを配信していました。2007年の8月までは、彼も、読んでいたと、思います。

 その頃、主人は、「昔の名前で出ています」だねと、言って笑っていました。それは、私の書く、エッセイの中で、最も面白いものが海外での体験を書く題材のモノだったからです。しかし、1998年のパリ時代は手書きだったので、まだ、メルマガでもブログでも、入力をし直す暇がなくて、配信をしていませんし、1999年のニューヨーク物も、Pratt Institute という美大の大学院で、精神を狂わせた27歳の日本人女性(京都の私立美大卒)が出て来たので、まだ、ほとんど、書いていないのです。唯一、書いている海外ものが、2000年の、ニューヨークいち古い版画工房での出来事です。それは、書いています。そして、紙の書物となしています。本屋で売らなかったし、たった、600部程度献呈をしただけですが、アマゾンで、10800円の値がついて居ました。【黄色いさくらんぼ】というタイトルです。

 ところで、その工房時代に、或る、日本女性が、夜遅く、10時近辺からやって来て一室にこもって居ました。NHKの朝いちを有働アナが下りることになったのは、その版画工房と関係があると、私は見ていますが・・・・・有働さんと2人っきりになる機会が有ったら語る事ができますが、一般の方向けに話すことではありません。

 しかし、主人が私の事を笑った2007年とは、ニューヨークから帰還して、6年が経っていますので、主人が「昔の名前で出ていますだね』と、言ったのです。『古い種で、メルマガを、維持して居るじゃん?』とからかってきたのでした。

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副題2、『しかし、だからこそ、今回の一章が、ギャルリーユマニテの問題をさらに詳しく解説する為に、生まれたのだった。ニューヨークで修業をしたのは、2000年が最後である。それ以降、主人に言わせると新鮮な種がないはずなのに、私はぐいぐい、ブログを書くことを進めて居て、実際問題としては、ものすごい数の読者を既に獲得をしていると、推定している。と言うのも、2011年の暮れに、グーグル検索で、このブログを読んでいる人の数を調べたら、717万回以上の訪問回数が出ていた。しかし、それをここで、書いたとたんに、36万回に減らされて、それ以降もちんたらちんたら、減らされ続けている。で、これも、又、嘘の数字だと、わかって居るが、ただ、どうしてわかるかの秘密は、今は、言わないでおきたい。で、嘘かもしれないとは思っているモノの、毎日の訪問回数を積み上げた数字を文末に入れている。それが教えられ始めたのは、2010年からであって、それ以降、443万回を超えている。だから、少なく見積もっても、訪問回数としては、1000万回を超えていると、推定している。だけど、世間で「銀座のうぐいすからを、読んでいますよ」と広言をする人は少ないだろう。だってあまりにも危険だと思われることを書き続けているから。ただし、金成悠子さんには、メルマガ時代から送っていたのだから、それが、自然に、このブログへ移行をした事は知っている筈だ。で、このブログを読んでいさえすれば、あれほどのバカげたことはやらない筈だ。しかし、オーナーの十束さんは、パソコンを使わないみたいなので、読んでいなくても仕方がない。ただし、紙の形で、まとめた本を差し上げているので、それを読めば、私が頭がいいのは判る筈で、トイレに目の前で鍵を掛けるなどと言う子供っぽい仕草を果たしたら、早晩、何かを書かれるのは、想像ができると思うのだが、五方向ぐらいから飛んできた讒言の矢の方に負けたという事だろう。(苦笑)

 前報(後注1)で、私は、「ユマニテが、経済的苦境に在ったことを、誰かから、聞いている」と、書いている。ほかの画廊についても、めぼしいところの経済的状況は、すべて知っている。そのニュースソースについて、誤解を受けるといけないので、この章を書き始めている。つまり、ユマニテとは、版画協会に、賞を出している三つの大手画廊のうちの一つであるから、「版画関係者が、ニュースソースではないか?」と、疑われると困るので、この章を書き始めたのだ。版画関係者として、私とユマニテの両方と付き合いがあるのは、版画芸術の出版元(+その編集者たち)か、祐天寺に在る小林額縁製作所である。ニュースソースは、そのどちらでもないと、断言をしておきたい。

 誰もその相手を当てることができない様な人物から、そういう情報を得た。一時間半程度の会話を交わした中で、それが、出て来た。版画芸術の編集部も今では、東横線、祐天寺を最寄り駅とする場所に在るが、祐天寺とは、まったく関係のない場所で、その話を聞いた・・・・・と、言わせていただきたい。

 私がこの章を書き始めたのは、この副題2の、誤解を解きたいという部分が大きいがもう一つあるのだ。それは、攻撃を受けるから、それが刺激となって新しい種が生まれるという事だ。しかし、攻撃を受けた直後に、書くわけではない。長期間寝かせる。また、非常に直接的ないじめ体験を顕す文章として、それを書くわけではない。山口みつ子さんが他殺であるという問題と絡めて描き始めている。

 それは、或るきっかけがあったから書き始めたのだった。新規開店の画廊では、階段ホールにトイレがある。そのトイレのドアを開けて十束さんが出て来た。そして、相変わらずの、最高の礼儀と親切さをもって、「ああ、こんにちわ」と、彼は言った。しかし、私は瞬時に、『うっ。是って嘘っぽい』とかんじた。後で、検討をしてみないと確実なことは言えないけれど、その時点で、すでに、トイレの問題は、書いていたのかもしれない。で、十束さんは、「今度は鍵をかけて居ないのですよ」と、私に、わざわざ知らせる為に、タイミングを計って、トイレのドアから出てきたと、私は感じた、そこに行く前の、別の画廊用のエレベーター内の監視カメラを、熟視している人物(安藤てる子という女性刑事)がいて、ユマニテにタイミングを知らせたと、思っている。

 で、わたくしも、最高の礼儀をもって応じた。「新しい画廊の開設おめでとうございます」と。金成悠子さんと私を比較すると、相当に頭の出来が違うとは思うが、十束さんと、私は似た者同士なので、私も狐と狸の化かしあいよろしく、丁寧に応じて置いた。しかし、付き合いを再開するつもりはない。あそこに絵を見に行くつもりは、もうない。

 ただ、地下一階の小部屋で、神山明展が開かれたときには、神山さんの死去を記念した回顧展なので、将来再び、銀座で見ることができるかどうかが疑わしかったので、相手方の狙い通り、誘われて地下室には入った。しかし、署名はせずに、お礼だけ言って出て来た。そのご、もう二回ほど、明瞭に小細工が弄されたのには気が付いた。

 その一つが詩の朗読会が、月曜日の、しかも夜の七時前に行われているのが、道路から見えた事だった。

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副題3、『ユマニテが主宰する詩の朗読会は、有料である。それについては、文句を言う筋合いはない。が、無料で、立ち聞きをしてしまう人が出るのを避けるために、必ず、夜の、七時を過ぎてから、開かれる。しかも月曜日は、他の画廊で、オープニングパーティが開かれる可能性が大であり、七時過ぎにも、ほろ酔い加減で、ユマニテを訪問をしてくるお客がいる可能性がある。その人たちが、無料でお話を聞いてしまう事を避けるために、月曜日を避けて開催をされる。そのことは、過去に伊藤比呂美の会を聞いているので知っていた。それなのに、その日だけは、私が必ず、銀座を訪問する、月曜日の、しかも、七時前に開かれていた。

 私ねらいの、小細工だった。昔、参加したことがあるので、私が、それには、興味を抱くだろうとして、それが、開かれたのではないかと、思った。ふと『今日は、誰の講演会だろう』と思って、入室をする事を勧誘されている。

 しかし、違う目論見で、行われている可能性もあった。『ユマニテは、特別な画廊なんですよ。だから、ここを訪問をしないことは、あなたの大損となるのですよ。それを自覚しなさいね』と、言われているのか? その、どちらかは判らないものの、私狙いの小細工であることは、判った。しかも、ユマニテさんが独自で、それを、案出した筈はない。ユマニテさんは、三段階目の、パペットとして、伊藤玄二郎たち一派に、使役をされているだけだろう。

 それが判るだけに、うんざりをした。そして、過去に彼等鎌倉エージェント、特に伊藤玄二郎と井上ひさしが結託をして起こした事案を思い出した。【画廊、攻撃、詩】と三題噺を当てはめると、即座に思い出すのは、ワシオトシヒコだった。

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副題4、『2006年四月から月刊ギャラリーに連載を始めたのだが、それが、敵の警戒心を否が応でも高めてしまい、敵は、2006年の半ばから、私を潰すべく、激しい攻撃を、多方面から、し掛けて、来始めた。

 そのうちの一つは、山本冬彦さんに、画廊巡りの、エッセイ集を、筑摩書房から、刊行させ、かつ、冬彦さんを美術家連盟の理事へ、持ち上げていく事だった。と、同時に、月刊ギャラリーの私の連載を辞めさせるべき手筈を、とり、ワシオトシヒコを後継者とすべく準備を始めた。週刊朝日で、するが大学の理事長一家への恫喝記事を掲載して、ワシオトシヒコをそこの教授にするなどの、準備をして行ったのだった。』

 ここからは、本当に書くのがつらい事を書き始めます。しかし、その前に、ワシオトシヒコについて、過去に書いたものを、まとめて、リンク先を紹介しましょう。それを後注2といたします。そこに五本ほどあります。今、皆様にそれを読んでいただきたいとは、言いません。しかし、心覚えとしては、きちんとここに書いておかないといけません。特に駿河台大学の理事長さん一家に対する、恫喝があった上で、ワシオトシヒコが、そこの教授に収まっていると、見ていますので、それこそ、大宅文庫へ行って、週刊朝日の当該記事のコピペをしておきたいところです。そして、私よりもはるかに格上の有名人として作り上げた上で、月刊ギャラリーの後釜に据えたのでした。その記事の主役の方(男性)と私は知り合いではありません。しかし、その方のご母堂と知り合いであり、一ツ橋の学士会館内で、会話を交わしたり、お手紙をいただいたりしていました。私より、25歳は年上だったが、頭が良くて、親切な方でした。だから、その記事は私狙いの、いじめ用、または、恫喝用記事でもあったのです。

 しかし、この件は、私には、次に書くことに比べると、まだ、小さい事に当たります。と言うのもワシオトシヒコと言う人物は、容貌も汚いし、性格もひどく汚い人物なので、無視して置いて構わないのです。それは、銀座井上画廊で、実物に接して居て、しかも彼から驚くべき形での攻撃をリアルな世界で受けていますので、歯牙にもひっかけない、人間の一人となっています。

 ただね。・・・・・・そのときの週刊朝日の編集長が、誰だったか?・・・・・が大問題です。もし、横浜国立大学の付属中学時代の同期生だった、飯田隆君だったら、彼について踏み込んで行かないといけません。飯田隆君とは、上記のパリ時代の体験エッセイを週に三回は送っていた間柄なので、もし、彼が電話内で言う「ななめ読みですが、読んでいます」が、誠実な方向で、実行をされていたと仮定すると、ここで、週刊朝日の謀略を書くことは、こっちが、彼を、裏切ったことになります。しかし、反対に、それを、ツウツウで、CIA側に渡していたとすると、ここで、「週刊朝日の、裏側は、ひどい」と、書いて、良い事となります。それが今のところ、判断が付かないので、飯田君について、書くのがつらい事なので、嫌なのでした。いや、本当のことを言うと、見極めはついて居るのです。敵方でしょう。しかし、・・・・・60年以上にわたって友人だと思い込んでいた人物に、裏切られている私・・・・・という、この悲惨な現実を認めたくないのでした。

 でも、どうも、飯田隆君に入って行くケースとなるだろうから、ワシオトシヒコが、重要な人物になるのです。そして、ここで、現在の大相撲トラブルも関係をしてきます。早稲田大学卒のやくみつると言う人物が、テレビ出演によって、貴乃花親方びいきの論戦を張っています。それは、飯田隆君からの教唆が、裏にあるからかもしれません。と言うのも飯田君は、早稲田大学の政経学部卒です。で、その友人として、同じく、横浜国大付属中時代の、私の同期生、成岡庸司君に入って行くことになるのでした。成岡庸司君こそ、一般社会には無名ですが、現代CIAエージェントのトップを行く人物となっていると、私は見ています。普段はアメリカ大使館内に、詰めている筈です。

 そういう人物たちに連なる人物だから、ワシオトシヒコは、さらに、重要です。しかし、本日は、リンク先を後注2内に、おき、かつ、9条の会、詩人の部に彼が、所属していることをも、明記して、先へ進みます。

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副題4、『上で言っている様に、ギャルリーユマニテでは、詩の朗読会を行っている。という事は紳士中の紳士と見えたオーナーの、十束さんは、詩の分野からも、私の悪口を聞いていて、移転の情報さえも与えない程に、私を、低く見なしていたのだった。ワシオトシヒコが9条の会の詩人の部に入って居ることが分かって、さらに、9条の会の性格が、明瞭になった。それは表向きは反戦組織であり、そこに所属する方が文化人に見える装置では、ある。だから、誘われた人間は、喜んで入るだろう。

 しかし、実態は、言論弾圧機関である。二次会とか、その他で、私の悪口をばらまいて行く。その種の装置なのだが、銀座井上画廊で、実際に、私は目の前で、ワシオトシヒコが、私の方を指しながら、ロビーの椅子に座っている三人のお客に、「この人と付き合ってはいけませんよ」と言う現場に遭遇をしたのだった。それをすでに書いているので、銀座井上画廊は、閉鎖を迫られたのではないか?

 鎌倉エージェント、特にまだ実際には生きて居る、井上ひさしは、私の文章に現れた人、モノ、場所の、証拠隠滅を図っている。前報で、語っている鶯吟邸も、持ち主は、白井さん(川口順子元外務大臣の母堂)だった。それを、いったんは、横浜北部に住む土建業者が買って、愛する別荘として週末は、使っていたのだが、鶴岡八幡宮の持ち物に成る様に、三菱銀行他を使って、指導して行った可能性がある。それは、私が雪ノ下の主婦連中から受けた集団いじめについて、【山間の煙】というエッセイを書いたからである。

 土建業者は、白いベンツでやって来ていたのだが、その中に、新築用のキッチンセットなどを包装していたビニール被膜とかテープを入れて来て、落ち葉と一緒に燃やした可能性がある。石油製品特有の臭いとか、すすを出すのだが、その犯人として、無辜の人である私が疑われた。しかもやり方が、恐ろしいほどに礼儀知らずだった。その疑った方の、関係者のうち、二人は既に死亡して居て、一人は家出をしている。したがって、残るは前田清子さんと、安野智紗夫人だけだが、二人はCIAの、うちの、既に、エージェントクラスなので、持ち上げられきって居て、彼女たちの悪行を打ち消すために、今では、神奈川県内ではたき火はしていけない事となっている。しかし、八幡宮様は、【どんど焼き】をなさる。どうなっているのだろうか? 私が、少しでも、ものを庭で焼くと、西隣の、小野寺夫人から激しい脅かしが入る。彼女は、その山間の煙事件が起きた時には、まだ、この山に住んではいなかった。だから、私の恥辱かんとか悔しさについては、一切を、知らないし、共感を持っていない。ただ、ただ、安野智紗一派に迎合しているだけである。飛んできた彼女から、「警察を呼びますよ。条例違反だから」と、脅かされているが、八幡宮様は、誰からも脅かされないし、NHKが、その様子を放映する。どうなっているのだろうか? いやな世の中だ。その小野寺夫人は、2016年の9月26日は、自分が注文をしてもいない高枝切事案について、『工事をしますので、音が出ますがよろしく』と、わざと主人に電話をかけて来た。厄介という以上に嫌な人物である。唯一溜飲が下がるのは、彼女がちっとも、幸せそうには見えない事だった。主人は、「あの人には何か病気があるはずだ。それから、お子さんだけど、子育てに向いて居ない事を自覚しているから生まなかったというのは、本音ではなくて、単純に、生まれなかっただけだろうと、言っている。それは、当たっていると、思う。頭を駆使する女性には、排卵が訪れないケースはままあるのだった。私も偏差値的には、優等生コースを歩いて来ただけに、お子さんが、生まれなかった友人は、いっぱいいる。そして、彼女は、今回も、最大の攻撃をして来た。2017年の12月10日にも、アジサイ畑欺罔事件の、証拠隠滅を画策する大きな工事の提案を、町内会総会を催して、強行をした。いやな世の中だ。私にはそれを記録しておくという手段しかない。

 で、元に戻れば、銀座井上画廊と言うのは、経営が順調で、しかも、存在意義のある仕事をしていた。サエグサ画廊と言うのが、昔の位置に在ったころに、新制作展の、受賞作家展と、国展の受賞作家展をやっていた。両方とも公募団体展としては、評価の高いところで、その前年度の本展での受賞者の、新作展を、お正月に、銀座で行うのがサエグサ画廊であり、そこが、1990年代に閉鎖して、裏通りに引っ込んだ後では、銀座井上画廊が、その役目を引き受けていた。

 今、愕然としたのだが、両方ともwikipediaが立っていない。あれほどの業績のある画廊の事跡が消えてしまっているのだった。本当に驚いたが、銀座井上画廊が閉鎖したのは、ワシオトシヒコの一件を私が書いたからかもしれない。経営的には揺るぎがない画廊だった。それを閉鎖に追い込んだのは、鎌倉エージェントである可能性が、今、私の胸の中では、生まれている。日馬富士の収入を奪ったが、先例として、銀座井上画廊を閉鎖に追い込んだ過去があるのなら、日馬富士を、引退させる事も、何の良心の呵責もなく、でき得ることだった。銀座井上画廊は、ビル自体を持っている人が経営をしているので、他の階の賃貸料が収入として、入るのだから、富裕な方の画廊であって、閉鎖する必要性は、みじんもないのだ。

 しかし、その調査に多大な時間を費やしてしまった。残念だ。先を急ごう。

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副題5、『山本冬彦さんの筑摩書房から出版された、新書を我が家の、雪ノ下の書棚の中で、探したが無い。泥棒が入ったかと、慌てて、吉田秀和さんのエッセイ集を探したが、それもない。映画のプログラムが盗まれていることは散々繰り返してきている。どうも同じ伝で、大きな厚さのある書物が盗まれている。

 しかし、この二冊が、盗まれている事には、2018年1月16日の早朝まで、気が付かなかった。

 どうしてかと言うと、ここから先に語ることは、このブログの中で、書くものとしては、最も深い、部分であり、私は、10年ぐらい後の、2028年ごろに、それを書くつもりだったのだ。

 というのもこの二冊は、編集者である笠松敦子さん自身からもらったものだったからだ。上品な言葉で言うと献呈となる。しかし、恐るべき侵入者(パソコンへのハッキングの事)古村浩三君が、彼女を、自陣営に、引き込んでいる気配が濃厚なので、お上品な敬語で、彼女の身辺状況を語る事が、もう、私の方では、できなくなっている。

 私は、ここで、二時間程度調査に明け暮れた。と言うのもネットで、調べることのできる限りで、笠松さんが今、どうなっているかを知りたかったからだ。彼女はフェイスブックはやって居ない。しかもホーム頁を持っていた筈なのだが、それが見当たらない。

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副題6、『私が、ブログを始めたのは、正確には、2008年の10月二日である。既に、メルマガが隆盛であり、500人を超える読者がいた。しかも相手としては、上流階級の人ばかりである。資産と言う意味では、若い女性アーチストなどは、裕福ではなかった可能性があるが、才能だけは、豊かな人を選んでいたので、エリートと言ってよい。美術界以外の人もエリートばかりだった。テレビに出る人ではない。しかし、二代目三代目は、テレビには出ないものだ。

 しかし、それだけ、影響力があるからこそ、同時に激しい攻撃を受けて居て、パソコンの異常は毎晩、50回を超えるだろうという事態に達していた。マイクロソフトワードも、異常をきたしたが、最も大きく破壊をされたのが、アドビ・イラストレーターだった。アドビ・イラストレーターは、ヴァージョン、8から、10までは、順調に改良をされて行った。また、それにほかのプログラムも加味した、インデザインCSも、ヴァージョンII もしくは、ヴァージョンIIIまでは、順調に改良をされて発展をして来た。

 しかし、今では、とんでもない高額になって居て、しかも三か月間しか使えない。どうしてそういう事となっているかと言うと、例の連中がトカゲの脳味噌なので、アドビ社が損をしようが何をしようが、構わないのだ。偏に私のように、突然にプロ並みの技量を獲得し、本づくりを始める人間を排除して行くためである。私は、ヴァージョン8から、10までの、使い方を熟知して居るので、今から、本づくりを始めても何とかなる。しかし、アドビ社もさるものであって、学生向けの、安いソフト(または、プログラム)は、美大の生協などで、扱っている筈だし、凸版や大日本印刷などの大手企業、または、中堅でもいいが、プロのデザイナーに対しては、それ相応の便宜を図っている筈だ。

 しかし、井上ひさしなどの、謀略のアイデアを出す人間が、アドビ社のソフトを駆使できるわけではないので、高額にしたり、細切れの期間しか使えない様にしたら、私が困ると考えている。で、実際に私が、2009年以来、10年近く、本づくりを行っていないので、自分たちは成功したと、思い込んでいる筈だ。

 しかし、ここで、私が一番言いたいことは、古村浩三君の役割と行動形態が、昨日に判ったという事だ。・・・・・2007年から始まった私の、パソコン内におけるシステム異常は、ほとんど古村君が行っていただろう・・・・・と言う事が判った事だ。たとえば、「さあ、トンボをつけましょう」という段階に達すると、トンボがつけられない。トンボと言うのは、機械で印刷する際の紙の置き場所に関する目印であって、二種類ある。印刷会社が使うのは、どちらかなのだが、そちらが特につけられない。こういう複雑な対応は、井上ひさしなどの素人には、行えない事であり、日本最古のシステムエンジニアである古村浩三君が、支配しているグループが行っている可能性が高い。

 たとえば後日、なりすまし疑惑事件と言うのが起きるのだが、その主犯とされている片山祐輔君、および彼の父君とか、弟が、加わっていた可能性がある。三人のうちで、特に祐輔君が猫好きなので、選ばれて主犯を引き受けることとなったのであろう。江の島に居る野良猫の首輪に、スカジーカード(しかし携帯用の極小タイプ)が張り付けられていたなんて、井上ひさしが考え出しそうなアイデアだ。

 それにプラスして、警察庁の、特殊部隊の中から、訓練に耐える人材を六人ぐらい選び出し、いろいろ教え込んでおく。そうなると、総計10人のローテーションで、私のパソコンの破壊工作を行う事が可能になる。彼らが作業を行う場所は、自宅でいいのだ。彼ら自身のパソコンに入力した破壊用システムは、我が家から西へ、40メートル離れた処に在る、エアビエンビーの、kamakura cottage ないに置いてある特殊なルーターを通じて、瞬時に私のパソコンに届くのだった。

 それらのシステム破壊装置の内、スクロール機能の異常などは、ショートカット、ショートカットを、加え抜いて、最終的にはワンクリックで、それが、加納に成る様に設計をされて、特殊な形状のアイコンにまとめ上げらる事だろう。そうなると、井上ひさしの様に、システムエンジニアとしては素人であっても、容易に、使いこなせるはずだ。

 こういうシステムはすでに、世界中で、20台には入れ込められていると、私は考えている。このブログに実名が登場した、伊藤玄二郎、川名昭宣、三輪喜久代、石塚雅彦、前田清子、小野寺夫人等には、それが、与えられている可能性がある。しかし、こちらの人々は、昼間に、対人折衝がある人物たちなので、実際には、行動をしない可能性が高い。やり始めたら『ゲームよりも面白いなあ』と、気に入ってしまい、病みつきになってしまい、昼間の任務が、順調に進行しなくなるだろう。だから、任務として、それを行っているのは、先に述べた専門家集団だとおもう。かれらがローテーションを組んで、行っているケースが多いだろう。

 ところで、これから、いよいよ、笠松敦子に入る。上に書いたことは昨日笠松敦子に関してネットサーフィンをしていて気が付いたことなのだ。だが、24時間以上起き続けているので、これから先は、今は、入力しない方がいいと思う。そして、いったん寝よう。

 しかし、総タイトルに書いた通り、やまゆり園事件直後に発表をされた、【手をつなぐ親の会】からの声明文は、笠松敦子が書いたとは、信じている。それは、あまりにも素早い対応だと、世間を驚かせた。だが、大学新卒時に、筑摩書房に、入社・勤務した彼女は、大学時代の成績において、私より優秀だったという自負はあるだろうし、その上に、メルマガ配信で、私のスピードぶりは、熟知して居るから、「あなたよりも、立派な文章を、より、早く書けますことよ。負けて居ませんことよ」という気持ちはあるだろう。

 しかし、これから先が、今なお、大いなる謎なのだけれど、彼女はあの事件が、95%は嘘で固められた事件であることを知っていて、それでもなお、その声明文を書いたのか、それとも、あれを、真実の事件だと、思い込んでいて、書いたのか、それが、判らない。

 なお、事件直後には、私にはそれが見つからず、で、読めなかった。そういう事も古村浩三君が妨害をしているからだと、考えたが、本日(=2018年1月16日、12:40)には、それが、読めた。実際に読むと意外と短いし、久屋厚子と言う署名もある。

 しかし、トップにjpeg ファイルとして置いた狛江市の、2002年の広報と同じく、コピペができない。それで、ファイル様式が違うことが原因かもしれないと思って、このパソコンで新しい用紙として、PDF(A4を開いた。そこなら、PDF様式と明記されているその声明文がコピペで写る筈である。しかし、移らない。さあ、どうするか、

 しかし、ここはペンディングにして寝よう。この件は頭がすっきりしているときに書くべきである。笠松敦子を敵側の人間として分析をしていく事は、私としても、心臓をえぐる程の事だからだ。

 以下の二冊は、笠松さんから献呈をされたものですが、下の方が紛失しています。また、山本冬彦の本は、笠松敦子さんが編集には、携わって居ないと、思いますが、筑摩書房刊ですね。笠松さん自身が、時間の制約を受ける勤め先としては、筑摩書房だけだったわけですし、ご主人の方は、最後まで、筑摩書房で、さらりーまんせいかつを送ったはずです。うーん、どうも自分の想像が当たっている様な気がしてきましたよ。しかし、いっぱい傍証づけを行わないといけません。

【ブッダは、なぜ子を捨てたか】山折哲夫著、集英社新書 2006年7月敢行、第三刷(八月発売)をもらう。

【たとえ世界が不条理だったとしても・・・・・朝日新聞社刊】2005年刊????

 

【本日の蛇足的追加】

 先ほど閉じてから、五時間が経過しています。29時間連続して起きています。ただ、もう一つ付け加えたいことができました。そのお話を語ってくれた相手には、守秘義務はない人だという事です。公認会計士でもないし、税理士でもないし、美術雑誌の編集者でもありません。だけど、語ってくれたわけをここで、気が付いたので、私が追加します。それは、二つあって、一つは、私が各画廊の特徴を、ものすごく的確につかんでいるという事に、相手が驚いて、尊敬をしてくれたという事があります。

 その画廊が、どういう作品を展示しているかという事については、抜群に正しい認識を持っています。 そこまで統括的なまなざしで、各画廊を見つめている人は、そうそうは、居ないのではないですか?

 もう一つは、それほどに頭がいい人なのにもかかわらず、人間が作る世界に於いては、不遇ですね。賞ももらったことがないし、お金も入りません。だから、とんでもないところから、とんでもない形で、神様がご褒美をくださるのです。そういうわけで、私は種を無限に拾い続けます。そして、元気で、文章を書き続けられるのです。冒頭に置いていますね。主人が、「昔の名前で出ていますだね」と笑ったという話を。

 その昔の名前の一つであるパリやニューヨークでの、経験を、今は、書いている暇がないのです。そして、今書いていることは客観的に見れば楽しい事でも明るい事でもありません。・・・・・こんな形で、攻撃をされました。・・・・・とか、・・・・こんなに損をしました。・・・とか、・・・・こんなに苦しいです。という内容ばかりです。それを飽きもせず、しかも、まったく、ひるまず書き続けているのは、信じがたいほどのマグマと言うか、エネルギーが内部にあるからなのです。どうして、それほどに内実が元気なのかと言うと、それは、やはり、神様の愛を感じるからです。『笠松敦子が裏切ってこようが、どうしようが、その分を、神様が補ってくださっている』と、ひしひしと感じるからです。

@@@@@ここが、書きかけ中のさいせんたんです。以下はメモです。

ロイヤルパークホテル【シリウス】内の壁画は?

 

#################

バスの入り口で、障碍者が、別の障碍者を、いじめていたが? △

2014-11-05 13:10:01 | 政治

 今、11月5日の、22時30分ですが、この一文の推敲が終わりましたので、恒例の△印を総タイトル横につけさせてくださいませ。なお、二万字未満で、完成したので、久しぶりに目次をいれます。

副題1、『今、路線バスを、あっち、こっちで、研究中ですが?』

副題2、『生涯で、初めて、朝、JR久里浜駅からバスに乗り、気が付いたことがあった』

副題3、『ところが、グーグル地図で、検索しても、それ(=障碍者が、共同作業をする場所、あまね)が、出てこないのだが?』

副題4、『JR久里浜駅のバス停では、入り口で、ほかの子を<乗っちゃあだめ。歩け>と、言って押し戻す子が、いたのだが』 

副題5、『あまね共同作業所は、学校(教育施設)ではないのだが?』

副題6、『ふと我に返って、鎌倉と、横須賀のブランド力を比較する私だったが?・・・・・実際には、横須賀の人も優しかった』

副題7、『笠松敦子さんのことなど、すっかり忘れていたのに? これは、きっと神様が与えてくれたチャンスでしょう。書くべきでしょうね』

副題8、『本日は、一日中、間が悪いことの連続であり、運が悪いこと、おびただしい一日でしたが、私自身は、超さわやかな気分であり・・・・・』

副題9、『午前一時に、さらに補筆』

~~~~~~~~~~~~

後注2、

ワシオトシヒコ、小宮悦子、ビートたけし(結核キャンペーンについて)

2011-02-16 21:57:16 | Weblog 

醍醐イサム、秋山祐徳太子、北側順一郎、ワシオトシヒコ

2012-05-07 08:39:12 | Weblog 

ワシオ・トシヒコ氏の駿河台大学への就職の際、週刊朝日が、経営者一族を恫喝していなかっただろうか?△

2015-03-16 21:32:27 | 政治

NHKスペシャル【空き家特集・杉並区篇・20101月】を使って、個人的に弾圧をされた私△

2016-10-29 22:57:15 | 政治

高木きよ子文学博士の死には、筋弛緩剤が?  ワシオトシヒコと、週刊朝日による、或る恫喝。大久保忠春氏の交通事故死と、上大岡の暴走老人との関係

2017-07-05 01:52:01 | 政治

データ1 以下は下書きだが、プレビューを利用してコピペしてここに置いておく、誰か、私以外の人間が入れたものであろう。私は2000年の一月2日には、まだ、このブログを解説して居ない。しかも、パククネ大統領が当選をしたのは、2013年である。参りましたね。こういう悪意ある悪戯をする人間がいることに。・・・・・これは、何を目的として行われたいたずらかと言うと、私がブログを開設した日を間違えさせることが目的であろう。これが、一番最初のブログとして、下書きとして、入って居たのだった。

20nichinoblog

2000-01-02 00:50:46 | Weblog

副題1、「朴クネ候補勝つ」

 ここの文章の書き方とかテーマ選びの際には、自分の頭に降りてきたことだけを書くとしていて、読者の皆様には、おもねらないように、すでになっているのですが、かといって、今回の衆議院選の結果への分析ばかり重ねていて、急発進している別のニュースを無視してもいけないのでしょう。いけないでしょう。


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