銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

パリで、極端に失礼な措置を受けたが、そこから、名誉回復に至る話

2014-07-03 13:53:08 | Weblog

 以下は、前報(後注1)の中に入っていた部分ですが、ソナタ形式で言うと、Bにあたる部分で、前段とも後段とも、かけ離れているので、ここで、独立をさせてくださいませ。

副題1、『パリで、経験してしまった人種差別と、それに拠る疑いの話に傷つく』

副題2、『同僚に監視された、悲しさが、二人目の監視役の登場で、さらに倍加する』

副題3、『疑われ、監視された挙句、私は工房をやめる決意をする・・・・・その後始末中に、であったこと』

副題4、『神様は、いらっしゃいます。パリにも・・・・・一転、反省して、助けてくださる先生』

副題5、『パリ・バスティーユでも、グレース・ケリーみたいな神様に出会った私』

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副題1、『パリで、経験してしまった人種差別と、それに拠る疑われた話』

 こちらの話は、すでに、時効であり、相手が特定される事もないと思うので、詳細に書きましょう。パリで、私は必ず、版画工房で、午前中早く、行って元から居るメンバーと、バッティングしない様に、使っていました。ところが、あまりにも大きなサイズの銅版の深堀をしたので、薬(塩化第二鉄)が、すっかり駄目になり、仕事が進まなくて、困りきっていました。そこはプロ相手の、良質な工房で、主宰者も立派な方でしたが、普段は、小さなサイズの、亜鉛版を使う方であって、それは、薬が硝酸と言う薬を使います。

 日本では、公募団体展と言うのがあって、作品のサイズが大きいのです。そこが、主宰者と私との、感覚や手法がまったく違ったところなのです。

 で、ご自分が塩化第二鉄をお使いにはならないので、効果がなくなっているという事に気がつかないのでした。私はパリでもニューヨークでも、一ヶ月5万円相当の、外貨を支払って、使わせてもらっていたので、「薬がもう駄目になっています」といえばよかったのですが、今から16年前の事で、私自身が、いわゆる「ねんね」チャンで、自己主張ができないタイプでした。その後の、二回のニューヨークでの、もまれあいで、急速に大人になっていくのですが、パリ時代は、まだ、子供と言うか、過保護で、育ったままで、大切な事を、上手に言い、相手に伝えるということができなかったのですね。で、仕事が、進まないことには、内心でいらいらしていたし、残念には思っていました。

 それは、先生にはわかっておられたのです。で、スペインに一週間出張をなさる事になって、その間に「絶対に、硝酸を使わないでくださいね」といわれ、硝酸は高い棚にしまい込れました。私は無論のこと、硝酸を、使う気はありませんでした。ただ、高い棚に危ない薬(皮膚につくと、痛い筈です)をしまわれたこと自体に、深く傷ついてはいました。人種差別なんだろうと思います。先生の方が、相手を軽蔑しているから、私の言っている事(=硝酸は使いません)が信じてもらえない。

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副題2、『同僚に監視された、悲しさが、二人目の監視役の登場で、さらに倍加する』

 ところで、先生がスペインに出発された次の日の事です。そこにはプレスと言う、銅版画を作る機械が、二つ置いてあります。もうひとつリトグラフ用の機械がありますが、それは、大富豪の子息らしい男性が、専用で、使っています。で、私が早朝に工房へ行くのは、二台しかない機械のうち、ひとつは摺り師が専用で使っているので、7,8人いる所属している版画家が、使う機械が、一台しかないからです。よく慣れている版画家同士だと、二人ぐらいが、一緒に一代の機械を使うことはできますが、私の様に、急に入った人間は相手も、私の事を知らないわけなので、ひとりで、使う方がよく、私は早い時間に行っていました。ところが、ちっとも、銅版に模様が付きません。薬の効果が無いからです。それで、3時間ぐらい銅版の保護膜の手当だけをして、かえると言う日々で、本当に時間が無駄になることには、イライラの極には達していました。

 それで、本当なら、午前7時にそこへ向かって家を出て、午後一時に帰ってくるはずでした。ところが、すでに、しごとが進まない時期だったので、午前8時に家を出て、工房へは、9時につきました。これですが、日の出の関係で、日本で言う、午前七時についたというのと同じ、感じです。すると、一時間後の、午前10時に、摺り師さんが来ました。いつもより一時間も早く。しかも、仕事を始めません。その時点で、彼が監視役を頼まれている事がわかり、私はぎょっとして、早めに仕事を切り上げました。

 ここですが、もし、私が、芸大の教授であるとか、東大の教授だったら、こう言うことは起こらないと思います。やはり、無官であるということは、大きいです。ところが、無官であっても、結構育ちが良くて、高い節操を持っています。だから、先生に約束をした硝酸を使わないということを破るはずは無いのです。だが、先生の方では、それを信じていません。それが、多分、金曜日でした。芸術家のフェスティバルも、週末を挟んで行われるらしく、次の日が土曜日です。私の方は、滞在期限、最終月の、11月に入っていましたので、次の日は気分を入れ替えて、出かけました。土日も無く作業をしていました。フランスパリ在住の芸術家で、土・日に工房に来る人間はいなくて、その疑いを受ける前までは、いつも一人で、作業をしていました。

 ところが、びっくりした事に、そんなに朝早くは来た事が無いオフィーリア(仮名)が、非常に朝早くやってきたのです。オフィーリアも何もするでもなく、でも、私の傍にずっと居ます。で、私は彼女と英語で会話を交わしながら、おとなしく上品な彼女はその日、特別に悲しそうに見えるので、「どうしたの?」と質問をしました。これは、『先生に頼まれて、監視役を努めているのではないの?』と言う意味で聞いたのではありません。

 すると、彼女は、「友達と約束をしているけれど、間に合うかしら?」といいます。私はすぐ気がつきます。『毎日、リトグラフを製作に来る青年と恋をしているんだわ』と。だが、オフィーリアは、フランス人ではありません。その上、大富豪の息子と恋愛に入っても、相手の両親に認められるかどうかはわかりません。しかも、相手も芸術家です。芸術家同士の恋愛は難しく、かつ、オフィーリアは、極端に繊細でした。その時点で、まだ、仕事に入っていなかった私は、「オフィーリア、今日は土曜日だから、私も仕事をしないわ。一緒に帰りましょう」といいました。そうでも言わないと、監視役のオフィーリアは安心して、デートへ迎えないのだと言うことが、解っていました。

 工房から、バスティーユまでは、歩いて20分ぐらいかかります。もし、工房から五分程度の場所にある地下鉄の駅を利用すれば、15分で行かれます。その差は、5分程度ですが、地下鉄を使った方が早いでしょう。

 ところが、オフィーリアは、歩くといいます。それほど、気急いでいるのでした。かわいそうにと思いながら、それでも、オフィーリアは、私が最も、好ましく思っている版画家だったので、「私も、バスティーユまで歩くわ」、と、語りました。何故そうしたかと言うと、『これが、オフィーリアとの最後の、時だわ。以降、私は工房の誰とも会わないでしょう』と考えていたからです。プラチナブロンドで、青い目で、いつも静かな彼女は、私にとって、本当に好ましいヨーロッパ人の典型でした。そのひとと、こんなに悲しい別れをしなければいけないなんて、なんて、切ないことでしょう。

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副題3、『疑われ、監視された挙句、私は工房をやめる決意をする・・・・・その後始末中に、であったこと』

 さて、私は土曜日には「やめる」と決意したのですから、日曜日には、朝五時に家を出ました。これは、先ほど来言っている様に、日本で言うと朝の三時に当たります。それほど、早く出かけたのは、誰にも会いたくなかったからです。それでも、念のために、午前8時(パリ時間で言うので、日本の感じだと、午前6時に工房を出ました。日曜日は誰にも会わなかったのですが、版画工房から去ると言うのは、簡単な事では無いのです。物すごく荷物は多いし、その荷物が、段ボール箱に治まるという形でもないのです。特に、一版多色摺り用の、金属芯が入った、ゴムローラー大小四本を買っていました。これが、46万円もするもので、非常に重いのです。そう言うものも含めた大荷物ですから、5日で、解決できるかどうかがわかりませんでした。ともかく、撤収二日目の月曜日も誰にも合わず、火曜日に入ったところです。絶対に早く帰ろうと思っていたのに、紐をかける仕事とかで、思いがけず、時間がかあkり、摺り師さんが、来てしまいました。

 摺り師さんは、すぐ異常に気がつき、「どうしたの?」と言ってきます。私は説明したいのですが、フランス語会話が自由にできません。一方、摺り師さんは、職人であって、英語ができません。私はパリに行く前に一通りのフランス語は履修しました。ところが、到着した途端に、自分が付き合いたいレベル(画廊のオーナーとか、芸術家達など、パリでは、社会的に高い尊敬を受けている階級)の人達には、英語が通じるのが、解ったので、すっかりフランス語を捨ててしまっていました。で、50を過ぎて、習ったフランス語は、自由自在には使えません。

 『先生に<きっと硝酸を使うだろう>と疑われて、かつ、監視されるなんて、悲しくてたまりません。先生がスペインからお帰りになる前に、全ての荷物を撤収して、ここにはもう来ないつもりです』と言いたいのですが、言えません。そして、摺り師さんも、適切な質問ができません。

 だけど、摺り師さんは、結局は、『何故、私がこう言うことをやっているか?』については正しく理解はできるのです。で、「ノン、ノン、」といいます。とても、心配げで、優しい言い方で。つまり、「辞めるのは止めなさい。大丈夫ですよ。大丈夫です」と、言っています。きっとそうです。フランス語を、私はわかりませんが。

 で、もともと、優しい人が、本当に心配げに、そう言ってくれているのを聞いているうちに、私は、突然に、涙が溢れ出して来てしまいました。たまたま、私の左隣に鏡があったので、そこに映った自分の姿が見えてしまいました。鼻水が、つつつーっと、50cmの長さで、垂れ下がるほどの、激しい慟哭でした。

 パリは初めての海外滞在でした。一人暮らしで、バスティーユで、到着9日目に拉致されそうになったり、鍵やに脅かされたり、いろいろあって、緊張のきわみだったのに、最後の最後に、先生に人間としての基本的な部分で節操を疑われるという悲しさ。そして、職人特有の、時間に正確な事から、先生から見込まれ、監視役をになっている摺り師さんの、元から優しい人の、さらに、優しい態度に接している今の惨めな自分を鏡の中に見なくてはいけないのでした。

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副題4、『神様は、いらっしゃいます。パリにも・・・・・一転、反省して、助けてくださる先生』

 彼は純粋なパリジャンで、ルイ16世みたいな風貌の人です。荒々しい言葉を吐いたのを見た事が無い人です。いつも静かで、口数が少ない人です。その人の最大限の優しい態度。彼は、事務所から、先生のホテル、または、携帯(これは、1998年の事で、パリでも、全ての人が携帯を持っている時期ではなかったのですが)に電話をかけて、先生と電話がつながった時点で、私をよびました。

 私は先生と直接に話をしました。先生は、強く、「辞めるのは、止めなさい。今、仕事を放り出すと、摺りが完成していないではないでしょう。それでは、仕事をしたことには成らないです」とおっしゃいます。英語で。で、私も「はい」と言いました。で、先生とは、疑われた事も、監視をされた事も、その時もそれ以降も口に出して話し合ったことはないです。でも、最大に、上手にコトは解決しました

 それこそ、神様のお計らいでしょう。最上の形で、収拾しました。出、大急ぎですりに入りました。時間は一週間程度しか残っていませんでした。版画と言うのは乾燥に、一週間以上かかるのです。まっ平らに乾かすために、重石を載せて、乾かすからです。その上、その大判を傷めない様に、日本へ持って帰ないといけません。

 普通のタイプの銅版画だと、付着しているインクの層が薄いのです。くぼみそのものが何ミクロンの世界ですから。だから、丸めてもあまり痛みません。しかし、私の版画は厚くべっとりとインクが付着している手法なので、まっすぐにして持って帰国しないといけないのです。

 で、木枠を自分で作らないといけません。それらの準備にも一週間を見込むと、本当に時間が残っていないのでした。幸いな事に先生は、薬を新しくしてくださったので、制版と言う模様付けの部分もさっと進み、やっと摺りの仕事へ入ったのですが、その摺りの時間が一週間しか無いのです。する都先生が午後からも使っていいとおっしゃいました。で、私は他の版画家が、見ている前で、午後も仕事をすることと成りました。

 そして、その事で大きな学びも得る事ができました。最終段階では、感謝、感謝の時間の連続でした。もし、硝酸使用の疑惑の、最初の段階で、自分が意見を言うタイプだったたら、どうなっていたかを考えると、ぞっとします。

 ・・・・・特に土曜日は、英語がよくわかるオフィーリアが、監視役を果たしたのですから、オフィーリアに、「ねえ、私は、解っているのよ。あなたが監視役だって言う事を」とでも、言う事は可能だったと思います。だけど、それを言って、どうなっただろう。関係が最悪になって終わりだったと思います。我慢をする事、こちらが引く事はいい解決をもたらすのです。

 ああ、だが、この雪ノ下の30年間を引き比べると、なんと違う事でしょう。私の方は、引いていたのですよ。20年間も。タイテイの事は言上げせずに、引いて来たのです。だが、パリ時代とは、まったく違った反応が返ってくるのです。

 それが、キリスト教を土台にした欧米インテリの文化と、それが無い日本文化の違いだと思う。キリスト教には、人間が全て平等だという観念が、基本に有るのです。以前も言ったとおり、絶対神としての大いなるものが在るので、その前の人間とは、小さいものです。そう言う謙虚さの事です。それが、欧米人にはあるが、日本人には無い。ただ、数の論理で、勝てば、事が解決すると考えています。そこは圧倒的に違います。

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副題5、『パリ・バスティーユでも、グレース・ケリーに似た神様に出会った私』

 で、感謝の心を持って、夕方まで、工房にいるわけです。すると、夕方(または、ラッシュアワー)に乗換駅の、バスティーユ駅につくことと成ります。ある日、乗り換え用の、構内を歩いていたら、馬鹿に放送が、繰り返されるし、煙くさいのです。それで、周りに居る、英語がわかる人に質問をしてみると、「タイヤが燃えたんです」といいます。怪訝な顔を私がすると、「パリの地下鉄やタイヤで、動いているのです」と、教えてくれました。電気で動いているのは東京やニューヨークの地下鉄と同じなのですが、車両を支えて走る足の部分だけが違うのです。

 で、白煙が満ちている理由も判りました。バスティーユから乗り換えて、次の駅、サン・ポールが私の降りる駅です。地上に出て歩いても、15分もかかりません。だけど、珍しい現象なので、どういう風に解決するのかが見たくて、じっと、構内にたたずんでいました。

 すると、まさしく、掃き溜めに鶴と言う感じの女性が、向こうから歩いてきました。20mぐらい向こうに居る時から、際立っていました。実は、パリの、サンポールあたりとか、ボージュ広場を散策している観光客は、黒髪で、背の低い人が多いのです。

 が、彼女はすらっと背が高く、しかも正真正銘の金髪でした。また、1998年は、パリの人は(地下鉄を利用する階級の人ですが)、ポリエステル系のアノラック風のものを着ていました。私のお隣にすんでいた紳士は極めて階級の高そうなしかもインテリの独身の紳士でしたが、彼が来ているベージュ色のウールのロングコート等、他には、着ている人はめったに居ません。

 ところが、20m先から、こっちへ向かって歩いてくる金髪の美女は、プリンセスラインの薄いベージュ色のウールのロングコートを着ていました。多分、テレビには出ない階級の人で、(それが、上流階級だということを意味するのは、欧米でも同じだろう)だから、私はその人の名前を知りませんが、たとえて言えば、グレースケリーみたいな女性でした。その日とは私の目の前で、とまり、英語で、「ねえ、あなた、これは、どういうことなのでしょう。教えてくださらない?」と言いました。

 私は本当にびっくりしました。彼女は極めて目立つ人です。しかし、全身黒づくめの私はまったく目立たないでしょう。しかもあたりには、数百人の人が群れているのです。『どうして、このレディは私を選んでくれたのだろう』と、不思議でした。しかも、20mもむこうから選んで、くれたのです。

 皆様、エリートと言う言葉の語源をご存知ですか? 日本では概念として東大を卒業して一部上場の一流企業に勤めているということなどをさすと思います。だけど、語源は、神に選ばれた人と言うことをさします。私は、その輝くように明るい色のお洋服を着たレディを、神の化身と考えています。そして、あの時、自分は神様に選ばれたのだと、感じました。あの頃、私はいろいろな人に親切にされていました。アパルトマンの上下階の人たち、工房の先生以外の版画家達・・・・・そして、島田先生の意を受けて、アパルトマンの管理をしている骨董商の人・・・・・そして、骨董フェアに行くのが早すぎたのに、非常口を開けてくれた、別のお店の人たち。会う人会う人に親切にされました。それは、結局は神のアガペーに、満ち満ちていた世界なのです。それが1998年の事でした。

後注1、

銀座、パリ、大阪、徳山、鎌倉を舞台として、神か悪魔か?・・・その一方に化身した人間達の話□

 なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、2294356です。

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