今日は、我が家では、深夜、時間を定めぬ停電があるそうで、書いたり送信したりするのが落ち着きませんので、海外のことではなく、皆様もよくご存知でありましょう、日本のある歌について、述べたいと思います。
私は、音楽は、『下手の横好きです。ただ、35歳ごろ、それは、ほぼ、30年前のことですが、どうしても、必要があって、PTAの打ち上げ会で歌を歌いました。それはね、何と、春日八郎の『長崎の女(ひと)』だったのですが、カラオケの無い時代で、まあ、テレビからだけ、それを、聞いて知っている、お母様がたから、やんやの喝采を受けたのです。
裏にさまざまな事情がありました。私はそのとき、PTAの会長だったのですが、それは、園長から任命されたものだったので、お母様方は納得をしていなかったのです。つまり、『川崎さんって、普通の人じゃない。別に私たちより優れている所は、何も無いでしょう。それなのに、なぜ、彼女が会長をやっているの? 車だって運転できないし、私たちを駅まで送迎さえしてくれないじゃないの」と言う不満が重積していました。
もっとはっきりと真実を言うと、その幼稚園では、24名の先生の夏冬のボーナスをPTAがバザーで稼ぎ出さなくてはならない暗黙のルールがあったのですが、私は、秘かに『それは、変だなあ? 450人も園児が居るのだから、園の授業料(当時で一万円以上)を丁寧に計算すると、絶対にボーナス程度は、授業料から出せるのに』と思っていて、前年度の平役員のときにそれを、意見として、公の席(役員会)で、発表してしまったのです。それが真実だったからこそ、園長先生(故人)は、私を怖れて、一番偉い人として壇上にまつり上げてしまい、意見が言えないようにしてしまったのです。
前任者は、大変な大金持ちの奥様で、外車で、役員の中の内閣の人、5,6人だけは駅まで送迎するほどの大器でしたから、普通のサラリーマンの奥さんである私は、奉仕の実行・能力の面で劣るわけですから、平役員のお母様がたからの人気が出なくて、散々な思いをしていたのです。
それで、何か皆さんを楽しませて、打ち上げ会だけは有終の美を飾りたいと考えました。バザーが終わって、打ち上げ会までの数ヶ月は、ものすごく勉強しましたよ。全音楽譜出版社が出している赤い表紙のプロ向けの歌謡曲の楽譜集。同じく青い表紙のフォークソング集。音楽の友社が出している、海外の民謡の類。オペラの名曲アリア集の類。どこか、出版社は忘れたが、最新の映画音楽の楽譜集。
それらの、楽譜を本箱に立てると、幅が、50センチになるぐらい買ってきて、片っ端からピアノを弾いて、自分で歌えるかどうかを確かめていきました。音域の問題、好き嫌いの問題。それとともに聴いてくださる相手の問題もあります。
50人居る平役員のお母様の音楽性、好みは種々さまざまでしょう。私は歌謡曲集から、3曲ぐらい、映画音楽から、これまた、3曲ぐらい、そして、オペラアリアから、3曲ぐらいを、最後にフォークソングから3曲ぐらいを選び出して、骨身にしみるほど、何度も練習をして、暗譜をしました。
ともかく、パフォーマンスと言うのは、絶対に、恥ずかしがっては駄目なのです。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、が、これほど通じる世界も無いでしょう。自意識を捨てないと駄目なのです。
それは、不思議なことに、私には直感として判っていて、小さい頃から、発表(特に総代として、送辞とか、答辞を読む場合には)上がったことはありません。母が「この子は繊細なのに、何かを人前で発表するときだけは、度胸が据わっている。不思議ねえ」とよく言いましたが、つまり、花伝書で書いてあるような奥義(自意識を捨てよ)は、不思議と判っていたのです。
でも、言葉を読むのは、大丈夫なんですが、歌を歌うのはさすがに緊張して、高校時代までは音楽の試験は、怖くて、怖くて、まったく、駄目でした。人前では、歌えなかったのです。ただ、コーラスなどで目立たない形で歌うときは、目の前に座っているお友達から、「声がよいのねえ。知らなかった」といわれたりして、のびのび歌えれば、声がよく出ることは、自覚をしていたのです。
それでね。打ち上げ会は、豪華な宴会場で、豪勢な食事がでて、プロのギター弾きも呼ばれておりました。繰り返しますが、まだ、カラオケの無い時代です。だから、プロのギター弾きと言う職業があったのです。
私は、最初は、フランクシナトラのマイ・ウエイを歌いました。それは、そのときの私の気分にはぴったりだったの「ですが、これは、何にも受けませんでした。お母様方も、プロのギター弾きも、会場に居るほとんど誰も、この曲を知らなかったのです。
で、『今日は駄目だ。目的は果たせなかった』と思いながら、静かに食事を皆さんと一緒に目立たないように、とっていると、もう一度チャンスが訪れました。今度は私は下座のマイクを握り、間にお母様方をすべて、包み込む形になりました。上座にはさっきのギター弾きがマイクの前に居ます。「これから、春日八郎の『長崎の女(人)』を歌います」というと、ギター弾きは、知っている曲ですから大喜び、ジャンじゃか・じゃんじゃんと前奏をはじめ、私も声量はない人ですが、マイクを使うので、堂々と歌えました。
お客様が乗っているのが、見えたら、二番から、ギター弾きがデュエットとして、伴奏者としての自分の役割を忘れて、主役として、大声で歌い始めました。それで、私は、三番は彼の独唱へすべてを任せ、各・間にある、コーラス部分(これが、私の35歳当時の、音域にぴったりだったのです)を伸びやかに歌い、彼のサポート役へ、回りました。
三番までが終わったら、やんやの拍手、・・・・・帰途も、私は、なでるように、自分の体を若いお母様がたから、」触られながら、「川崎さんがね。なんで、PTAの会長を遣っていたか、やっとわけがわかった。川崎さんって、普通の人と全然ちがうんだもの。だから、会長に選ばれたのね」と、口々に言ってもらえました。なんと、ほっとしたでしょう。・・・・シンプルにして明るく(ハ長調です)、しかも情感も充分にある、・・・・・この『長崎の女(人)』が、大きくも、私の名誉挽回に役立ってくれました。
その後、東大を出ている親戚のひとに、このエピソードを話したら、「え、ちっちゃん(私の幼名)は、演歌を歌うの?」とびっくりされましたが(30年以上前のことですが)、私は音楽の領域に関しては、偏見を持っておりません。当時も今も、クラシックも演歌も、良い歌は大好きです。しかし、全部の曲を歌えるわけではなくて、やはり、自分向きの歌と言うのはあります。そして、今は忙しくて、音楽の練習は一切遣っておりません。本を作ることに打ち込んでおります。
ただ、66歳の今でも歌おうと思ったら、歌えます。自然に歌っております。
2008年11月25日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
私は、音楽は、『下手の横好きです。ただ、35歳ごろ、それは、ほぼ、30年前のことですが、どうしても、必要があって、PTAの打ち上げ会で歌を歌いました。それはね、何と、春日八郎の『長崎の女(ひと)』だったのですが、カラオケの無い時代で、まあ、テレビからだけ、それを、聞いて知っている、お母様がたから、やんやの喝采を受けたのです。
裏にさまざまな事情がありました。私はそのとき、PTAの会長だったのですが、それは、園長から任命されたものだったので、お母様方は納得をしていなかったのです。つまり、『川崎さんって、普通の人じゃない。別に私たちより優れている所は、何も無いでしょう。それなのに、なぜ、彼女が会長をやっているの? 車だって運転できないし、私たちを駅まで送迎さえしてくれないじゃないの」と言う不満が重積していました。
もっとはっきりと真実を言うと、その幼稚園では、24名の先生の夏冬のボーナスをPTAがバザーで稼ぎ出さなくてはならない暗黙のルールがあったのですが、私は、秘かに『それは、変だなあ? 450人も園児が居るのだから、園の授業料(当時で一万円以上)を丁寧に計算すると、絶対にボーナス程度は、授業料から出せるのに』と思っていて、前年度の平役員のときにそれを、意見として、公の席(役員会)で、発表してしまったのです。それが真実だったからこそ、園長先生(故人)は、私を怖れて、一番偉い人として壇上にまつり上げてしまい、意見が言えないようにしてしまったのです。
前任者は、大変な大金持ちの奥様で、外車で、役員の中の内閣の人、5,6人だけは駅まで送迎するほどの大器でしたから、普通のサラリーマンの奥さんである私は、奉仕の実行・能力の面で劣るわけですから、平役員のお母様がたからの人気が出なくて、散々な思いをしていたのです。
それで、何か皆さんを楽しませて、打ち上げ会だけは有終の美を飾りたいと考えました。バザーが終わって、打ち上げ会までの数ヶ月は、ものすごく勉強しましたよ。全音楽譜出版社が出している赤い表紙のプロ向けの歌謡曲の楽譜集。同じく青い表紙のフォークソング集。音楽の友社が出している、海外の民謡の類。オペラの名曲アリア集の類。どこか、出版社は忘れたが、最新の映画音楽の楽譜集。
それらの、楽譜を本箱に立てると、幅が、50センチになるぐらい買ってきて、片っ端からピアノを弾いて、自分で歌えるかどうかを確かめていきました。音域の問題、好き嫌いの問題。それとともに聴いてくださる相手の問題もあります。
50人居る平役員のお母様の音楽性、好みは種々さまざまでしょう。私は歌謡曲集から、3曲ぐらい、映画音楽から、これまた、3曲ぐらい、そして、オペラアリアから、3曲ぐらいを、最後にフォークソングから3曲ぐらいを選び出して、骨身にしみるほど、何度も練習をして、暗譜をしました。
ともかく、パフォーマンスと言うのは、絶対に、恥ずかしがっては駄目なのです。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、が、これほど通じる世界も無いでしょう。自意識を捨てないと駄目なのです。
それは、不思議なことに、私には直感として判っていて、小さい頃から、発表(特に総代として、送辞とか、答辞を読む場合には)上がったことはありません。母が「この子は繊細なのに、何かを人前で発表するときだけは、度胸が据わっている。不思議ねえ」とよく言いましたが、つまり、花伝書で書いてあるような奥義(自意識を捨てよ)は、不思議と判っていたのです。
でも、言葉を読むのは、大丈夫なんですが、歌を歌うのはさすがに緊張して、高校時代までは音楽の試験は、怖くて、怖くて、まったく、駄目でした。人前では、歌えなかったのです。ただ、コーラスなどで目立たない形で歌うときは、目の前に座っているお友達から、「声がよいのねえ。知らなかった」といわれたりして、のびのび歌えれば、声がよく出ることは、自覚をしていたのです。
それでね。打ち上げ会は、豪華な宴会場で、豪勢な食事がでて、プロのギター弾きも呼ばれておりました。繰り返しますが、まだ、カラオケの無い時代です。だから、プロのギター弾きと言う職業があったのです。
私は、最初は、フランクシナトラのマイ・ウエイを歌いました。それは、そのときの私の気分にはぴったりだったの「ですが、これは、何にも受けませんでした。お母様方も、プロのギター弾きも、会場に居るほとんど誰も、この曲を知らなかったのです。
で、『今日は駄目だ。目的は果たせなかった』と思いながら、静かに食事を皆さんと一緒に目立たないように、とっていると、もう一度チャンスが訪れました。今度は私は下座のマイクを握り、間にお母様方をすべて、包み込む形になりました。上座にはさっきのギター弾きがマイクの前に居ます。「これから、春日八郎の『長崎の女(人)』を歌います」というと、ギター弾きは、知っている曲ですから大喜び、ジャンじゃか・じゃんじゃんと前奏をはじめ、私も声量はない人ですが、マイクを使うので、堂々と歌えました。
お客様が乗っているのが、見えたら、二番から、ギター弾きがデュエットとして、伴奏者としての自分の役割を忘れて、主役として、大声で歌い始めました。それで、私は、三番は彼の独唱へすべてを任せ、各・間にある、コーラス部分(これが、私の35歳当時の、音域にぴったりだったのです)を伸びやかに歌い、彼のサポート役へ、回りました。
三番までが終わったら、やんやの拍手、・・・・・帰途も、私は、なでるように、自分の体を若いお母様がたから、」触られながら、「川崎さんがね。なんで、PTAの会長を遣っていたか、やっとわけがわかった。川崎さんって、普通の人と全然ちがうんだもの。だから、会長に選ばれたのね」と、口々に言ってもらえました。なんと、ほっとしたでしょう。・・・・シンプルにして明るく(ハ長調です)、しかも情感も充分にある、・・・・・この『長崎の女(人)』が、大きくも、私の名誉挽回に役立ってくれました。
その後、東大を出ている親戚のひとに、このエピソードを話したら、「え、ちっちゃん(私の幼名)は、演歌を歌うの?」とびっくりされましたが(30年以上前のことですが)、私は音楽の領域に関しては、偏見を持っておりません。当時も今も、クラシックも演歌も、良い歌は大好きです。しかし、全部の曲を歌えるわけではなくて、やはり、自分向きの歌と言うのはあります。そして、今は忙しくて、音楽の練習は一切遣っておりません。本を作ることに打ち込んでおります。
ただ、66歳の今でも歌おうと思ったら、歌えます。自然に歌っております。
2008年11月25日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)