おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

宗教嫌い

2022-08-11 13:29:04 | 日記
 久しぶりに本屋に行った。目的の本を買い、雑誌のコーナーを通りかかると、NHKのEテレでやっている番組のテキストが目に入った。「歎異抄にであう 無宗教からの扉」(阿満利麿)というもので、何気なく手に取ってページをめくってみた。数ヶ月前に「歎異抄」はひと通り読んだものの、難しくて僕の頭では半分も理解できなかったからだ。

 で、とりあえず頭の部分だけ読むと、なかなか興味深いことが書いてある。ある世論調査で、日本人に何か信仰していますかと尋ねると、74%の人が「持っていない、信じていない、関心がない」と答えるという。つまり7割以上の人が「無宗教」ということになっている。が、そもそも「宗教」という言葉が、明治になって新たに造られた言葉であり、世界的に見れば「無宗教」なんて言葉は日本でしか通用しない言葉なんだそうである。

 では、明治政府はなぜそんな言葉を新たに作る必要があったのかと言うと、欧米諸国に追いつけ追い越せと考えていた政府は、西洋社会にはキリスト教という確固たる宗教が存在していたことが、文明の証だと考えたからである。そうとなったら、日本にもキリスト教に代わる国教を作らなければならない。それが「国家神道」というものだった。

 そもそも宗教にはふたつあるという。教祖や教団などのプロの宗教家がいる宗教を「創唱宗教」と言い、地域や家庭で代々伝承されてきたような習慣を「自然宗教」と言う。面白いのは、自分が無宗教だと答える日本人も、「ご先祖を大切にしよう」とか「悪いことをするとバチが当たる」というような宗教心は大切だと答える人は、6割弱いるという現実である。つまり、日本人は「自然宗教」は大切だと感じながら、「創唱宗教」については、「ちょっと待てよ」と一歩引いて身構えているということである。

 これは、「宗教」という言葉を明治政府が作り出した時から、庶民の間では何やら面倒なことが行われるんじゃないかという危惧が、日本人をして「自分は無宗教である」という意識を生み出したのではないか。宗教的には無宗教でも、信心深い人というのは意外と多いのが日本人の特徴だと言えるだろう。

 明治政府が西洋に追いつくために作り出した「国家神道」は、国民に強要するために、信心、信仰心というものから離れ、国民が服さなければならない「掟」となった。「掟」となれば信心の自由はない。それ以来、日本人は「宗教」という言葉を聞くだけで、なんとなく薄気味悪い圧力みたいなものを感じるようになったのである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 暑いのを楽しむ | トップ | 微妙な関係 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事