徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「火宅の人」―追悼・緒形拳―

2008-11-30 10:00:00 | 映画

この秋、俳優緒形拳さんが急逝して、早いもので2ヶ月になる。
その緒形拳の追悼特集を、ミニシアターで覗いてみた。
その日、上映されていたのは、檀一雄原作「火宅の人」であった。
20年も前に、一気にタイムスリップだ。
ま、たまにはそれもいいかと・・・。(いや、結果的にはよかったわけでして・・・)

この作品は、作家檀一雄が20年の歳月をかけ、死の床に完成した執念の大作だ。
日本文学大賞、読売文学賞に輝き、東映で映画化されたのは86年のことである。
翌年の日本アカデミー賞で、最優秀主演男優賞、最優秀作品賞などの各賞を総なめにした。
緒形拳の代表作のひとつである。

一家族の夫であり父である作家の、自由奔放な、凄まじいまでの半生が描かれる。
家族があるのに、家を飛び出し、女たちと出会い、そして別れ、酒に溺れ、とめどない放浪を繰り返し・・・、その壮絶な孤独の中で謳い上げた、豪放な魂の告白といったらいいだろうか。
これはもう、作家檀一雄その人の投影だ。

その放埓な生き様は、一人の人間のそれ自体生そのものであり、人と人、男と女の出会いと別れを、豊かな日本の情景の中に描いている。
男の放浪の背景には、ほろ苦い哀愁と抒情が漂っている。
ここでは、男は、十和田湖、五島列島、阿蘇など、日本の各地の旅情をさすらう旅人である。
ときに悲しく、ときに可笑しく、自分の人生を謳歌する。
それは、作家檀一雄(緒形拳)だ。
何があろうとも、あくまでも自分に忠実に生きようとする男の<哀れ>が、或る種の文学的な香気を放っているように見えるから不思議である。

この作品を懐かしく観て、緒形拳を偲び、また檀一雄への想いをあらたにした。
深作欣二監督文芸大作だが、いま観ても古さを感じさせない作品だ。
いしだあゆみ、原田美枝子、松坂慶子、檀ふみ、蟹江敬三らの名だたるキャストも、当然若々しい。
古い作品だが、結構面白く出来ていて、楽しめた。
よき時代の、よき日本映画の代表作でもあろう。
いまは亡き、俳優と作家を共に偲ぶことのできたひとときだった・・・。


麻生マンガ劇場―幕はいつ降りる?―

2008-11-28 17:30:00 | 寸評

あの狂ったような小泉劇場から久しく、いま、麻生マンガ劇場が連日大賑わい(?!)とは、困った驚きだ。
もう、どうにも止まらない。山本リンダの元気な歌声が聞こえてくるような・・・。

失策、失言、妄言・・・、毎日がバカ騒ぎの日々だ。
軽佻浮薄というが、麻生総理の迷走、暴走が止まらない。

「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」といきまき、怪我を「かいが」と読んで失笑を買い、党内からも、連日の総理の醜態に苦言が続出している。
日本の社会保障制度を、否定するかのごとき言葉まで飛び出した。
支え合う仕組みがあって、それがあるから安心できるという共生の理念が分かっているのか、いないのか。
国のトップの言葉と言えるか。
自分が損をしていると言うが、目の前のことしか視野に入っていないのか。

漢字が読めないどころではない。
まるで、低俗な麻生マンガ劇場だ。
テレビまでが、特設コーナーを設けたりしている。
一体どうなっているのだろう。
麻生総理のKYは、いまや、空気が読めない、漢字が読めない、解散をやれないの、三つの方程式だそうである。
そういう人が、日本のトップなのだ。

官邸では、官房副長官や首相秘書官までもが、漢字の読めない総理のために、その都度間違いを指摘して、大きくマスコミに報道されないようにすることを決めたそうだ。
それで、国内でも、彼らは麻生総理の“お直し係り”として、つきっきりで“お世話”をしているというではないか。

どうも肝心の経済政策は中ぶらりんだし、解散はどんどん先送りで、遠のいた。
中学生レベルの漢字は読めない。
スピードを売り物にしていた総理が、人の書いた原稿に振り仮名を振ってもらって読み始めた。
そして、ただひたすらに解散を回避し、政権の延命だけに執心している。
政局の混迷は当分続くだろう。
もう、どうにも止まらない。うんざりだ。

世論調査で、国民の60%が経済政策より解散優先だと答えている。
それも、無視か。
このノーリターン政権のおかげで、世相の荒廃はどんどん進む。
失業率と犯罪発生率の増減は一致するのだそうだ。
日本では、さらに自殺率も高まる。
ワーキングプアは、1700万人にも達していると言われる。
明日を見失った若者の不満や不安が、社会への復讐に走る。
犯罪や自殺が急増する事態は、そのこととあながち無縁ではない。
混迷と狂気が怖ろしい。
この国の、この荒廃は何が原因か。

天下の宰相が、その場その場で、へらへら軽口を叩く。
チンピラみたいだと言われる。
悲しきは、伴食宰相の軽佻浮薄、ここに極まれり、である。

誤読、失言を指摘されて、ぶっきらぼうな言葉で謝罪と撤回を繰り返している。
口は災いのもとだ。
マンガ読み総理のマンガ劇場は、一日も早く終わらせて頂きたい。
口から出た言葉は、もう取り返しがきかないことを銘記すべきだ。
せめて、常識ある指導者はいないのか。
綸言、汗の如し。
・・・え~っ、それ、何のこと・・・?
(・・・嗚呼!)


映画「いのちの作法」―人々に笑顔と元気を―

2008-11-26 09:00:00 | 映画

心温まる、長編記録映画である。
昭和30年代に、日本で初めて、老人医療費の無料化や、乳児死亡率ゼロを達成した町が岩手県にある。
旧沢内村、現西和賀町のことだ。
豪雪・貧困・多病多死の三重苦に苦しんでいた村は、「住民の生命を守るための地域づくり」に取り組んできて、日本一の保健(福祉)の村になったのだった。
いのちの大切さ、「生命尊重の理念」を前面に押し出した、一地方の行政が注目されている。

福祉とは何か。福祉行政はどうあるべきか。
この問いに、答えようとしている。
作品に、派手さはない。
高齢者、子供、身障者に、元気と限りない優しさをもたらす、画期的な事業に取り組んでいる過疎の町である。
その町の姿を映し出した、珍しい記録映画だ。

人間の尊厳を訴え続けながら、“生きる勇気”を与えようという町是が息づいている。
奥羽山脈に抱かれた、水と森の町の話だ。
時には厳しさを見せる自然の中で、人々はたくましく生きている。
昔から受けついできた、暮らしや文化を守るために、ふるさとを築いてきたお年寄りや、これからのふるさとを創る子供たちを守り育てるために、頑張っている町の姿が映し出される・・・。

そこには、故郷を愛し、確かな家族の絆を持ち、現代の日本が失いかけている、生きる喜びやその意味、そして豊かさを知っている人々がいる。
いま、人と人とのつながりが薄れ、心が貧しくなってはいないだろうか。
日本や世界の混迷は、目を覆うばかりだ。
ここでは、世界中の自治体の何処にも見当たらない、勇気ある挑戦を続けている。
その西和賀町の人たちの、“限りない優しさ”を記録したフィルムだ。

すこやかに生まれ、すこやかに育ち、すこやかに老いる。
当然、住民一体の努力があった。
この地域には、人々の明るい笑顔が絶えない。
誰もが元気を分かち合っている。
人と人とを結ぶ絆がある。温もりがある。
希望が満ち溢れている・・・。

戦後60年で失ってしまった、日本人の不屈の精神や、慈しみの心、親から子へ継ぎ渡していく教育や価値観といった、日本固有の精神文化はまだ残っている。
有史以来、三年に一度は押し寄せたという飢饉の波にさらされながら、自然と共に自らを律し、自らを励まし、自然に祈り、願いながら、互いに支えあってきた人々の暮らしが根付いている。

この作品は、教育映画でも啓蒙映画でもない。
みちのくの小さな町で、かつて一人の村長と住民たちが、半世紀かけて創り上げた人間ドラマといえるかも知れない。
小池征人監督は、「白神の夢―森と海に生きる」で、世界遺産・白神山地を舞台に生命の営みを描いた“人間派”として知られる、記録映画界で活躍中の人だ。

小池監督は、多くの若手スタッフたちとともに、この記録映画「いのちの作法を、約半年間にわたって、日夜現地の人々に寄り添って撮り続けた。
そして、記録された130時間にも及ぶ映像を、西和賀の美しい風土と文化を織り交ぜて、まとめ上げた作品だ。
国が出来ないことを、一地方から発信する、貴重なメッセージがここにはあるような気がする。
お年寄りを、切り捨てるのではない。大切にしようという話である。
ややもすればなおざりにされかねない、福祉のきらめきの、何と温かなことだろうか。  


映画「火垂る(ほたる)の墓」―精いっぱいに生きた―

2008-11-24 08:00:00 | 映画

遅まきながら・・・、この映画は、少し前の作品である。
戦禍の中で孤児となった、幼い兄妹が精いっぱいに生きた物語だ。
野坂昭如直木賞受賞作だ。

88年のアニメ映画でも知られるこの作品を、日向寺太郎監督は、原作の舞台である兵庫県でオールロケを敢行した。
そこで主人公が生きた、敗戦のあの暑い夏を再現した。
・・・1945年8月15日の敗戦は、兄妹にとって、戦争の終わりではなかった。

昭和20年6月、神戸全域は大空襲に見舞われた。
父は出征したまま連絡が途絶え、清太(吉武怜朗)は病身の母を亡くし、妹の節子(畠山彩菜)とともに、西宮の遠い親戚宅で世話になることになった。
だが、おばさんの冷たい仕打ちに耐えられず、清太は節子を連れ、その家を出て、防空壕の中で二人だけの生活を始めるのだった。

日に日に悪化する戦況とともに、やせ細っていく節子・・・。
清太は、時折母の優しさ、父の厳しさ、つい数ヶ月前の平和な生活を思い出しながら、妹を励まし、懸命に生きていこうとしていた。

そして、日本は敗戦の時を迎えた。
幼い妹の節子は、その7日後に短い生涯を閉じた。
節子を荼毘に付したのち、清太は防空壕を後にして去ってゆくが、彼もまた栄養失調に冒されていた。
清太は身寄りもなく、駅に寝起きする戦災孤児の一人となって、もはや死を待つばかりであった・・・。
・・・ホタルのように、短く、儚い兄妹のドラマである。

出演は、ほかに松坂慶子、松田聖子、原田芳雄、長門裕之、池脇千鶴らがわきを固めている。
この話は、作家野坂昭如の実体験が色濃く反映されている。
神戸大空襲で、自分の自宅や家族を失ったことや、美しい蛍の想い出なども作家の体験に基づいている。
また野坂昭如は、戦中戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったので、血のつながりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を荼毘に付したことがあるのも事実だ。
食料事情の厳しい時代であった。
ろくに食べるものもなく、やせ衰え、骨と皮だけになった妹は、誰にも看取られることもなく餓死した。
そうした事情から、自分がそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定して、贖罪と鎮魂の思いを込めて、この作品を書き綴ったと言われる。

野坂昭如自身の悔恨が投影されたかたちで、映画「火垂る(ほたる)の墓は作品化され、完成したのだった。
こんな時代が、本当にあったのだ。
夢も希望もなく、貧しかった時代を生きた、これは、幼い戦災孤児の兄妹の涙の物語だ・・・。


映画「私は貝になりたい」―戦争の不条理―

2008-11-22 19:00:01 | 映画

運命に引き裂かれた愛があった。
1958年(昭和33年)にテレビ放映されたときには、大きな反響を呼んだ。
ベテラン橋本忍の脚本に負うところが大きい。

今回の作品は、あれから50年、家族愛や人間ドラマをより深く掘り下げてはいる。
橋本忍という人は、一度完成させたシナリオを、自ら手直しすることのない作家だそうだが、今回に限って大幅に改訂し、「完全版」として仕上げた。
数々の黒澤明監督作品にかかわった力量を感じさせる。
今回この映画の福澤克雄監督は、テレビドラマ「華麗なる一族」を演出したディレクターで、この作品が長編映画の初監督作品になる。

清水豊松(中居正広)は、高知の漁港町で理髪店を開業していた。
妻の房江(仲間由紀恵)と、一人息子の健一(加藤翼)がいた。
決して豊かではないが、家族三人でつましく何とか暮らしていた矢先、戦争が激しさを増し、豊松にも赤紙が届く。

豊松は、本土防衛のために編成された部隊に配属され、そこで彼は米兵の「処刑」を命じられる。
立木に縛られた米兵に、豊松は歯を食いしばりながら、銃剣を向ける・・・。

やっとの思いで戦地から帰り、娘も生まれて家族も増え、これからというときに豊松を待っていたのは、戦犯容疑での逮捕、そして裁判の日々であった。
豊松は、実際は米兵にかすり傷を負わせただけだったが、判決は絞首刑であった・・・!

映画出演6年ぶりという、主演の中居正広の熱演も伝わってくるが、どうも人気先行のきらいがないでもない。
出演はほかに上川隆也、石坂浩二、笑福亭鶴瓶らで、さながら人間ドラマの感がある。
映画「私は貝になりたいという言葉を際立たせる、「美しい海、日本の風景、四季」を求めて、日本の海岸線をほぼ一周し、高知、山陰などで、1年がかりで実景撮影を行ったそうで、映画ならではのスケール感が出ている。

故フランキー堺が、かつて主役を演じた作品だが、いままたここに甦った。
いまも、地球上のどこかで起きている、戦争という不条理のもたらす悲劇を忘れてはならない。
戦争からは、何も生まれない。
生まれてくるのは、破壊だけである。

戦争の悲劇というより、家族愛がこの作品では重んじられた感じが強い。
悲劇性をあまり感じさせなくて、登場人物の苦悩がやや表層的で、十分に描ききれていない気がする。

橋本忍は、もう90歳のはずである。
彼の脚本としては、入魂の作品だ。
それから、壮大な映像と相まって、全編に流れる、久石譲の映画音楽がとくに素晴らしい。
久しぶりに聞く、いい音楽だ。
演奏は、東京フィルハーモニー交響楽団だ。

    ・・・深い海の底なら・・・戦争もない・・・兵隊もいない・・・
    どうしても生まれ変わらなければいけないのなら・・・
    私は貝になりたい・・・(原作より)


定額給付金―スッタモンダのバラ撒き、丸投げ―

2008-11-20 08:00:01 | 寸評

景気対策の一環として、二転三転、いや四転五転も迷走を続けた定額給付金・・・。
打ち上げ花火は、具体策がまとまらないまま見切り発車だ。
支給条件だけをとっても、与党内ですら異論続出で、大臣によってまちまちといった有様だ。

国会の審議もしないで、「オレももらえるんだよな」と、当初、麻生総理自身そう言って、たいそうご機嫌だった。
しかし、世論調査では、給付金など不要だと答えた人が60%を超えた。
国民の大半は、バラ撒き給付金はムダだと考えている。
それに閣僚たちの、勝手な発言ばかり目立って、もうシッチャカメッチャカだ。
二兆円のバラ撒きを、天下の愚策、いや世紀の愚策だと断じた知事さんもいる。

給付賛成派は、頂けるものは頂きたいという気持ちはあっても、これで麻生内閣の人気が上がるというものではない。
しかも、財政の裏づけや細部の詰めを怠ったから、混乱を招いた。
バラ撒きで、選挙の票を一票でもという策はみえみえで、そんなことで効を奏するというのだろうか。
言い出し放しで、あとは市町村任せの丸投げだ。
この大ざっぱさ、このい加減さ・・・!

与党の姑息な魂胆、ここに見えたりだ。
票をカネで買おうというバラ撒きなら、これはもう買収ではないか。
・・・となると、犯罪性も問題になってくる。
そうですよ。見方を変えれば、一歩間違えば国家犯罪(?)の可能性だって・・・。
まあ、これは少し言いすぎかもれないが・・・。

定額給付金は、どう考えても目的も効果もあいまいで、ほころびばかりが目立つ。
ターゲットもはっきりしない。
経済効果なんて、大いに疑問だ。

麻生政権は、経済効果より“選挙効果”にねらいをつけているいるようだし、カネさえバラ撒けばオレたちの天下だと思っているのかも知れない。
これが、日本の「政治」なのだ。

でも、すったもんだの末に、一応決まったかに見えるこの定額給付金、さて期待できるのだろうか。
国民の信も得ない麻生内閣は、この政策を目玉とした第二次補正予算なるものを、今国会に提出せず、来年の通常国会に先送りすることにした。
政局(解散)よりも、「景気対策」と言っていた筈なのに・・・。
これでは、な~んだということになる。

定額給付金を実現させるには、埋蔵金を、国の借金返済とかではなく、景気対策に回すようにするための法改正が必要なのだから、野党が反対すれば、年度内の給付の公約が守れないことだってありうる。
麻生政権が、どこまで持つか。
マスコミの調査で、内閣支持率が30%を切って、急落した。
こんな危険水域で、惜しげもなく(!)醜悪な姿をさらして、国民不在の政権がまだ続いている。
何もかも波乱含みの展開の中で、解散に追い込まれたときは、衆議院差し戻しでの法案成立も危うくなる。
そのときは、定額給付金は、実現不可能な幻に終わるかも知れない(?!)

それに、埋蔵金って、どこまで頼みに出来るのだろうか。
頼みにしたツケは、あるいは増税というかたちで、後から国民に跳ね返ってくるようなことはないだろうか。
何やら怪しげな、“選挙買収資金”など、あまり当てにしない方がいいかも・・・。
先行きは、あくまでもまだ不透明だ。

早いもので、今年もだんだん押しつまってきた。
北国から、雪の便りが届いている。
落ち葉の季節が終わりに近づき、肌を刺す風も冷たい。
そればかりではない。
いま日本列島が、がたがたと震えている・・・。


文部科学大臣、あなたもですか

2008-11-18 15:30:00 | 雑感

中学生の娘は、父親をつかまえて言った。
 「お父さん、お父さん」
 「何だ」
 「学校でね、また大臣が漢字を読み間違えたって言う話があってね・・・」
 「ああ」
 「麻生総理大臣は、あんなことでずいぶん有名になってしまったけど・・・」
 「そうだな。情けない話だ」
 「そしたら、今度は文部科学大臣ですって!」
娘は息巻いていた。
 「あの、塩谷か」
 「そうそう、そんな名前の大臣よ」
 「その大臣が、“類まれな”って言うのを、“るいまれな”って言ったという、あの話だろう」
 「うん。それも、文化功労賞の顕彰式とかいう大事な挨拶の場でよ」
 「やっちゃったんだな。しかし、教育行政のトップまで、字が読めないとはね・・・」
 「一体どうなっちゃうのかしらね」
 「全くだ。この国の将来が本当に心配だ」
 「・・・でしょ?」
 「だって、“類まれな”なんて、小学校卒業までに覚えるレベルだそうよ。私だってもちろん知ってる」
 「そうだろうなあ」

それから、娘はさらに続けた。
 「聞いた話では、大臣になったときの会見の席でも、原稿を読み間違えたそうよ」
 「何て・・・?」
 「“卑近な”と言うのを、“ひっきんな”と読んだらしいわ」
 「そんな話、お前学校で聞いてくるのか」
 「だって、こういうこと良く知ってる人がいるの」
 「へえ、そうか。大人顔負けだな」
 「大臣て、頭の良い人がなるんでしょ?」
 「うん、まあ・・・。頭が悪くちゃなれないな」
 「頭は、良いにこしたことはないわね」

そんな娘に、父親は優しく笑いかけると、
 「・・・お前も、絵文字のメールばかりやっていないで、たまには本も読め」
 「読んでます!そういうお父さんこそ、今でも、通勤電車でマンガ雑誌読んでるんでしょ?」
 「まあ、たまにだけどな」
 「あら、そう。あれって、いい大人があまりよく見えないんだなあ」
 「そうかも知れんな」
 「マンガを読んでいけないとは思わないけど、ああいうの私はいやだな」
 「そうか」
父親は、そう言ってうなずいた。

父親は、あらたまって娘に言った。
 「毎日の新聞は、出来るだけ読むことだ。日本人が日本語を読めないなんて、情けない話だからね」
 「分かっているわよ。そんなことあたりまえでしょ。それなのに、総理大臣が新聞を読まないなんてどういうこと?」
 「本当だ。自慢できることではない」
 「ねえ、総理大臣だって、お子様いらっしゃるんでしょう」
 「・・・」
 「今度の騒ぎで、きっと、職場でも肩身が狭い思いをしているはずよ」
 「そうだな」
言いながら、父親は娘の顔をじっと見た。

娘が言った。
 「大臣になる人には、国語のテストをしたらいいのよ」
 「その通りだ」と言って、これには父親も笑った。
 「で・・・、お父さんは、ちゃんと隅から隅まで新聞読んでいるの?」
 「大体だな。読んでいるさ、新聞だって、書物だって」
 「いつ読んでるの?」
 「いつって、人の見ていないところでだって、読書は出来るさ」
 「・・・」
 「そうだ。この間、『源氏物語』を読み終えたばかりだ」
そう言ってしまってから、父親は一瞬しまったというような顔をした。
娘は少し驚いて、父親を見つめて、
 「本当に・・・?」
 「ああ」
 「全部?原文で読んだの?」
 「いやいや・・・」
 「ああ、口語訳ね。で、誰の訳なの?」
 「その・・・」
 「え?どうしたの。誰の訳で読んだの?それにしてもすごいわね。ねえ、誰の訳よ?」
 「いやぁ、その・・・」
 「その・・・?」
 「マンガで読んだんだ」
 「・・・!」


漢字の読めない、日本の政治家

2008-11-16 10:30:00 | 雑感
これほどひどいとは思わなかった。
人のことを言えたものではないが、あまりにもひどすぎる。
日本の総理大臣が、漢字が読めないなんて・・・!

どうしてだろう。
それで、新聞も読まないのだろうか。
読まないのではなく、読めないのではと言う人までいる。
麻生総理は、マンガを毎週読んでいないと、時代に遅れるからとまで言いきった。
漢字が読めないから、マンガを読んでいるらしいと、本気で揶揄する人もいるのだ。

いまや、ずいぶん大げさな話題にまでなってしまった。
「頻繁」「有無」「未曾有」「前場」「措置」「踏襲」といった熟語を、どうして読み間違えるのだろうか。
まともに学校へ行っていれば、正しく読めないということはない。
麻生総理の出身母校の学生たちに、これらの漢字を読めない人は一人としていなかった。
学生たちは、口をそろえて「本当に恥ずかしい」と言っていた。
まことに、情けない話だ。

日本のトップに立つ人が、この程度の漢字が読めない。
これは、もう義務教育程度の知識ではないのか。
政治家、それも総理大臣の、資質だの能力だの品格だのと言う以前に、一般常識の問題だ。

マンガだって、文字もあるし漢字だってある。
ただページを繰っていくだけでも、幼児が絵本をめくるのと同じで、何となく面白さは分かるものだろうか。

国家を預かる総理にとって、政策や国家観を伝える言葉は、非情に重要な手段のはずだ。
歴代の総理で、これほど漢字の読めない人はいなかったのではないか。
漢字のことに限らない。
麻生総理の言葉遣いを聞いていると、常に自分が上であるという力の差に基づいているように感じられてならない。

人は、努力して自分の意思を通すために、言葉を磨くものだ。
政治家にとって、言葉は生命だ。
日本の政治家は、ただでさえ言葉が貧困だ。
あまりにも、不用意な発言も目立ち、言葉を知らなすぎる。
どこにいても、恥ずかしくない日本語を読み、書き、話せるようであって欲しい。

一流のブランド品を身にまとい、一流のホテルで豪華な晩餐に明け暮れるのも結構なこと・・・、ただ人は「見かけ」も大切かもしれないが、「中身」はもっと大切だ。
そうでないと、「一流」が泣く。

・・・余談だが、麻生総理は、天皇陛下ゆかりの母校の卒業生だ。
天皇陛下は、内閣総理大臣の任命権者である。
さぞかし、お嘆きではなかろうか。

映画「その木戸を通って」―巨匠市川崑監督、幻の名画!―

2008-11-14 15:30:00 | 映画

   ・・・どこからかふらっとやって来て、
     男に束の間の幸せと、可愛い娘を与え、
     またいずこへともなく去ってゆく女・・・

こんなに素晴らしい作品が、いままで眠っていたなんて・・・。
何とも、美しくも、不思議な、哀切の物語だ。
今年2月、92歳で他界した巨匠、市川崑監督は70数本の作品を世に残した。
その中で、生涯でただ一本だけ未公開となっていた作品である。

ハイビジョン試験放送のため、日本では初めてのハイビジョンドラマとして、1993年に完成し、直後のヴェネチア国際映画祭では、フィルムで上映されたものだ。
ハイビジョンマスターから35ミリフィルムに返換され、今、再びスクリーンに甦ったと言われる逸品だ。
人目にほとんど触れることなく眠っていたこの作品は、まさしく正統派ドラマとしての気品と、市川監督特有の映像美を堪能させてくれる。

山本周五郎の原作で、市川作品では、「どら平太」「かあちゃん」に先立って一番初めの映像化作品になる。
“美しい不思議小説”と称される、同名の周五郎の短編は、淡々とした、しかし実にいい話だ。
映画の冒頭、緑の竹の葉から滴り落ちるしずくが、きらりと光ってストップモーションになる。
そこから、主人公の回想になって、ラスト近くでしずくが落ちる・・・。
そうなのだ。ほんの一瞬の間に、主人公の脳裏をよぎったドラマなのだ。
市川監督の、丁寧で、凝った構成が躍如としている。

記憶を失った若い娘(浅野ゆう子)が、突然、城勤めの武士・正四郎(中井貴一)を訪ねて来て、家に居ついてしまう。
そのために、家老の娘との婚約もながれてしまうのだが、ふさと名付けられたその娘は、誰からも愛され、やがて正四郎と結婚する。
娘も生まれ、幸せな日々が続く。

だが、ふさは時々昔の意識が甦るようになる。
庭先の笹の道の向こうに、小さな木戸がある。
現実にはないはずのその木戸が、正四郎の目には映っている。
ある日、ふさは、笹の道のそこにある木戸を通って、去ってゆく・・・。

紫の雨、緑の竹やぶ、武家屋敷の広い空間、市川崑監督ならではの、その雨に濡れた銀ねずみ色の瓦屋根、いずれもどこか現実的であって、現実ではない。
人工的なのだけれど、非現実を感じさせる。
そして、極めつけは、竹やぶの方へ向いた木戸で、その木戸は、もう現世と異界の美しい境なのである。
女は、異界から現れ、異界へまた去っていったのか。

淡い幻想と現実が、美しく調和し、観ている者を不思議な世界へと誘いながら、日常生活のかけがえのなさ、人間同士の思いやりと優しさ、人の真心が、人の頑なさを穏やかにほぐしてゆく様が描かれる。
素直で、健気で、はかなげな、どこか陰のある女を演じる、まだ若い頃の浅野ゆう子が特にいい。
他に、石坂浩二、岸田今日子、井川比佐志、フランキー堺、神山繁、榎木孝明といった豪華メンバーが好演している。

市川崑監督その木戸を通っては、淡々(あわあわ)とした、哀切の余韻が後を引くドラマだ。
ヴェネチア、ロッテルダム、二つの国際映画祭でも、その映像の美しさは喝采を受けたと言われる。
こういう映画には、なかなかお目にかかることが出来ない。(多分、これからも・・・)
見終わって、ため息の出るような、静かな抒情の漂う、珠玉の作品である。


映画「彼が二度愛した S」―危険な騙しあい―

2008-11-12 07:00:00 | 映画
この作品は面白かった。
ドラマの構成に、多少無理をしているところはあるが、そこは大目に見るとして・・・。
マーセル・ランゲネッガー監督の、現代人の心理をついたラブ・サスペンスだ。
官能とスリルが交錯する、夜の世界の片隅で・・・。
携帯やメールに依存し、人との繋がりが実感できなくなってしまった現代人は、今という時代を生きる中で、誰もが抱える不安とか孤独を、一瞬にして消し去ってくれる友が現れたら、人はどう変わるだろうか。

平凡な日常、孤独な夜、それを埋めようと彼女を愛した。
・・・しかし、男は気づいた。
すべては罠だったのだ。

ニューヨクの孤独な会計士、ジョナサン(ユアン・マクレガー)は、ある日弁護士のワイアット(ヒュー・ジャックマン)と出会い、エグゼクティブのためにだけ存在する、会員制の秘密クラブを知る。
電話で合言葉を告げるだけで、男女共に夜の相手と会えるのだ。
ジョナサンは、美しく優雅な女たちとの、ホテルでの一夜限りの情事にはまっていく。

そんなある日、以前地下鉄で見かけ、一目惚れした、名前が“S”から始まることしか知らない、ミステリアスな女性(ミシェル・ウィリアムズ)と秘密クラブで再会し、本気の恋に落ちていく。
やがて、心のつながりを求め合い始めた二人であったが、彼女は突然ホテルから姿を消した。
そして、部屋には血痕が・・・。
実は、それがワイアットの仕掛けた罠であった。

消えた女は何者だったのか。
ジョナサンは、女の行方とワイアットの正体を探り始めた。
しかし、巧妙な罠に落ち、すべての逃げ道を閉ざされたジョナサンは、愛する女性を取り戻すため、人生最後の賭けに出るのだった。

この作品を観ていると、ヒッチコックを思い出させる。
どこか挑戦的で、魅惑的な作品だ。
ミステリアスなサスペンスに満ちているからだろうか。
愛と金と欲望が渦巻くニューヨクで、その騙しあいのゲームに勝つのは誰か?

アメリカ映画「彼が二度愛した Sは、ミステリアスなカメラワークや、ハラハラドキドキの目の離せぬ展開で、十分大人の楽しめる作品だ。
・・・といったような次第で、仕組まれた「完全犯罪」は、意外などんでん返しを迎えるのだが、映画のラストシーン、スペインの公園のベンチに置かれた、大金の入ったスーツケースは、あれは、さてどうなってしまったのか。