徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「アバンチュールはパリで」―小粋な恋のかけひき―

2009-10-29 06:00:00 | 映画

出逢いは突然やってくる。
パリを舞台に、ホン・サンス監督が、エスプリのいっぱい効いたロマンス・コメディを綴って観せた。
異文化目めくるめく魅惑の街で、エゴイスティックでちょっと可愛い男と、現実的で優しい女が繰り返す、風刺交じりの小気味よさが、まったく先の読めないドラマを展開する。
思わず、ふっふ、と笑ってしまいそうな・・・。
この映画、フランス映画ではなく、韓国人ばかりが登場する韓国映画というところが興味深い。
軽妙でちょっぴり魅力的な作品だ。

ホン・サンス監督は、巧妙な話術を駆使して、洒落た会話劇を観せてくれる。
どうしてどうして鋭い観察力で、登場人物たちの感情の機微を、実にうまくとらえているのだ。
「普段着のパリ」を舞台に、旅先で思いがけなくおとずれた恋を描いて、可笑しく、かなしく、それでいて楽しい。
どこにでも転がっているような物語なのだが、パリだというのに韓国人ばかりというのも・・・。
徐々にあらわになる、「男と女の本音」が細やかに描かれている。
男の愚かさ、女の賢さを織り交ぜて・・・。

画家ソンナム(キム・ヨンホ)は、妻ソンイン(ファン・スジョン)を一人ソウルに残し、憧れのパリにやって来た。
市内の民宿に泊まり、観光に出かけるでもなく、ただぼんやりと、パリでの日々を怠惰に過ごしていた。
そんなソンナムを、見るに見かねた宿主(キ・ジュボン)が、パリ観光の案内役にヒョンジュ(ソ・ミンジョン)という留学生を彼に引き合わせる。
絵を学んでいるという彼女とともに、ソンナムはオルセー美術館へ向かい、クールベの「世界の起源」を鑑賞する。

ヒョンジュは、ルームメイトの画学生をソンナムに紹介した。
ソンナムが、カフェで見かけた子だ。
太陽のように溌剌とした、魅力的な彼女の名前はユジョン(パク・ウネ)と言った。
三人は街を歩き、彼女たちのアパートでユジョンの画集を見、韓国料理店で酒を飲み、語らった。

4日後、ソンナムは、街でばったりユジョンと再会した。
二人はカフェに入り、ソンナムは、初めて会ったときからユジョンの魅力に惹かれている自分に気づく。
ソンナムは、妻のことを気にかけながら、日を追うごとに、ユジョンのことばかり考えてしまうようになった。
ついに、彼はユジョンの心を射るべく、自分の思いを彼女にぶつけた。
思いがけない彼の告白に、ユジョンからは、
 「不倫はまっぴらよ。私は結婚している男性とは付き合いません」
と、そっけない返事が返ってきた。

数日がたって、カフェでユジョンと会った。
他愛ない会話を交わすうちに、お互いの気持ちがほぐれていく。
ソンナムは、ユジョンに誘われて彼女の部屋で酒を飲んだ。
高揚した彼は、自分の気持ちが抑えられない・・・。

そんな時、ソンナムの10年まえの元彼女の自殺を新聞で知る。
ショックを受けたソンナムは、ユジョンに会いたくなって、またアパートを訪れる。
 「ユジョン、お前を抱きたい」
 「・・・張り倒したいわ」
そうい言いながらも、少年のように、自分の強い思いを直球でぶつけてくるソンナムの姿に、少しづつユジョンの心も動きはじめていたのだった。
 「俺と一緒に、ドーヴィルに行かないか?」
そして・・・、二人の恋が始まろうとしていた・・・。

思いがけず、旅先で出会った恋は、次第に二人の本性をあらわにしていく。
昼は恋した女を口説きながら、夜は故郷に残した妻に電話で甘えてしまうどうしようもない男の二面性と、少女のように振舞いながら、ときどき魅惑的な態度で男を翻弄する女の多面性と・・・、互いの気持ちを、カードのようにたらたらと見せ合いながら、彼らの繰り広げる恋のかけひきが面白い。
ウィットに富んだ会話で、軽やかに何の嫌味もなく綴られる、洒落たラブストーリーである。

幾度も恋を繰り返し、幾つ年を重ねても、恋に落ち、愛することを止められない二人の姿に、じれったいほどのいとおしさを感じさせながら、小粋なかけひきが続く。
初めて会ったときから好きになれなかった男を、やがてどうしても愛せずにいられなくなる女の心理のプロセスが、短いがたっぷりと気の利いたエスプリを含んだ軽妙な会話で語られるとき、この作品のような上質なロマンス・コメディが生まれる。

ドラマは、きらびやかなパリの街をことさら描こうとはしない。
そこが、またいいのだ。
男と女の、いささか愚かしい恋愛沙汰を、ロマンティックに美化することもなく描いてユニークな作品だ。
ホン・サンス監督の作品には、特別な事件も起きないし、戦争もない。
人間の内なる真実を、さりげなく取り出して見せてくれている。
男と女なんてこんなものだろうと、ときにはユーモラスな気分に心も和む。
つまらないだろうなと思って観ると、これが意外によかったりして・・・。
そういう映画もあるものだ。

偶然だろうが、街角で昔の恋人に出会ったり、画学生友だちとの交流パーティやら、民宿での生活やら、とりとめのないエピソードをはさみながら、ドラマは淡々と進み、それなのに飽きさせることもない。
ホン・サンス監督
韓国映画アバンチュールはパリでは、パリを舞台に韓国人ばかりが揃ってちょっと奇妙な感じもするが、これが軽いノリで結構楽しい作品となった。
さすが、辛辣で正確な観察を得意とするホン・サンス監督だが、ことに男女の機微を描くのは実に上手い。
映画は、ほぼ全編がパリ・ロケだが、オルセー美術館での撮影は滅多に撮影許可が下りないはずなのに、監督がフランスでは絶大な人気を誇るホン・サンスであるという理由で、撮影を快諾したのだそうだ。


映画「沈まぬ太陽」―熱き男の戦い―

2009-10-26 08:00:00 | 映画

山崎豊子のこの長編小説は、映像化不可能といわれていたが、若松節朗監督は、西岡琢也の脚本を得て、迫力のある壮大な映画に作り上げた。
経営再建などで揺れている、日本航空の内部対立をモデルにしていることで、原作が平成7年に発表されて以来、物議をかもしてきた問題作だ。

完成までの道のりは、いろいろ険しかったが、脚本は20稿を重ね、ようやく原作者のメガネにかなったといわれる。
「カミソリのようなヤワなものではなく、ナタのようなもので原作に切り込まないとダメだ」
そう言って、本作のプロデューサーに、山崎豊子は一貫して強い注文をつけたそうだ。
デリケートな題材を、一つ一つ丁寧に作っていったというが、これまで「贖罪」をテーマにしてきた若松監督のこの作品は、彼の思う「命の尊厳」をいかに描いたか。
考えさせられることは多い。

昭和30年代、巨大企業・国民航空社員の労働組合委員長、恩地元(渡辺謙)は、職場環境改善のため会社に立ち向かった結果、パキスタン、イラン、ケニアといった僻地に転勤を命じられる。
恩地は、任務を果たすため信念を貫き通すが、かつて組合員とともに闘った行天四郎(三浦友和)は組合の弱体化に加担し、エリートコースを歩んでいた。

恩地の同僚でありながら、行天の愛人、三井美樹(松雪泰子)は、対照的な人生を歩む二人を冷静に見続けていた。
・・・そして、行天の裏切り、さらに妻・りつ子(鈴木京香)ら家族と長年にわたる離れ離れの生活・・・。
焦燥と孤独とが、恩地を次第に追い詰めていく。

10年後、本社への復帰を果たした恩地を待っていたのは、国民航空が引き起こした、航空機史上最大のジャンボ機墜落事故であった。
国民航空の立て直しのため、会長に就任した国見(石坂浩二)は、恩地を会長室に抜擢、社内の腐敗を一掃するために立ち上がるが、それは、政界をも巻き込む、終りなき暗闘の始まりでもあった。

日本が経済大国に急成長した、激動の時代を背景に、巨大企業に人生を翻弄されながらも、自らの信念を貫いた男の姿を描く。
原作の刊行からは、10年以上が経っている。
モデルとされる、日航側の協力が得られなかったため、航空機はCGで再現し、台詞にもかなりの修正が加えられたようだ。

この若松節朗監督沈まぬ太陽は、個と社会の複雑なありようにズバッと切り込んで、人間の幸福とは何かを問う、最近では稀にみる骨太の映画になっている。
未曾有の航空事故、政界の汚職などを背景に綴られるドラマの製作意図は、十分伝わってくる。

作者は、主人公の恩地を、不条理を糾したがゆえに周囲から疎まれるという状況の中で、不屈の精神で立ち向かう清冽な企業人として描いている。
この役を射止めるために、主演の渡辺謙は、山崎豊子に直接猛烈なアプローチまでしたと、自身が語っている。
映画では、表裏一体の関係にある恩地と行天、二人の対照的な生き方を軸に、昭和40年代のエピソードが掘り起こされていく。
これは、単に昭和を描いただけの物語ではない。それは確かだ。
大長編を、途中インターミッションを挟んで、3時間を超える作品にまとめ上げる作業は、容易ではなかったに違いない。

大変な、労作であることは認める。
あえて言わせてもらえば、登場人物たちは、ほかに加藤剛、小林稔待、神山繁ら、個性派ぞろいでなかなかの熱演なのだが、時として、彼らの誰もが、精密に操られているロボットのように見える。
気負いすぎ、力みすぎが目立ち、明らかに‘演技’していることがありありだ。
怒りも悲しみも、血の通った、生きた人間の持つ自然体の円さや、柔らかさが感じられず、やたらとぎすぎすしていてきわめて冷静すぎるほどに機械的だ。
大仰な台詞や表情は、それも立派なひとつの演技だが、極端にいうと、伝わってくる感動はどこか白々しく稀薄だ。

それに、企業、組織の中の男たちの生き様はそれなりに描かれてはいても、政界との闇ルートについてはあまり描かれていないし、映像自体にももっと突込みがあっていいのではないか。
そのあたり、不満は残るが、人間の心の慟哭を伝えようとする、この作品の普遍的なセンスには共鳴できるものがある。
索漠とした、希望の見えない現代だからこそと、原作者の言葉にもあるように・・・。


新型インフルワクチン―ドタバタ人体実験か?―

2009-10-22 19:00:00 | 雑感
新型インフルエンザの予防接種がはじまった。
今回の新型ワクチンの対象者は、約5400万人といわれる。
当面2回接種が前提で、医療従事者、妊婦、幼児を優先し、一般社会人、高齢者は来年からで、それとても全員には行き渡らないそうだ。
このことが、ドタバタに紛れて、一部専門家の間でささやかれているような、数千万人規模の‘人体実験’にならなければいいのだが、その懸念もないではない。

新型ワクチンは、インフルエンザの重症化を防ぐ効果も、感染そのものを防ぐ効果も、まだまだそれらを明確に裏付けるデータは存在しないというではないか。
疫学者の間では、「インフルエンザワクチンは効かない」が常識になっているそうだ。
インフルエンザウイルスは変異が早く、ワクチンを接種して身体に抗体が出来ても、感染や発症は防げないとなると・・・。
厚労省の、「ワクチン接種で重症化の割合が下がる」なんて言っている、説明自体あやしいのだ。
1962年に、小学、中学生に集団接種が始まったとき、重度マヒなどの副作用が相次いで報告され、社会問題化した。
群馬県前橋市のある医師会のリポートでも、ワクチンに効果なしとして、94年から予防接種法の対象外だそうだ。

とにかく、疑問だらけだ。
それなのに、何故いまワクチンなのか。
かつて90年代に、「インフルエンザは風邪じゃない」というポスターが保健所に貼られたことがあって、国民の危機感をあおった。
それで、需要が増えた。
‘産官連携’で、‘儲かる’ワクチン接種を止めたくなかったのではないかと、まことしやかにささやかれているのだ。

新型ワクチンをめぐっては、甲論乙駁、きちんとした臨床試験をしないで接種すれば、どんな副作用が出るかわからない。
輸入ワクチンといえども、論外ではない。
これは、半ば見切り発車だ。
薬害エイズや薬害肝炎など、過去の医療事故の構図が、脳裏をよぎる。
新型の国産ワクチンについて、厚労省は、今月、治験者のうちの約半数に、軽度の副作用があったとする結果を公表しているのだ。(!)
そのなかには、急なアレルギーショックなども確認されているし、今回も、医療従事者2万人について、副作用の発生頻度などについて調べる方針だ。
間違いなく、ワクチンは安全なのか?
もしかりに重大な副作用が出たら、その責任は誰が負うのだろうか。

ワクチンの値段も、1人分6150円だとか・・・。
高いですよねえ。
ワクチンの原価は、注射器などの実費、注射技術料などを入れると、1人分800円位~1000円位だそうで、これに初診料2700円が加えられるらしい。
それも1回の接種で、料金2000円のクリニックから4000円前後の病院まで、バラつきが多いと聞いた。
インフルエンザワクチンには、品質の差などはないと言われているのに、病院によってこうも違うとはどういうことか。
ワクチンの接種には、たとえば子供数人とお年寄りのいる家庭では、おじいさんが家計に気を使って、ワクチンをあきらめる家もある。
国が、ワクチンが、唯一インフルエンザの予防法というのなら、大阪市の市長さんも進言しているように、全国の接種をいっそ無料にすべきではないだろうか。
国民の命を守るというのなら、こんなときにこそ財政出動が必要だ。
人の弱みにつけこんで、ワクチンで大儲けをたくらんでいるのは、一体誰なのか?

それにしても、何やら拙速なワクチン接種の怖さも感じられて、どうしてもこれは、大規模な人体実験のようにも思えてきてしまうのだ。
本当に安全なのか。本当に効くのか。
自分にとって必要かどうか。
よく考えたいものだ。
疫学専門家も、そう言って警鐘を鳴らしている。
個人個人で、まずは新型インフルエンザにかからないように留意して、日ごろから自衛と工夫をすることが一番のようだ。
それでも、インフルエンザにかかってしまうこともあろうから厄介だ。
高いお金を払って、だからワクチン接種を安心だと過信するのは禁物だ。

映画「あなたは私の婿になる」―肉食系女子のラブコメディ―

2009-10-20 10:00:00 | 映画

婚活ブームの一方で、草食系男子が急増中だ。
マニュアルどおりの婚活では、上手くいくはずがない。
そんなジレンマを抱えた女性たちを奮い立たせるコメディだ。
「幸せになるための27のドレス」アン・フレッチャー監督の、イマドキのアメリカ映画だ。

ニューヨークの出版社に勤務する、やり手編集長のマーガレット・テイト(サンドラ・ブロックは、妥協を知らない女性だけに、会社のトップからは見込まれ、部下からは恐れられている。
アラフォーのマーガレットにとって、婚活など無縁だ。
その彼女が、部下の草食系男子アンドリュー(ライアン・レイノルズ)に、「婿になれ」と命じたのだ。
カナダ国籍でビザが必要なのに、仕事にかまけて申請を怠り、国外退去処分が決まった。
マーガレットが思いついた苦肉の策が、偽装結婚だった。

アメリカ国籍を持つ、彼女のアシスタント、アンドリュー・パクストンの腕をつかみ、みんなのいる前で、まさかの結婚宣言である。
 「私とアンドリューは、実は結婚するんです!」
一方のアンドリューは、事情を呑み込めないから、呆然とするばかりだ。

偽装結婚なんて、とんでもない・・・はずのアンドリューだったが、マーガレットが国外退去となれば、お互いに失業だ。
3年間の努力も、水の泡だ。
運命共同体となったアンドリューとマーガレットは、早速市民権移民局へ足を運び、入国管理官の追及をかわして、二人はアンドリューの故郷アラスカの小島へ、結婚報告に行くことになる。
そこで、祖母の誕生パーティの席上で、婚約を発表すると言ってしまったのだ・・・。
やがて、祖母のたっての希望で、彼女の誕生日にマーガレットとアンドリューの‘結婚式’を挙げることになった。
家族の温かい愛情に触れたマーガレットは、決断する・・・。

有能だが、唯我独尊で鼻持ちならない嫌な女マーガレット、部下をこき使い、たてつく者は容赦なく首にする彼女を、人は鬼と呼んで恐れている。
その鬼の女が、アラスカに舞台を移すと、ロマンティックなラブコメディに変わる。

アンドリューの家族や、素朴でおおらかな島の人々との交流、そしてアンドリューと資産家の父親との確執など・・・、いろいろありの賑やかさだ。
お互いのキャリアを守るための嘘が、周りを巻き込んで大騒動になる。
アンドリューとマーガレットは、偽装のためにキスしたり、ひとつ部屋で寝たりするうちに、これまで強がって生きてきたマーガレットに変化が現れる。
そして、ドラマは、思いもかけなかったエンディングを迎えることに・・・。

恋も仕事も、タイミングを逃さないことが、とても大切のようで・・・。
相手の顔色をうかがってばかりでは、恋愛も仕事もうまくはいかない。
はっきりと自分の意見を主張できる女性は、恋愛も仕事も美味しいところを持っていってしまうものだ。
この作品に描かれているように、女性の上司が男性の部下にプロポーズしたり、彼女のリードで恋愛が進行したりしても、何ら不思議はないということだ。
・・・最初から、追う気のない草食系男子に、追いかけられるのを待っていてはダメだ。
人生の貴重な時間は、どんどん過ぎてゆくのだから・・・。

大いに笑えて、キュンとして、ほのぼのと温かい気持ちになれる。
まあ、ありきたりのラブコメディだから、結末も案の定といったところで、軽いノリも手伝って、肩のこらない気分転換にはいい。
アン・フレッチャー監督の、アメリカ映画「あなたは私の婿になるは、やり手女上司と部下のハチャメチャな騒動をコミカルなタッチで描く。
ヒロインのサンドラ・ブロックは、ここで見るとかなりお年を召したという感じもするが、登場人物たちはそれぞれに人間味があって、面白い。
アンドリューを演じているライアン・レイノルズは、いままで見せたことのない、豊かな表情で好演し、サンドラ・ブロックも「プラダを着た悪魔」のような上司っぷりで笑わせる。
物語全体の起伏はあまりなく、深みも特にない。
甘口の、気持ちのよいラブストリーとしては、まずまずだ。
あまり見られない、アラスカの景色もいい。
実をいうと、この映画、観る前からあまり期待していなかったわりには、面白い出来上がりだ。
 


映画「さまよう刃」―問題提起はわかるが―

2009-10-18 09:00:00 | 映画

裁くのは誰か。守るのは誰か。
光も華もないストーリーが、映画になった。
東野圭吾原作、益子昌一監督の作品だ。
ここに描かれたのは復讐の虚しさだ。
製作に当たっては、エンターテインメント映画にしようと努力したようだが、作品は重く暗い話に出来上がった。

作品は、少年法と被害者感情の乖離など、社会問題を提起した。
もしも、かけがえのない一人娘を、レイプ、薬物投与という凄惨な目に合わされた上で、殺されたとしたら・・・?

冬の朝、荒川べりで、一人の少女の死体が発見された。
何者かに暴行された上に、薬物を注射された無残な死に様に直面し、被害者の父である長峰(寺尾聰)は、強い憤りと絶望を感じずにはいられなかった。
妻に先立たれた長峰にとって、たった一人の家族であった娘を失い、魂の抜けたような毎日を送る彼のもとに、ある日謎の人物から一件の留守番電話が入る。
娘を凌辱し、殺害した犯人たちの素性を告げるその電話の声に従って、長峰は独自に犯人を追うことを決める。
未成年であるがゆえに、捕まっても重罰に問われない犯人たちを、自分の手で断罪するために・・・。

娘を殺された父親の気持ちと、残虐な犯罪を繰り返す少年を保護するかのような、少年法の狭間で揺れる刑事たちの、それぞれの苦悩と葛藤が交差する。
程なく、犯人の一人である伴崎の死体が発見され、現場の指紋から長峰の犯行と断定される。
警察は、長峰とさらにもう一人の犯人少年菅野を追うことになる。
長峰は、長野のペンションを一軒一軒まわり、犯人の行方を追っていた。

事件担当の、織部(竹野内豊)と真野(伊東四朗)の二人の刑事も急行し、夜の廃ペンションで、運命の糸に手繰り寄せられるように、長峰や菅野と対峙する。
そうして、もつれあった各々の想いが、衝撃の結末に向けて静かに動き出していく・・・。

法制度の矛盾点を突いて、一応の問題提起はなされているが、描き方が上っ調子で、薄っぺらだ。
犯人である、少年たちの生活や背景も、心情もよく解らない。
同じことが、長峰や彼らを追い詰める刑事らにも言える。
現行の法制度に対する考察も、おざなりだ。
さほどの緊張感も強くは感じられず、物足りない。トーンがいかにも低い。
物語の展開もゆるやかで、大きな曲折や波乱はないし、また描かれていない。
平面的で、頼りない。

小説としてはともかく、映像としては難しいテーマかも知れない。
益子昌一監督の、この映画「さまよう刃は、ひとつの事件をめぐって、三社三様の立場から、社会のひずみを映し出そうとした努力らしきものは見えるが、観る者の心を激しく揺さぶるような、重厚で密度の高い作品を期待するのは無理のようである。
怒りも悲しみも、‘毒’の盛り付けが少なすぎたのか。
非道な犯罪と人間感情の狭間で、果たして、どこまでこの映画が観客の心をつかむことができるか。


「ウルトラミラクルラブストーリー」―超奇跡的なファンタジー―

2009-10-16 07:00:00 | 映画

1978年生まれの横浜聡子監督の、商業映画としては初挑戦作品である。
期待の新鋭、戦慄異端のデビュー作というわけだ。
現実世界では絶対に起こらない、全く驚くべき‘亡霊譚’である。
ありえない出来事が、幾つも起きる。
先読みの不可思議な世界を演出する。
どこに、こんな才能を宿しているのか。

日本の青森県を舞台に、全編にわたって、台詞は一人の女性を除いて全員が津軽弁と、究極の片想いを描くファンタジーなのだ。
それも、観ようによっては執拗なまでに徹底して・・・。

子供みたいな青年・水木陽人(松山ケンイチ)は、青森でひとり農業をして暮らしている。
畑のキャベツは、青虫のせいで、今日も穴だらけだ。
ある日、陽人は、東京からやって来た保育士の神泉町子(麻生久美子)と出会い、生まれて初めての恋をした。
けれども、町子が青森に来たのは、カミサマと呼ばれる占い師に会うためだった。
何故なら、事故で死んだ元カレの首がまだ見つかっていないからだ。

でも、陽人はそんな噂なんておかまいなしで、町子に猛アタックを続ける。
それは、しかしいつまでたっても、彼の片想いでしかなかった。
ある日、畑で遊んでいた陽人の身体に起きた“ある出来事”が、陽人を少しづつ変えていく。
その出来事は、次から次へとありえない事態を引き起こして・・・。
彼は、農薬を自分の裸の身体にかけていたのだ。

ひとり道を歩く陽人の眼の前を、首のない身体が通りかかる。
町子の元カレだ。
元カレは、自分の靴を陽人に残して去っていく。
次の日、馬と駆けまわっていた陽人が、突然ぱたっと倒れ動かなくなる。
病院に担ぎ込まれ、心臓停止が確認されるが・・・。

さらに次の日、陽人は生き返ったのか、家の畑で子供たちと元気にぴんぴんしている。
町子は、この頃の陽人の体調だけが気になっていた。
彼は、何も食べようとしない。
それどころか、小屋でまたも農薬を浴びていたのだ。

陽人は狂ったように、森の中を走っている。
猟師が、茂みの中を動く黒い影を見て、銃を構える。
とどろく銃声、倒れる陽人・・・。
陽人の葬儀がとり行われる。
町子は、荒れた陽人の畑を手入れすることにした。
畑から家の中に入ると、壁のホワイトボードには、自分の脳みそは町子にあげると書いてあった。

子供たちと森へ出かけた町子は、リュックから瓶に入った陽人の脳みそを取り出した。
森の中で、四人は輪になって座る。
真ん中に、陽人の脳みそを置いて・・・。
その時、茂みの向こうから、黒い影が現われた。
熊であった。
町子は立ち上がり、瓶を手にして中の脳みそを取り出すと、それを熊に向けて投げつけた。
熊は、ゆっくりと近づくと、それをぺろぺろと食べ始めた・・・。
あっと驚きの、衝撃的なラストである。

このラストシーンに込めたものはとの問いに、横浜監督は、さらりと「希望です」と答えた。
日本映画史上に残るような、瞠目的なシーンである。
青森という土地と、津軽弁のリアリティへの徹底的なこだわりもここでは貴重だ。
彼女は、これより前に自主制作した映画「ジャーマン+雨」で、2007年に日本映画監督協会新人賞受賞している。

出演はほかに、藤田弓子、原田芳雄、渡辺美佐子らが集結している。
横浜聡子監督ウルトラミラクルラブストーリーは、まるで子供のような乱暴さと純粋さに満ち満ちた世界を演出する、愉快、壮快を超えて奇怪なファンタジーを作り上げた。
そうなのだ、これは、きわめて具象的な、しかし奇想天外なアヴァンギャルドの世界だ。
この作品の出来不出来とは別に、横浜監督の、その稀有な眩しい才能と同時に、自己観念こだわりの、まことに危うい暴走は大いに懸念されるところだ。

何でもありの、終わりのない時空、それが陽人と町子の異界ではない居場所なのか。
虚構の現実と真実・・・、既成の概念を、みずみずしく乗り越えていく感性の鋭さは、この映画作家からは感じられる。
それは、間違いなく、未来に向かって開かれているものだろう。
だが、「省略」と「奇跡」の繰り返される、常識を超えたこのドラマの脚本は、もっと十分な説明もほしいし、詰めもほしい。
練られた跡は見えるけれど、それでもかなり粗っぽいからだ。

  ・・・・あめりか あおもり あおいうえ
     うきよに おぼれて あわをふく
     かまきり こつこつ かけきくこ
     かまくら おしゃまに かざりつけ
     させぼに しがらみ さそしすせ
     そらには せんかん すいすいすい・・・・(「ウルトラミラクルラブストーリー」より)


映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」―弱い男、強い女―

2009-10-14 11:15:00 | 映画

愛など信じたら、すべてが消えてしまうと、男は恐れている。
すべてを失った後に、残るのが愛だと、女は知っている。
今年は太宰治生誕100年で、何かと注目が集まっている。
自虐的で、暗いイメージで捉えられがちだが、彼の描く男女は、実は細やかな心理描写とユーモアのある表現で、さまざまな「愛」のかたちを描いている。

フランス中世末期の、放蕩無頼の詩人の名からつけられたタイトルだ。
太宰治は、あのフランソワ・ヴィヨンの放埓より、無頼な生き方から生まれた、美しい詩に惹かれていたといわれる。
根岸吉太郎監督は、このヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~映画化にあたって、太宰治の作品群から、エッセンスを絶妙に配合し、ある夫婦をめぐる「愛」の物語として描いた。

戦後の、混乱期の東京が舞台だ。
秀でた才能を持つ小説家でありながら、酒を飲み歩き、借金を重ね、妻以外の女性とも深い関係に落ちる。
破滅的な生活を送る大谷(浅野忠信)は、ある夜、酒代を踏み倒したうえに、その飲み屋から5千円という大金を盗んで逃げた。
その大谷を追いかけて、飲み屋夫婦の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)が、大谷の自宅までやって来た。
妻の佐知(松たか子)が、大谷と飲み屋夫婦の言い争いに割って入った瞬間、大谷はその場から逃げ出してしまった。

誠実な美しい妻・佐知は、警察沙汰になるだけは許してもらおうと、吉蔵と巳代が営む飲み屋“椿屋”で働くことにした。
意外にも、水を得た魚のように生き生きと働く佐知の姿は、あっという間に店の人気者になった。

大谷は、相変わらずの生活を続けていた。
たまに家に帰っても、何かに追われるようにわめき、佐知に救いを求める。
だが、またふらりと出て行ってしまうのだ。
だから、あまり家では会うことのなかった夫と、椿屋で会うことが出来るようになった佐知は、そのことがとてもうれしく、幸せであった。

そんな佐知は、常連客の一人である大谷ファンの青年・岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が想いを寄せていた、弁護士・辻(堤真一)から好意を寄せられる。
見違えるように、美しくなっていく佐知に嫉妬する大谷・・・。
書くこと、そして生きることに懊悩する大谷は、愛人の秋子(広末涼子)と、心中未遂事件を起こしてしまった。
それを知った、佐知は・・・。

夫婦の一方が浮気をすれば、いまならすぐに離婚する夫婦や、ちょっと会わないから別れてしまうというカップルが多いが、この夫婦は決して別れない。
これを、腐れ縁というのかも知れない。
自分たちに起こる、さまざまな“負”の出来事やダメージを、すべて自分たちで回収していこうとする覚悟みたいなものが、とくに佐知には強い。
だらしない程弱々しい男なのに、それでも尽くして、愛を支えようとする深い理解は、今の若い夫婦にどう映るだろうか。

ヒロインの松たか子は、動物的なしなやかさで、全く佐知になりきっている。
佐知はよく描かれているが、一方の夫の大谷はどうか。
大谷は、太宰を髣髴とさせる無頼作家だ。当然彼がモデルだ。
ただ、もともと厭世的な人物像は浮かんでくるけれど、どうも、作家としての懊悩や苦悩が、徹底して描ききれていない。
血を吐くような、苦悩があったはずだ。
それにイメージがぴんとこなくて、このキャスティングには、首をかしげざるを得ない。

佐知役の松たか子はこう言っている。
 「佐知と大谷は、互いの無垢な部分に惹かれあい、お互いの弱さを知っている夫婦なんです。佐知を演じていて強く感じたことは、それは、佐知の大谷への想いが一途で深く、決して揺るがないものなんだということで、信じて歩いていく佐知の姿は清清しいです」
気丈なことを言う佐知に対して、夫の大谷はいつもこんな弱々しいことばかり言っている。
 「男には、不幸だけがあるのです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるいるのです」
・・・何とも、やりきれない男を描いて、どうもという感じだ。
愛に迷い、そして愛に生きる、誰もが皆・・・。
実に理解しがたい夫婦の関係を描いて、いま改めて人間太宰治の世界観の一端を覗き見るようだ。

脚本を担当した田中陽造は、松たか子のためにこの本を書いたと語っている。
彼女は初め脚本を読んで、「自信がない」と泣き出しそうだったそうだ。
そこを説得されて、「頑張ります」と挨拶された田中は、「頑張らなくていい、あなたをイメージして書いた本だから、どんなに下手に演じても大丈夫だから」と答えたそうである。
松たか子は、さらに根岸監督には「佐知は、大谷のことがずっと好きでいいんですね」と確認し、映画でこの難役を演じたというエピソードがある。

戦後という時代を感じさせる、よくできた作品だ。
根岸吉太郎監督の、この作品「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」は、昨年「おくりびと」がグランプリを受賞したモントリオール世界映画祭で、ついこの間最優秀監督賞受賞に輝いた。
日本映画頑張れ・・・!

映画の最後のシーンで、ヒロインの佐知が、どうしようもない夫の大谷と手を取り合って言う台詞が決まっているではないか。
この台詞、太宰治の原作「ヴィヨンの妻」の終章と寸分も違わない。
 「人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」
この一言のために、この作品は作られたかのようなエンディングだ。


映画「引き出しの中のラブレター」―伝えたかった想い―

2009-10-12 12:00:00 | 映画
秋が、日一日と深まりの色を見せ始めている。
しばらくぶりに、しみじみとした、いい映画を観た。
・・・伝えたいけど、伝えられない。
・・・伝えたかったけれど、伝えられなかった。
「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか、近くにいるのに言い出せない言葉というのがある。
本気で伝えたい言葉が、心の奥にしまわれたままで、伝えられずにいる。

インターネット、ケータイ、メール・・・、コミュニケーションが当たり前のように便利になればなるだけ、本当に伝えたい言葉を伝えることは案外難しいものだ。
だからなおのこと、直筆に想いを託す手紙や、人と人とが一対一で向き合うラジオを通じて、言葉の大切さ、自分の想いを伝えたいのだ。

三城真一監督は、想いを言葉にすることの大切さをテーマに、心優しいドラマを作り上げた。
抑制の効いた、細やかな気配りの演出がいい。
恋人に宛てた手紙だけが、ラブレターではない。
家族、父母、友人、恩師・・・、大切な人に、心の中にしまってある大切な思いを伝えること、それが本編で綴られる「ラブレター」だ。

久保田真生(常盤貴子)は、ラジオのパーソナリティをしている。
4年前、仕事のことで喧嘩し、絶縁していた父親は、仲直りもしないまま2ヶ月前に他界した。
そんな彼女のもとに、父が生前自分宛に書いた手紙が届く。
そんな折、北海道の高校生・直樹(林遺郎)から、番組に一通の手紙が届く。
“笑わない父を笑わせたい”と・・・。
思わず、父と自分の関係を重ね合わせる真生であった・・・。

そしてある日、真生は、「引き出しの中のラブレター」という番組企画を立てる。
誰もが、心の奥にしまった、さまざまな“想い”を伝えることで、新しい一歩を踏み出せたら・・・。
それを、ラジオを通じて届けたい。
妻子と別れて暮らすタクシードライバー、シングルマザーを決意した妊婦、恋愛に悩む青年、たくさんのリスナーのために・・・。

手紙にしたためられた、一人ひとりの秘められた想いが、真生の声に乗って、彼らの大切な人のもとへ届くとき、いくつもの小さな奇跡が起こる・・・。

想いの詰まった手紙が、さまざまな家族の絆をつないでいく。
この三城真一監督映画「引き出しの中のラブレターに登場する人たちは、愛する者に面と向かってではなく、ラジオや手紙という間接的な方法で、自分の言葉を伝える。
人というのは、多かれ少なかれ不器用なものなのだ。
相手が見えると、つい照れたり、ごまかしたり・・・、けれども本当の真心さえあれば、きっとその想いは相手に伝えることができる。
映画の中で観る、たとえばそれは朗読であったり、映像であったり、歌や踊りやスピーチや笑顔であったり、“想いの伝え方”はいくらでもあるものなのだ。

出演は、ほかに萩原聖人、伊東四郎、片岡鶴太郎、中島知子、八千草薫、仲代達矢、六平直政ら、それぞれになかなか達者な役者が揃って、作品も全体に丁寧に描かれていて好感が持てる。
常盤貴子の語りも、心温まるしっとり感がよく出ている。
群像劇の形を成したヒューマンドラマだが、平たくなりがちなメッセージも、洒落たタッチで伝わってくるし、おしつけがましくもない。
笑いと涙の人間模様が、ほどよい癒しともなり、心の琴線に触れて、さざなみのような感動を呼ぶ。

便利な世の中だからこそ、逆に失われていくものもあるというが、そんな現代に本当に大事なものを、思い出してほしいというメッセージも感じられる。
この作品、さりげない空気感だけで、切なくさせたり、懐かしい気持ちにさせてくれる。
この秋、おすすめの一作である。
・・・過去というのは、時として、あたかも自分が主人公のドラマのように、想い出されるものだ。

映画「私の中のあなた」―愛の優しさに溢れて―

2009-10-10 07:15:00 | 映画

愛の優しさを、白血病の少女とその家族を通して描いた作品だ。
ニック・カサヴェテス監督の、アメリカ映画だ。
家族とは何か。
愛情とは何か。
生きるとは何か。
さまざまな問題を問いかけながら、この作品は決してシリアスな演出にこだわっているわけではない。
悲しい物語なのに、ときにはユーモラスで笑顔と明るさがある。
原作は、ジョディ・ピコーの大ベストセラー小説だ。

2歳だった娘のケイト(ソフィア・ヴァージリーヴァ)は、白血病に冒されていた。
それを知ったとき、母サラ(キャメロン・ディアス)と父ブライアン(ジェイソン・パトリックは、失意のどん底に落ちた。
担当医師ドクター・チャンス(デヴィッド・ソーントン)が密かに提案した、「ケイトの生命を救う、新たな子供を遺伝子操作でもうけること」が、残されたひとつの希望だった。
ケイトに生きてほしい。
そうして、次女アナ(アビゲイル・ブレスリン)は、“創られて”生まれてきたのだった。
その想いは、家族みんな同じだと母親は信じて疑わなかった。

ケイトの病状は、どんどん悪化していく。
医師に覚悟を決めるよう告げられても、サラはそれを受け入れられなかった。
腎臓を移植すれば、ケイトの生命は助かると、その一念にしがみついていた。
ところがある日、アナは「もう、姉のために手術を受けるのは嫌よ。自分の身体は自分で守りたい」と、両親に訴えたのだ。
病気と闘いながらも、幸せだった家族に訪れた突然のできごとであった。
そのアナの決断の裏に、何があったのか。
アナのついたひとつの“嘘”が、愛の結晶となって、家族を結びつけていくことになるとは・・・。

カサヴェテス監督は、実生活でも、心臓病を抱えた娘を育ててきたのだった。
経験した人だからこそ知っている心情を、彼は実に優しいタッチで描いている。
アナは、ドナー提供をやめることで、姉が死んでしまってもいいのか。
母親のサラは、どこまで妹に無理を押しつける権利があるのか。
ひとりの子供を助ける目的のために、別の子供を産むことは、倫理的に許されるのか。
そうした問題を提起しつつ、映画は、死を目前にした家族を結ぶ家族愛を描写していく。

母親サラを演じる、ハリウッドのキャメロン・ディアスがいい。
いつもの、明るいイメージとは全く違う役柄への挑戦だ。
ただ、ドラマは「生」「愛」「家族」という、いずれも大きな主題を盛り込みすぎているせいか、中途半端な感じもある。
それに、遺伝子操作で産まれてきた妹の設定というのも無理があって、どうも現実的とはいえない。
ニック・カサヴェテス監督アメリカ映画「私の中のあなたは、難病を取りあつかったシビアな物語だが、単なるお涙頂戴ものではないところが、救いといえば救いである。
生と死の意味を、真底から理解しようとするのは、いつでも難しいことのようだ。


頑張っている新大臣たち―官僚依存脱却は?―

2009-10-08 19:30:00 | 雑感

民主政権に変わって、革命的な‘改革’が進行(?)している。
少なくとも、自民政権のときよりは、まだ若い溌剌とした、新しい大臣たちがよく頑張っている。
よく勉強し、努力し、公約の実現に向かって一生懸命だ。
そういう印象を受ける。
しかし、政権担当能力となるとまだ未知数だし、とても十分だとは思えない。
マニフェストから、後退しているようなことはないか。

「子ども手当て」「高校無償化」など、26日からの臨時国会には、法案の提出が間に合わないといわれている。
こんなことで、来年度からの実施ができるのだろうか。
期待が、裏切られることにはならないだろうか。
少し、心配になってきた。

悪評高い、後期高齢者医療制度の廃止についても、どうやら先延ばしになるらしい。
マニフェストの実現でもたもたせずに、一日でも早く実行あるのみではないか。
どうしたのか。
結果が出て、はじめて国民は納得する。
いまでも、70%の世論の支持があるのだから、頑張れ!と言いたい。

補正予算のカットも、着々と進んでいるようだ。
でもまだ八合目で、もう一押しが必要なところに来ている。
何しろ、自民党の汚い焦土作戦で、埋蔵金はもぬけの殻だし、徐々にわかってくるデタラメ補正予算凍結の見直しは困難というから、鳩山新政権は‘七難八苦’だ。
全く、自民党は、いかにいい加減な政治を行ってきたことか。
無茶苦茶ではないか。
その、膨大な負の遺産を引き継ぐのは大変なことだ。

仙石刷新相や菅戦略相は、海千山千の官僚を相手に、どこまで財源を捻出できるかだ。
脱官僚、政治主導を唱えている民主党が、巧妙な官僚に篭絡されてしまうようなことはないのか。
それが、杞憂であってほしい。
鳩山内閣は、閣僚経験のない大臣が大半だ。
役所に乗り込むまではいいが、初めてのことに戸惑いも多いことだろう。
自民党の大臣でさえ、役所全体を把握しようとすれば、数ヶ月はかかるといわれる。

お役人というのは、実に狡猾だ。
新人大臣をたぶらかそうと思えば、造作もない。
うかうかしていたら、大臣の方が官僚に洗脳されてしまうことになる。
補正予算の削減も、役所寄りにならなければよいのだが・・・。
シロウト大臣が、公約を実現しようとするのは、さまざまな困難が伴うことだろう。
その困難を乗り越えてこそ、大臣だ。

テレビなどに登場している、閣僚をはじめ民主党の若手は、大方真剣な目つきで、優秀さをうかがわせる人が多いようだ。
政治の本質さえ見誤らなければ、あとは知恵をはたらかせて権力を行使するだけだ。
ある意味では、剛腕も必要だ。当然経験も・・・。
でも、初めから経験などありはしない。こればかりは仕方のないことだ。
眼高手低とはいうが、優れた理念があっても、実行力がなければまるでダメだ。
人(官僚)やモノは、どうやったら動くのか。
一番肝要なのはそこだろう。
政権中枢を経験していないと、役人の手のひらで転がされるだけで終わってしまい、したたかな官僚に到底太刀打ち出来ないということになる。

平成維新である。
何てたって、まだ改革は始まったばかりだ。
始まりだから、どうしたって手探りの感は否めない。
これまで長年の野党から、経験したことのない与党になったばかりなのだ。
そりゃあ、いろいろあるって・・・。
本当に日本のことを思うならば、だから、頑張れ!
真面目な努力は、いつかきっと実を結ぶものだ。
初めっから、ベテランなんていやしない。
急ぐことは大事だ。だが拙速では困る。
・・・でもですねぇ、でもですよ、誰だって初めはシロウトなんですよね。
(そんなこと、当たり前ではないか。)
誰だって、初めはね・・・。