徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「だれかの木琴」―心の奥底に抱える孤独から解放され空虚な魂が共鳴するとき―

2016-10-31 16:00:00 | 映画


 心が狂うとはどういうことだろうか。

 心が囚われていくとはどういうことだろうか。
 その思いを何と呼べばいいのだろうか。
 虚空に解き放たれた、孤独な魂の共鳴の物語だ。

 「もう頬杖はつかない」(1979年)、「絵の中のぼくの村」(1936年)、「酔いがさめたらうちに帰ろう」(2010年)などで知られる、名匠東陽一監督上荒野の同名小説をもとに、自分の行動に戸惑いながらも、自分自身の姿を探し続ける孤独な女性の姿を、描いた。
 原作の骨格を生かしながら、何とも不思議な味わいの作品が登場した。






夫の光太郎(勝村政信)と娘のかんな(木村美言)と郊外に引っ越してきた、普通の主婦小夜子(常盤貴子)は、新しく見つけた美容院で少し髪を切る。

海斗(池松壮亮)と名乗った若い美容師から、その日のうちにお礼の営業メールが届く。
それに返信したことから、小夜子の日常は一変する。

小夜子は自分でもわからない衝動に駆られ、何度もメールを送っては頻繁に店を訪れ、海斗を指名するようになる。
ついには、海斗のアパートを探し当て、呼び鈴を強く押してしまう。
海斗へのストーカー行為がエスカレートするほどに、小夜子は生き生きと輝きを増していく。
やがて、小夜子の家族や海斗の恋人唯佐津川愛美)を巻き込んで、二人がたどりついた先は・・・?。

どうしようもなく心が囚われていく。
主婦の小夜子は次第に行動をエスカレートさせていくのだが、それを、平凡な主婦の心の奥底を覗くようなカメラワークでで追っていく。
幸せに見える主婦の心にある空虚感を、常盤貴子が抑制のきいた演技で表現する。
彼女の地なのか、小夜子なのか、見分けのつかないような演技がすこぶるよく、高く評価したい。
池松荘亮も彼女のストーカー行為に困惑しながらも、誠実に向き合う青年を好演しており、二人は息の合った適役といった感じだ。
このキャスティングはとてもいい。

映画はありきたりのサスペンスとはならない。
このドラマに見るヒロインの行為も、断罪するほどでもない。
小夜子の行為は狂気というほどのものではなく、自ら抱える孤独や虚しさに無自覚で、むしろ自分を持て余しているように見える。
いや、見えるのではなく事実そうなのではないか。
日常と非日常の境界を行き来して、男女のリアルな孤独を淡々と描いて見せる。
特別ドロドロした愛憎劇や濡れ場があるわけでもないし、凄惨な事件が起きるわけでもない。
怖さを感じるとすれば、むしろそれは、日常の中に潜む小さな狂気そのものだ。
それをまた、はっきり狂気と言い切ってよいものかどうか。

小夜子の記憶の中で、ある家から聞こえてくる木琴の音は、小夜子の心模様の象徴か。
小夜子の内心は言葉ではっきりと語られることはなく、彼女の分別や焦燥とともに、何かが絶えず変化しているようなたたずまいを感じさせる。
まだまだ健在、81歳の東陽一監督作品「だれかの木琴」は、監督自身の女性や人間を見る眼差しの深さ、優しさが表われているように思われる。
どこかとらえどころのない作品と見えるが、それがこの作品の良さでもある。
この映画のラスト、超自然の動きを見せるブランケットが小夜子をそっと包み込むシーンは、主人公に寄り添う優しさと清新な感性が感じられる、秀逸な場面ではなかろうか。
いい作品だ。
余談だけれど、主演の常盤貴子の次回作は大林宣彦監督の作品だそうだ。
大林監督は78歳、東監督は81歳、いずれにしても高齢監督の作品から目が離せそうにない。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点



映画「永い言い訳」―妻を亡くした男と母を亡くした子供たちの不思議な出会いから始まるあたらしい家族の物語―

2016-10-28 16:00:00 | 映画


 「ゆれる」2006年)、「ディア・ドクター」(2009年)、「夢売るふたり」 (2012年)に続く、西川美和監督の4年ぶりとなる最新作である。
 西川監督は、直木賞候補となった自身の原作小説を、自ら映画化した。
 自らの脚本による、オリジナル作品を撮り続ける監督5作目の長編だ。

 妻の死をきっかけに、人とかかわること、人を愛すること野意味を見つめ直す男を描いた物語でもある。
 「おくりびと」以来7年ぶりに主演を務める本木雅弘が、味わい深い演技を見せている。











人気作家の衣笠幸夫(本木雅弘)は、妻の夏子(深津絵里)が旅先で不慮のバス事故に遭い、親友とともに亡くなったという知らせを受ける。

その時、不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。
そんな中で、同じ事故で死んだ夏子の親友の夫、大宮陽一(竹原ピストル)とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。
陽一はトラック運転手で、不在がちな彼の代わりに、長男の真平(藤田健心) 、妹の灯あかり白鳥玉季)の世話をするうちに、幸夫は誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き始めるのだった・・・。

幸夫は自意識の塊のような男として描かれ、欠点だらけなのだが、その人間臭さが妙に愛おしく見えてくる。
幸夫と亡くなった妻との夫婦関係はとっくに冷え切っていて、不倫の最中に悲劇の主人公を装い、実はどうしていいのかわからなくなっている。
自分に子供もいない彼が、他人の子供たちの世話を始めるのだ。
「愛すべき日々に、愛することを怠ったことの代償は小さくない」という、幸夫の言うフレーズがやけに効いている。
マルチなアーティストの、竹原ピストルの演技もはまっているではないか。

季節は春、夏、秋と移り、全編を通して主人公幸夫が微妙に変身していく。
外面を装わなくてはならない。
そうしなければ、生きてゆきにくい現代人の虚無を切り取った場面は、見どころである。
陽一の息子や娘の面倒を見るといっても、どこか欺瞞のようなものが漂う。
陽一は、妻の死に打ちひしがれながらも、懸命に生きようとしているが、心の核に空疎なものを抱える幸夫とは対照的だ。

西川監督の、人間の可笑しみや愛おしさを感じさせる演出が功を奏しており、一方で人間の虚しさ、愚かさも見つめる。
人は突然家族を失ったとき、どのように人生を取り戻すか。
西川美和監督新作「永い言い訳」は、人生再生の過程を繊細かつ丁寧に描いた映画だ。
脚本もよく練れている。
これまでも、人情の機微を描き続けてきた西川監督だが、この作品で細やかな心理描写とともに心にずしりと残る余韻が心地よく、演出も鋭い。
このドラマのような話は、現実にありうることかもしれない。
そんな気がする。

ひとを愛することの、素晴しさと歯がゆさも一緒に、見ごたえ十分の一作で傑作に近い。
        [JULIENの評価・・・★★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「だれかの木琴」を取り上げます。


映画「ダゲレオタイプの女」―金属板に刻まれる愛の幻影と愛の悲劇―

2016-10-27 15:30:00 | 映画


 世界的にも高い評価を得ている黒沢清監督が、フランスを舞台に、全員外国人キャストで、全編フランス語で撮影を刊行した新作は、初の海外作品だ。

 被写体を長い時間にわたって拘束する古典的な写真技法、ダゲレオタイプに固執する写真家が、亡き妻の面影を追って、娘を撮影するうちに、狂気の幽冥界へ沈んでいくさまを描いている。
 愛と悲劇の物語である。














求職中のジャン・マラシス(タハール・ラヒム)は、撮影に長時間の露光が必要なダゲレオタイプの写真家ステファン・エグレー(オリヴィエ・グルメ)の助手となる。
ステファンは、パリ郊外の古い屋敷内で、娘マリー・エッグレー(コンスタンス・ルソー)を拘束具に縛りつけ、撮影を強いていた。
・・・70分、120分・・・。

マリーを拘束したまま撮影を続けるステファンの行動は、次第に常軌を逸していく。
ジャンは、屋敷内に現れる女の霊が、かつてモデルを務め、自殺したマリーの母だと知る。
写真家の狂気にも似た愛を受け止める娘、娘に心を奪われ、囚われの世界から救い出そうとする男と・・・。
自ら命を絶った女の幻影を感じるパリ郊外の古い屋敷で、彼らの運命は少しずつ狂っていく・・・。

写真家の邸宅に幽霊が現われ、娘もやがて幽霊となる。
最初から幽霊のままの幽霊と、途中で死んで幽霊になる幽霊の二種類の幽霊が登場する。
その一方で、若い男女のラブストーリーが横たわる。
撮影は愛だけでなく苦痛を伴い、ステファンはかつて被写体を務め自殺した妻の幻影に脅える。
ドラマの中で、ジャンはマリーが母親の二の舞にならないよう、外に連れ出そうとする。

ダゲレオタイプでは、等身大の銀板に姿を焼き付ける手法が使われ、人間は器具で体を拘束される。
撮影者にとっては、ネガのない唯一無二の写真を撮ることが最上の愛情表現であろうと、被写体は苦痛に耐え、少しずつ命を削っていくことになるのだそうだ。
妻の魂は屋敷内を浮遊しているみたいで、それは夫への報復か。
この作品、愛と死をめぐって描かれるホラーラブストーリーで、全編に不穏な空気が漂う不思議な世界が展開する。

ドラマでは、マリーがいのちを吸い取られていくように見える。
その怪奇感はぞくっとさせる。
この世とあの世の境界が曖昧になっていく。
これが黒沢監督の死生観か。
写真家の助手役タハール・ラヒムは35歳で大学で黒沢清を勉強したという世代で、実際に黒沢演出を体験し、感嘆の声を上げたという。
愛と死は切っても切れないもの、ホラーとラブストーリーは両立するのだ。
黒沢演出は、カットの構成や光の撮りかたが独創的で素晴らしい。
ダゲレオタイプという技術は、180年前にフランスで開発された近代写真術だそうだ。
直接銀板に焼き付けるその写真は、世界にひとつしか残らない。
黒沢清監督フランス映画ダゲレオタイプの女」は、愛と死を絡め、美しさと恐怖が同居する幻想譚だ。
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「永い言い訳」を取り上げます。


映画「人間の値打ち」―格差社会に生きる人々の交錯する欲望の果てに―

2016-10-26 17:00:00 | 映画


 人間の欲望を背景に描かれる、パオロ・ヴィルズィ監督イタリア映画だ。
 北イタリアの都市に暮らす、上流、中流、下層の階級の世代の異なる人々を主人公に、ある交通事故をきっかけに浮かぶ上がる三家族の思惑が絡む人間模様を描いた、サスペンスドラマである。

 物語は、クリスマスイヴの前夜にミラノ郊外で起きたひき逃げ事件に始まり、そこに至るまでの様々な人間模様を4章構成で描いている。
 イタリア・アカデミー賞主要7部門受賞した。













(第1章)
中産階級の主人公ディーノ(ファブルツィオ・ベンティヴォリオ)は、町で不動産業を営んでいる。
高校生の娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)のボーイフレンドであるマッシ(グリエルモ・ピネッリ)の父親で、大金持ちの投資家ジョバンニ(ファブリツィオ・ジフーニ)のファンドでひと儲けしたいと願っている。

(第2章)
大富豪ジョバンニの妻で、マッシの母親カルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)はこの章の主人公で、有閑マダムだ。
自分の望みも居場所もわからないが、夫の出資で財団を設立し、町の劇場の再建を目指している。

(第3章)
主人公はセレーナだ。
周囲からマッシの恋人と思われているが、大麻所持で逮捕歴のあるルカ(ジョバンニ・アンザルド)と知り合い、彼の純粋さに触れ、想いを寄せている。
マッシを乗せてセレーナが運転する車と、ルカの運転する車が、ジョバンニの家に向かう途中で、事件が起きた。
ルカが自転車をはねてしまったのだ。

(最終章)
ひき逃げの被害者は息を引き取り、セレーナは叔父ダヴィデ(パオロ・ピエロポン)にルカに会うことを禁じられる。
セレーナはパソコンを使ってルカに励ましのメールを送り、マッシの無罪を証明することにもなるそのメールを偶然読んだディーノは、それを材料にジョバンニに取引を持ちかける。
それを拒否した夫に代わって取引に応じたのは、息子を救いたいカルラだった。
こうしてディーノは娘の恋人を売り、98万ユーロとカルロのキスまで奪うが、売られたルカは手首を切って自殺を図る・・・。

冒頭のひき逃げ事件の犯人は誰かという、謎解きのサスペンスを保ちつつ、登場人物それぞれの生活がリアルに描き出される。
主人公たちの感情や出来事を大きく膨らませながら、ドラマは奥行きのある構成で、現在と過去、三家族の人間模様を交錯させながら展開する。
多彩な人間群像劇を見せられているようだ。

全4章で、ひき逃げ事件の前後にあった出来事を、三者の視点でとらえ、誰が本当のことを言っているのか、誰が犯人なのかを少しずつ明らかにしていく。
脚本はよく練られており、構成もなかなかしっかりとしていて上手い。
同じ街で生活しながら、上流、中流、下層の生活の違い、格差社会のありようが、日本の社会にも当てはまりそうで・・・。
愛と金と欲望の翻弄される人々は、どこにでもいるではないか。
それは見方によって、滑稽で醜悪、人間の哀しみである。

金で動く大人たちと、彼らに翻弄されながらもひたむきな子供たち。
パオロ・ヴィルズィ監督イタリア映画「人間の値打ち」は、全編を通して登場人物が目まぐるしく入れ替わり、すぐに理解できないような展開もあって、物語を追いかけるのに精いっぱいだ。
それでもこの作品の面白いのは、名優たちの競演のおかげであろうか。
映画は、脚本と俳優が大きくものをいうのだ。
不条理な結末を目にして、人間の愚かさまでも思い知らされる重厚な一作である。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「ダゲレオタイプの女」を取り上げます。


映画「めぐりあう日」―北フランスの港町に母親のまなざしを求めて彷徨う女性の光と影―

2016-10-23 17:30:00 | 映画


 「冬の小鳥」(2009年)でデビューした韓国系フランス人ウニー・ルコント監督が、6年ぶりに発表した長編第二作である。
 自分を産んだ母親を知らないまま大人になった女性の、母親探しの物語だ。

 前作は、9歳で韓国の養護施設から養子としてフランスに渡った、自身の体験による映画で注目されたが、今回の「めぐりあう日」の主人公も、親に捨てられた30代の女性の話だ。
 同じように養子として育ち、親子の戸惑いや葛藤、和解といった、女性の複雑な感情をドラマは繊細かつ丁寧に追っている。











エリザ(セリーヌ・サレット)はパリで理学療法士として働きながら、夫と8歳の息子ノエ(エリエス・アギス)とともに暮らしていた。
養母の下で育った彼女は、実母について調査するが法律に阻まれ、自分が生まれた港町ダンケルクにノエを連れて引越し、実母探しを始める。

一方ノエが転校した学校で、給食や掃除などの仕事をする中年のアネット(アンヌ・ブノワ)は、母親と同じアパートで独り暮らしをしている。
そんな彼女が転倒し背中を痛めたことから、エリザの治療を受け、やがて二人は親しくなる。
理学療法士のエリザは、マッサージのように患者の身体に直接触れるうちに、安らぎの入り交じった特別な気配を相手に感じるようになる。

そのうち二人はそれぞれの思惑から、心を掻き乱されるようになり、エリザは第二子を妊娠するが今は産めないため中絶する。
アネットは、エリザが養子であることを知り、自分の過去を明かす決心をする。
そして、二人が本当の親子であることが判明するのだが・・・。

原題は、「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」。
作家アンドレ・ブルトンが著書「狂気の愛」で娘にあてた一文だ。
ルコント監督にとって、この言葉に25歳の時に出会って以降、ずっと人生の支えになるフレーズだったと語っている。
今回の6年がかりの映画製作の過程でも、力を与えられたという。

何にでも、「触れる」ということがこの作品では丁寧に描き出されている。
アネットは往診を重ねる中で、エリザが自分の娘であることに早くから気が付くが、このあたりの話は偶然過ぎていかがなものかと気にはなったが・・・。
ドラマの主軸は、主人公エリザと産みの母親との邂逅なのだが、同時に親子三代の物語でもある。
過干渉の母親ルネ(フランソワーズ・ルブラン)と彼女から独立できない中年の娘アネット、実の母親であるアネットと娘のエリザ、そして夫との関係がうまくいかず、自分のルーツを求めるあまり時おり情緒不安定になる母親エリザと、思春期に差しかかる年頃の息子ノエという、三世代の母子の風景が浮かび上がる。

親子や夫婦間の問題に、移民関係を絡めながら、エリザがどうして養子に出されたのか、謎が展開される。
ウニー・ルコント監督フランス映画「めぐりあう日」は、出自に悩み乱れる心を鮮やかに描きつつ、通俗的なメロドラマとはならずに、抑制のきいた作りで、作品全体に知性を感じる。
決して単なる母子の再会物語ではない。

フランス屈指の女性撮影監督カロリーヌ・シャンプティエは、迷いから抜け出せない主人公の心の揺れとともに、曇り空のダンケルクの街並みや海岸、橋、運河など街の景観を、エリザの心象風景のように透明感のある映像で美しくとらえている。
奇跡的に再び交じりあった道は、またそれぞれの道へと進み出すことになる。
深い余韻の残るラストシーンである。
映画は前作と合わせて、最終的には三部作が予定されているらしい。
現在シナリオを執筆中で、来年撮影を目指しているといわれる。
          [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はイタリア映画「人間の値打ち」を取り上げます。


映画「ミモザの島に消えた母」―禁断の“家族の秘密”が紐解かれる時人生の真実が―

2016-10-18 17:00:00 | 映画


 30年間秘められてきた家族の秘密をめぐって、世代を超えて解き明かされていく、フランス製サスペンスだ。
 「サラの鍵原作者でもあるタチアナ・ド・ロネのベストセラー小説を、フランソワ・ファヴラ監督が映画化した。

 ドラマは謎解きの面白さを散りばめながら、緊張感に満ち、驚きの結末へと観客を導いていく。
 家族再生のミステリアスな心理劇でもあろうか。














30年前、冬に咲く小さな花から通称“ミモザの島”と呼ばれる、西フランスの避暑地・ノアールムティエ島沿岸の海で、ひとりの若い女性クラリス(ガブリエル・アジェ)が謎の死を遂げた。
アントワーヌ(ローラン・ラフィット)は、40歳になった今でも、愛する母クラリスを失った喪失感から脱け出すことができず、母の死の真相を探ろうとする。

父は再婚し、母の存在は闇に葬られた。
アントワーヌは真実を知るべく躍起となるが、妹のアガット(メラニー・ロラン)は過去を掘り起こす兄に反発する。
彼は離婚、失業、子供との不仲を抱えて、全てが母親の死に起因していると感じ、アガットとともにミモザの島に向かう。
真相を突き止めようとするアントワーヌに、何故か家族は母の死について口を開こうとしない。
果して、当時母の身に何が起こったのか。
ミモザの島を訪れたアントワーヌは、自分の知らなかった母のもうひとつの顔、そして母の死の背景に渦巻く禁断の真実にたどり着くのだった・・・。

家族の感情の機微と、心の痛みが丁寧に描かれ、真実を紐解いていく。
家族の葛藤と抑圧を炙り出す、フランソワ・ファヴラ監督のフラッシュバックの効果的な使用もあって、演出は手堅い手腕を見せる。
家庭も仕事も八方ふさがりで、人生の岐路に立つ中年男性が封印された過去と出会うことで、現在を受け入れようとする。

30年前の謎を解き明かそうとするミステリーの縦糸と、四世代の家族が繰り広げる愛憎劇の横糸によって、緻密に織り上げられていく。
だが、その縦糸と横糸のさじ加減が微妙にアンバランスで、30年前の過去について、母親とその周囲のことにもう少し具体的な説明描写も欲しかった。
形見の腕時計を手掛かりに、母の知られざる横顔と、彼女の死の真相を闇に葬った家族の秘密を探り当てていくアントワーヌだが・・・。
その過程で彼は、秘密を隠し通そうとする父や祖母から孤立してしまう。
一方で、過去と向き合う勇気を得たことで、恋人や妹との絆を深め、心の通わなかった娘との距離を狭めていくのだった。
秘密がじわじわと炙り出されていくにつれて、家族間の緊張は高まりを見せる。

舞台の島は、満潮時に本土への通路(一本道=パサージュ・デュ・ゴワ)が断たれる独特の景観で、いかにも象徴的な見どころのひとつである。
美しい海に囲まれた島の景色が、物語の魅力を引き立てる。
力のこもった作品だが、前半冒頭の導入部が長すぎて退屈だ。どうにかならなかったのか。
後半一気のクライマックスへ、ここはかなりかったるい。
フランス映画「ミモザの島に消えた母」は、サスペンスフルな、母の死を探る兄妹と家族の再生の物語だ。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「めぐりあう日」を取り上げます。


映画「淵に立つ」―崩れゆく家族に静かに燃え上がる人間の罪と罰―

2016-10-15 13:00:00 | 映画


 今年5月のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門で、審査員受賞した。
 「ほとりの朔子」(2014年)、「さようなら」2015年)と、映画祭を華やかに彩ったあの深田晃司監督が、今回は人間の内面を深く抉る、異色の家族ドラマを誕生させた。

 或る闖入者によって、家族3人の平穏な暮らしが変容していく。
 その過程と行き着く先を、スリリングに描いた作品だ。
 この映画の、心にずしりと残る余韻をどのようにたとえたらよいものか。











郊外で金属加工工場を営む鈴岡利雄(古館寛治)と妻の章江(筒井真理子)、それに10歳の娘の蛍(篠川桃音)3人家族のもとに、利雄の友人という八坂草太郎(浅野忠信)が現われる。
八坂は、最近まで殺人罪で服役していた男だったが、利雄は章江に断わりもなくその場で八坂を雇い入れ、彼は住み込みで働くことになった。
利雄は自宅の空き部屋を提供し、章江は突然の出来事に戸惑う。
だが、礼儀正しく、敬虔なクリスチャンである章江の教会活動に参加したり、蛍のオルガンの練習にも喜んで付き合う八坂に行為を抱くようになる。

八坂に負い目がある利雄は、家族の一員のように振る舞い、妻と親密な様子の八坂を見て見ぬふりをする。
そしてある時、八坂は一家に残酷な爪痕を残して、突然姿を消した。

8年後、八坂の行方は知れず、利雄は興信所に調べさせているが、一向に手がかりはつかめない。
工場では、古株の従業員の設楽篤(三浦貴大)が辞めることになり、代わりに山上孝司(太賀)が新人として入ってくる。
だが、皮肉なめぐり合せにより、八坂の消息がつかめそうになった時、利雄と章江は再び心の闇と対峙することになるのだった・・・。

一見平和な家族が、ある異分子の侵入によって、姿かたちを変えていく。
とにかくはっきりしないことが多い。
八坂の過去、鈴岡の過去、どことなくぎごちない鈴岡夫婦の間柄、八坂の真意も、蛍を巻き込む「事件」の真相など、何もかもが曖昧のまま放置される。
これは、敢えて観客を惑わせようとする深田監督の演出か。
想像と思索を、究極なまでに観客にまかせ、不安をあおる。
不気味な深淵が横たわっているようだ。
偶然と運命が交叉し、優しさと暴力が交じり合う。

深田監督にとって、ここでは家族は不条理だ。
そして、日本・フランス合作映画「淵に立つ」では、何を考えているのかわかりずらい人たちが登場し、先の読めない言動を繰り広げる。
観ている方は様々なシーンで、大なり小なり不意打ちを食らうわけだ。
ドラマはダークな心理スリラーのようだ。

妻の章江が、物語の前半と後半の8年後でがらりと変貌しているさまに、凄さが感じられる。
さすが筒井真理子、ベテランの演技力だ。
鈴岡夫婦の間に波紋を起こす張本人が八坂の存在で、浅野忠信演じる八坂が幅広い善悪を抱えた謎めいた男で熱演し、一方でともに舞台俳優の古館寛治筒井真理子は、平凡な小市民を装いつつ、秘密を抱えた男女を陰影深く演じている。

当たり前の家族の脆弱さが描かれているが、登場人物の誰もがそれぞれ秘密を抱えている。
それぞれが物静かなたたずまいで、内に何を秘めているのかわからない。
この作品はドラマの初期設定から、どんどん悲劇を深めていく。
ドラマのプロセスは、圧倒的にスリリングで、テンポもまあ申し分ない。
揺れ動く登場人物たちの、崩壊と再生、理性と衝動、善意と悪意、罪と罰を重ねたその果てに、何があるのか。
深田晃司監督、1980年生まれ、世界の映画シーンにその名を刻み続ける彼の最新作が、30代の若さでカンヌ常連組の仲間入りを果たした!
河瀬直美監督「萌の朱雀」 (1997年)以来、20年ぶりの快挙である。
これからますます期待の高まる監督だ。
         [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「ミモザの島に消えた母」を取り上げます。


映画「ロング・トレイル!」―本当の自分を見つけようといつか夢見た青春の山旅―

2016-10-11 04:00:00 | 映画


 人生は旅であり、旅は人生だ。
 この作品は、ある実話をもとに描かれる、人生応援歌である。

 森の濃い緑、獣の呼びかけ、行き交うハイカー、隣人や仲間との語らい・・・。
 ロング・トレイルとは、どこまでも歩く旅を楽しむ道のことで、登山ではない。
 登山道もあるけれど、自然散策路、遊歩道、里山などをつないで、地域の自然や文化に触れ、宿泊などもして、3500㎞もの長い一本道を進むのだ。

 この映画の舞台は、アメリカ東部全14州をひたすら歩き続ける、アパラチアン・トレイルだ。
 米国三大トレイルのひとつで、3500㎞といえば、日本の九州から北海道までの距離に相当する。
 アメリカのこの人気コースを、名優ロバート・レッドフォードとアウトローが似合う個性派ニック・ノルティが挑む総延長3500キロである。
 しかしそれは、ゴールのない旅に等しく、ケン・クワピス監督ノンフィクション作家ビル・ブライソンの原作を得て、いくつもの弾けるような笑いに満ちた、愉快なスリル満点の映画を作り上げた。

 

紀行作家のビル(レッドフォード)は、長年暮らした英国から米国へ戻り、妻キャサリン(エマ・トンプソン)と、セミリタイアに近い生活を送っていた。

あるとき、平穏な日常に物足りなさを感じた彼は、ふと自分の家の近くを通る北米有数の自然歩道“アパラチアン・トレイル”3500㎞の踏破を思いつく。
妻を安心させるため、旅の相手を募ったところ、ただ一人現われたのは、長年音信不通だったワケありの旧友カッツ(ノルティ)だった。

期待と不安を胸に二人は出発する。
しかし、意気揚々とスタートするまではよかったが、大自然の驚異と体力の衰えという現実が、彼らの前に立ちはだかる。
やがて、彼らの波乱の冒険は、思いがけない“心の旅”へと進路を変えていく・・・。

人生の終焉を意識し始めたシニア世代の二人が、大自然の驚異に直面しながら見つけたものは何だったか。
見た目も性格も正反対な二人が、助け合って、数々の困難を乗り越えていくうちに、いつしか心を通わせていく。
この二人が、心を開いて語り合うシーンがいい。
「旅は人生と同じ、ベストをつくせばいい。」
それが、出発時の二人の誓いだった。

ケン・クワピス監督はコメディドラマの名手で、俳優を絶妙に配置し、登場人物の人間らしさを最大限に引き出している。
二人に襲いかかる予測不可能な危機・・・。
彼らは、この長い旅路を歩き通せるのか。
3500キロの完全踏破は難しくても、美しい大自然を舞台に、自分らしく生きるヒントや明日への活力を見つけることができる、爽快なドラマだ。

初老の男二人の旅は、吹雪や熊、滑落など、いたるところで自然の驚異に遭遇する。
名優二人のかっこよさも渋みもたっぷりだが、ずっこけぶりもユーモラスで笑わせる。
友情と人生の黄昏の共感が生まれる。
軽妙洒脱な、自然への敬意も込めて作品はやや贅沢な作りに、正反対な友人二人を演じた、名優二人の掛け合いと珍道中に笑いは尽きない。
アメリカ映画「ロング・トレイル!」は、今年80歳のロバート・レッドフォード75歳のニック・ノルティ、この人間臭い二人のオヤジが自身の半生を振り返るような役柄を好演し、老体に鞭打って笑わせてくれる。
製作にも立ち会ったロバート・レッドフォードだが、2002年に原作と出会って、完成まで13年の歳月を費やしたといわれる。
人生応援のヒューマン・ムービーである
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本・フランス合作映画「淵に立つ」を取り上げます。


映画「月 光」―人間の尊厳を打ち砕かれた行き場のない魂の流浪―

2016-10-09 15:00:00 | 映画


 日本だけでなく、世界的にも人権問題として取り組まれている性虐待の問題に切り込んだ、衝撃作だ。
 「風切羽」(2013年)小澤雅人監督が、この問題と正面から対峙し、人間の尊厳と希望を描くことに挑んだ作品である。

 男性による、女性、少女への性暴力という重いテーマを扱った社会派の映画だが、ドラマは暗くひりひりとした痛みを伴っている。
 懊悩する魂の叫びは、荒々しい声となり、激しい嗚咽となって響いてくる。
 決して癒やされることのない、心の闇を切り裂くかのようだ。
美しいが、悲しい映画だ。









カオリ(佐藤乃莉)は、ひとり細々とピアノ教室を営んでいる。
ある夜、教室の主催するピアノ発表会の帰りに、彼女は教え子の一人であるユウ(石橋宇輪)の父親トシオから性的暴行を受ける。
この事件は、彼女の心身を深く傷つけただけでなく、過去の忌まわしい記憶まで呼び覚ましたのだった。

一方、ユウもまた父親からの性的虐待に曝されていた。
彼女も、自らの被害を誰にも打ち明けられずにいた。
カオリとユウの二人は、深い孤独の闇の底で、苦しんでいたのだ。
二人は再び出会って、運命に導かれるかのように、癒やしえぬ魂の痛みを共有していくのだった。
そして、カオリはユウの願いを叶えるべく、ある決断をする・・・。

誰にも言えない苦悩が二人にはあった。
二人は絶望の渕で出会った。
冷たく美しい月光が照らす世界・・・。
女の叫び声が、どこまでも野生の咆哮のように聞こえている。

暗い画面に動く人物も、その人物の表情もさだかではない。
女たちがどんな状態で、どんな心理状態に置かれているか、その表情を月光から読み取ることは不可能だ。
小澤雅人監督は、非常に難しい演出を迫られることになる。

ノンフィクションのような現実を描きながら、暴力被害を受けた者たちの様々な設定状況が散りばめられていて、しばしば息苦しく感じられる。
母親は自分の娘が被害に遭っていることを感じながら、被害そのものをないことにしようとする。
それは、事実に対する否定となって、娘の受けている虐待を全否定するかのようだ。
しかし、小澤雅人監督作品「月 光」を観る限り、人間の魂の救済を感じ取ることはできない。
ヒロインを演じる、どこかエキゾティックなたたずまいの佐藤乃莉も熱演だが、親から不当な扱いを受け続ける少女役の石橋宇輪も、この作品で本格的な映画デビューを果たした。

この作品のラストは、わずかな希望の光を感じさせるが、幸福な未来は遥か遠くに感じられる。
それと、視覚、聴覚を重視するこの作品の描かれ方は、暗闇の中の情景にしても、フラッシュバックにしても、もう一工夫あってほしい気がする。
食い入るように凝視している画面がぼんやりとして、何が起こっているのか、理解しにくい部分が多々ある。
人が過去に受けた、魂がちぎれるほどのトラウマは、生涯消えることも癒えることもない。
あったことは、決してなかったことにはならないのだ。
・・・何という無残なことだろうか。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「ロング・トレイル!」を取り上げます。


「おりょうの生涯展」―坂本龍馬の妻おりょう没後110年記念―

2016-10-05 21:17:33 | 日々彷徨

幕末の志士、坂本龍馬の妻おりょう(1841年~1906年)は、晩年を横須賀で過ごした。
おりょうが亡くなって、今年で110年になるそうだ。
そのおりょうの、龍馬の妻として生きた歴史を、彼女の側から展観する。
新装なったばかりの、横須賀市の大津コミュニティセンター3階(京急大津駅徒歩1分)で、10月1日()から8日()まで、午前10時から午後4時まで開かれている。

おりょうの生い立ちから、龍馬との出会い、結婚、龍馬の暗殺後に、全国を流浪した波乱の人生を、400点もの資料とともに紹介している。
龍馬が修行先の千葉道場で授かった「北辰一刀流長刀兵法目録」の写しをはじめ、龍馬からおりょうへの手紙、さらに龍馬暗殺事件前後の貴重な資料の展示など、いろいろと興味深い。
規模は小さいが、よくまとまっていて、なかなか貴重な展覧会だ。
来たる8日()には、近くにおりょうが眠る信楽寺で墓前祭が予定されている。
主催は大津観光協会だ。(TEL 046-836-3531)
入場無料。帰りにミニクッキーの土産物をいただく。(笑)

次回のブログでは日本映画「月 光」を取り上げます。