老年を迎え、新しい人生を歩み始めた男女7人を描いた「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」(2013年日本公開)の、装いも新たな続編である。
イ ンドのリゾートホテルを舞台に、生きがいのあるセカンドライフを模索する男女を描いている。
新味を感じさせる楽しい作品だが、多すぎる(!)登場人物と様々なエピソードを欲張りすぎてどうしたものか。
でも、作品全体の騒々しいほどのエネルギッシュなパワーには脱帽だ。
様々な事情で5人になった男女は、高級ホテルになる予定のオンボロホテルが今ではすこぶる気に入っている。
そんな彼らに、新たな選択が待ち受ける。
ホテルの若きオーナー、ソニー(デヴ・パテル)は、初めてのアメリカ出国に浮足立っていた。
事業拡大にために、投資会社の社長タイ・バーリー(デヴィッド・ストラーザン)に融資を持ちかける。
宿泊客から共同マネージャーに転身したミュリエル(マギ-・スミス)は、ティーバックと生ぬるいお茶を出され、こんなものは紅茶ではないと熱弁をふるう。
だが、バーリーはそんなミリュエルを気に入り、ソニーの話にも耳を傾ける。
ボロホテルだが、それでも充実した日々を送っていたイヴリン(ジュディ・デンチ)は、ホテルの責任者に抜擢され、一方で互いに好意を寄せ合っていたダグラス(ビル・ナイ)との関係は以前のままだ。
イヴリンは前に進む勇気がない。
ノーマン(ロナルド・ピックアップ)とマッジ(セリア・イムリー)は、経営を任された外国人クラブの不振と恋愛問題を抱えていた。
ノーマンは、生涯の伴侶と決めたキャロル(ダイアナ・ハードキャッスル)の浮気疑惑に悩み、マッジは地元の裕福な男性との間で心が揺れていた・・・。
舞台はインド、この国の色彩と音と人の数に圧倒された老人たちは、こちらの風土に抵抗なく馴染んでいた。
老いは新しい人生の始まりと、謳歌している。
インドの華やかなダンスや、歌、婚礼のシーンも楽しく見せており、期待を裏切られるようなことはない。
オーナーの勘違いがもたらしたもたつき、年を取っても枯れることのない恋心など、滋味あふれる名優たちの競演も賑やかで騒々しいほどだ。
ドラマに謎の客として登場するガイ・チェンバース(リチャード・ギア)が、ミステリアスな存在として一役買っている。
大筋ではソニーとスナイチ(テーナ・デサイー)の結婚と事業拡大騒動が物語の主軸になっている。
前作のようなドラマの温かみという点では、やや味付けも薄い。
とにかく、街の喧騒が凄い。
インドに欠かせないボリウッド・ダンスも健在だが、終盤の結婚パーティーは圧巻だし、揃いも揃った名優たちの競演もあきない。
ジョン・マッデン監督のアメリカ映画「マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章」は、好むと好まざるとにかかわらず、じんじんと伝わってくる熱気に圧倒される。
陽気で底抜けに明るいコメディだ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回はグアテマラ映画「火の山のマリア」を取り上げます。
フランスという国は、異人種間の結婚率が世界一なのだそうだ。
欧州を揺るがしている移民問題は、大きな社会問題となっているが、この作品はフィリップ・ドゥ・ショーヴロン監督がユーモアいっぱいに切り込んだ映画だ。
今や誰もがその中にいる多文化的状況を、いかなる偏見や固定観念にもとらわれることなく、笑いの世界へと誘う粋なコメディなのだ。
差別的な偏見や不寛容さえも抉りだし、それを見事に笑いへ昇華させて見せた。
ここでは、4人の姉妹が次々と国際結婚した一家の騒動を描いている。
フランスのロワール地方に暮らす、クロード(クリスチャン・クラヴィエ)とマリー(シャンタル・ロビー)のヴェルヌイユ夫妻には、他人には相談できない悩みがあった。
長女イザベル(フレデリック・ベル)、次女オディル(ジュリア・ピアトン)、三女セゴレーヌ(エミリー・カーン)の3人の娘たちが、次々とアラブ人 、ユダヤ人、中国人と結婚し、様々な宗教儀式から食事のルールまで、異文化への驚きと気遣いにほとほと疲れ果てていた。
そんな時、最後の希望だった末娘ロール(エロディ・フォンタン)が、カトリック教徒の男性と婚約した。
ヴェルヌイユ夫妻は敬虔なカトリック教徒で、これまで異教徒の男と挙式した娘への落胆を隠せないでいた。
しかし、大喜びの夫妻の前に現れたのは、コートジボワール出身の黒人青年だった。
しかも、これにはフランス人嫌いの彼の父親の方が大反対であった。
果して、色とりどりのこれらの家族に、愛と平和が訪れる日は・・・?
いやはや賑やかな映画だ。
大らかなユーモアの中に、大胆なスパイスを効かせた脚本と演出で、フィリップ・ドゥ・ショーヴロン監督はエンターテインメント界に新風を吹き込んだ。
異人種間結婚世界一のフランスで、監督自身もアフリカ系の女性と結婚したという実体験があり、この作品にもその時のエピソードを盛り込んでいる。
フランスでは、市役所の中に結婚式を行うスペースがあり、書類提出と一緒に市長が「祝福」の式を行うことで結婚が完了する習慣がある。
一般的には、カトリックの場合、新郎新婦のどちらかが信者でなければ式を挙げることはできないとされる。
映画のオープニングから、3人の娘たち全員が外国人と結婚したという設定は、ちょっと奇抜だ。
こういう作品を、笑って泣ける作品というのだろう。
登場人物たちの会話の端々に、文化や宗教、見た目をめぐるタブーすれすれのネタが散りばめられており、その底には愛情と笑いがある。
不愉快な気分になるということはなく、むしろ父親同士が本音でぶつかり合ったりして、世界の国際的縮図を眺めているようで楽しい。
まあ、現実の社会はこんなに甘くはないだろう。
設定だって、わざとらしいところがある。
痛快なユーモアセンスも、ことあるごとにフランス人を敵視する花婿の父親の言動も爆笑ものだ。
笑いと涙の異文化バトルが面白い。
敬虔なカトリック教徒の夫妻と、娘が結婚を決めた黒人青年との騒動を描いたフランス映画「最高の花婿」は、異文化問題という複雑な側面.にまで踏み込んでいる。
それでも映画はリラックして観られるし、フランスでは1240万人を動員し、世界145カ国に配給された。
少なくとも、5人に1人は観たという国際的なヒット作品だ。
家族、友人、宗教、会社、国家・・・、地球に存在する、大小様々なグループのそれぞれが幸せであるための一番の方法は、それぞれの国の〈違い〉を認め合い、理解し合うことなのだけれど、そこで初めて確かな愛が生まれる。
ヴェルヌイユ家と異人種花婿たちの新しい絆に、強い愛の力(パワー)を感じる。
それは、力強い感動の物語となる。
この作品では、差別と偏見が正面衝突することがコメディとなって笑わせる。
しかし、笑っているうちはまだいい。
そもそも、国籍や民族の違いに、どんな意味があるというのか。だからといって、多民族、多種族がひとつの国に群れ集まったとき、何が起きるか。
それは、必ずしも平和な歴史を刻むことを約束するものではない。
振りかえれば、凄まじい戦争の歴史だからだ。
映画を観て、笑えるうちはいいのだ。
くどいようだが、世界は、そんなに甘くはない。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
夫婦の間に積み重ねられた時間が、あるとき静謐な崩壊を始める。
長年連れ添っても、夫婦の間には埋められない溝があるのだろうか。
怖くて切ない、女と男の物語である。
アンドリュー・ヘイ監督はまだ40代前半だが、この作品には老練な味わいが漂っている。
劇的な出来事はここにはなく、老夫婦の心理を微細に描くところから、緊張感が生まれる。
夫婦の心の変化を見事に表現する名優二人、シャーロット・ランプリングとトム・コートネイは、ベルリン国際映画祭でそれぞれ主演女優賞と主演男優賞を受賞した。
土曜日に、ケイト(シャーロット・ランプリング)とジェフ(トム・コートネイ)は、結婚45周年記念のパーティーを控えていた。
ところが、彼らのその土曜日までの6日間は、ある手紙が届いたことから、45年という夫婦の関係を大きく揺るがしていく。
それは、スイスの雪山で凍り漬けの死体が発見されたという、ジェフに届いた一通の手紙からであった。
雪山で亡くなったのは、ジェフの結婚前の恋人カチャだった。
50年以上も前、ジェフとの旅行でカチャはクレバスに消えたのだ。
ジェフは思わず、妻の前で「僕のカチャ」と呟いた。
夫はそれをきっかけに、若き日の記憶を反芻し始める。
いまはこの世にいない女性の存在への、嫉妬に侵食されていく妻ケイト・・・。
初めて知った事実に心中穏やかでないケイトは、屋根裏部屋でカチャの写真を見つける。
平和な凪(なぎ)の日常を揺るがすように、二人の間にさざなみが立ち始める・・・。
原題は「45YEARS」で、夫婦のこれまでの時間が、ほんの数日で崩れていく過程を観察するように描き出していく。
ふとした夫の無神経に対する、妻の反応は複雑だ。
男と女の恋愛観や結婚観には違いがあり、それが炙り出されていく。
それは、静かだが怖ろしいプロセスだ。
年齢を重ねても、なお愛の亀裂に足をすくわれ、行き場を失う男と女がいる。
じんわりとした感動をもよおす場面が多く、映画としての手法は決して新しくないのだが、夫婦の普遍の愛のかたちを丁寧に描いていて心地よい。
愛の問題は、ここでは人間の生き方の問題だ。
一見馬鹿げているように見える理由で、長い夫婦生活や人生が何であったのか、女性が疑問を持ち始める。
不安は疑念に変わり、やがて不信を招く。
不信が深まると、心が冷えていく。
その心情を、静かに表現するランプリングの演技に迫力がある。
夫は、いまの妻よりも過去の方を見ている。
妻は、ともに時を刻み続けようとしている。
女性の内面の旅を描いた、6日間のドラマだ。
しかし、人間の生活とはこんなにも脆いものなのだろうか。
45年の安定した夫婦の生活が、こうもあっけなく根底から揺らぐとは・・・。
控えめな演出にも説得力がある。
全編、この映画は妻のケイトの視点から語られ、どこか鈍重な夫の存在を見つめるシャーロット・ランプリングの眼差しが怖い。
アンドリュー・ヘイ監督のイギリス映画「さざなみ」は、男女の愛を真正面から取りあげた、正攻法の人間ドラマだ。
映画の終盤、、祝賀パーティーの当日、夫が「君と結婚できたことが、私の人生で最良の選択だった」と落涙しながらのスピーチのあと、60年代に流行した名曲「煙が目にしみる」が再び流れ、二人が踊るクライマックスシーンで見せる妻の、苦い幻滅の表情の、何という悲しさか。
老いと人間の絆の危うさ、はかなさ、愛の孤独を感じさせるシーンは忘れがたい。
名優二人の、細やかで静かな演技も上手い。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「最高の花婿」を取り上げます。
「預言者」(2009年)のジャック・オディアール監督の新作は社会派人間ドラマだ。
フランスに渡った難民と地域住民との軋轢を題材にして、いまの世界の現実感を描いている。
暴力と戦いを捨てた男が、愛のため、家族のために闘いの階段を昇っていく。
カンヌ国際映画祭では、パルムドール(最高賞)を受賞した。
難民問題は、いま世界の大きな焦点だが、スリランカの偽装家族が再生する姿を通して、リアルかつスリリングに描き出している。
スリランカの難民キャンプ・・・。
政府軍と戦い、妻子を失った元兵士ディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)は、偶然会った若い女と娘を、妻ヤリニ(カレワスアリ・スリニバサン)と娘イラヤル(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)に見立て、3人家族を装って、パスポートを偽造し、フランスに逃れる。
難民審査に何とか通った3人は、パリ郊外の集合住宅に落ち着く。
そしてディーパンは団地の管理人、ヤリニは家政婦の職につき、イラヤルは小学校でフランス語を学ぶ日々を送る。
だが、この団地は麻薬の密売組織の拠点となっていて、そのリーダーはヤリニが世話する老人の甥ブラヒル(ヴァンサン・ロティエ)だったのだ。
赤の他人の女と少女とともに家族を装うディーパン“一家”は、ひとつ屋根の下では他人に戻る日々であった。
そんな中で、彼らが幸せに手を伸ばした矢先、新たな暴力が襲いかかる。
すでに戦いを捨てたはずのディーパンだったが、愛のため家族のために、新たなる闘いの階段を昇ってゆかねばならなかった・・・。
サスペンスフルなフィルム・ノワールタッチを得意とするジャック・オディアール監督は、鋭く広く社会を見渡そうとする視点を盛り込んで、人種、宗教、移民問題に揺れる欧州の「今」を鮮やかにに取り込んでいる。
ここには現代社会の縮図がある。
そこにスリングなドラマを紡ぎ、家族というテーマを掲げて、暴力や戦いを捨て、愛のために偽装家族から真の家族の絆を生み出そうとする個の戦いを、パワフルにそして実にスタイリッシュに描いた。
しかし、難民たちは全く赤の他人同士、3人の別人を家族のような絆にというドラマは、かなり無理もあろうというものだ。
人間臭さはリアルに描かれているが、画面構成は、剥き出しの野性味たっぷりで結構荒っぽい。
映し出されるのは、難民、貧困、そして家族・・・。
主人公ディーパンを演じるのは、実際にスリランカの内戦を少年兵として体験し、23年前フランスに逃れてきた元兵士だ。
演技経験もなくフランス語も話さないが、200人以上から選ばれた。
内戦の傷痕を体に残し、感じた痛みが今でも残っているように見える、アントニーターサン・ジェスターサンその人だ。
映画初出演である。
物語後半は、暴力から逃れるために国を離れた3人の生活を暴力が再び襲ってきて、迫力あるスリングな展開となる。
ジャック・オディアール監督は、骨太な演出で人間ドラマを構築していく。
俳優陣の演技は粗削りだが、それだけに作り物ではない現実感が漂っている。
カメラはまるでドキュメンタリーのように、ディーパンやヤリニに寄り添い、そこから、移民が複雑に絡む現代ヨーロッパの構造が透かして見えてくる。
移民たちの内面に迫るドラマが、暴力的なアクション映画に転換する。
フランス映画「ディーパンの闘い」は、絶望的で、根なし草のようなしかし強い男を描いてよく撮れている。
何度でもいう。
暴力から逃れ、暴力に襲われる。
それが現実か。
こんな物語のようなことが、ありうるのか。ありえないのか。
着想は大変興味深い。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はイギリス映画「さざなみ」を取り上げます。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。(夏目漱石「草枕」)
春の文学散歩は、神奈川県立近代文学館である。
文学館わきの満開の桜が、風にはらはらと舞っている。
漱石生誕150年、没後100年とは、月日のたつのは早いものである。
時代、世代を超えて読み継がれる、文豪夏目漱石の魅力に迫る、見どころいっぱいの特別企画展だ。
本展は三部構成で、第一部「作家以前」では作家になるまでの生涯を概観し、第二部「100年目の夏目漱石」ではその作品世界をテーマをもとに紹介し、第三部「漱石という人」では人間漱石の姿を、彼を取り囲む家族や門下生との交流を通して浮き彫りにしている。
漱石は執筆の合間に、書画への関心も高く、それらを含めて作品原稿、遺品、初版本、手紙などの関係資料約550点の所蔵コレクションを軸に、貴重な資料を一堂に集めて、夏目漱石の世界を展観している。
同年の正岡子規に俳句の指導を受け、互いの才能を認め合い、終生親交を結んだ話はよく知られている。
1915年朝日新聞に連載された小説「道草」の、自筆原稿18枚が神奈川県内の個人が所蔵していることがわかり、今回の公開にも間に合った。
漱石の小説の原稿がまとまって見つかることはまれで、原稿のあちこちに見られる書き込みや削除のあとから、文豪の創作の過程をうかがい知ることができる。
それと漱石の短編「文鳥」の原稿も、1908年大阪朝日新聞に連載されたものだが、78年の宮城県沖地震で津波をかぶって救出されたのを機に再発見された。
明治から昭和にかけて、この地に暮らしていた地元の豪商のもとにあったものが、書籍、原稿、書簡など約2万点の中から見つかり、現代に甦ったのだ。
夏目漱石研究者にとっては、垂涎の書であろう。
1911年(明治44年)2月21日付の、文部省専門学務局長福原鐐二郎に宛てた博士号辞退の書簡が目を引いた。
これ、毛筆による格調の高いものと思いきや、実は「漱石山房」と印字された漱石個有の190字の原稿用紙2枚にペンで綴られている。
「私はただ夏目何がしとして暮らしたい」と、丁寧に博士号を辞退する旨の文章が綴られている。
常日頃、つむじ曲がり(!?)とも言われている、漱石らしい気質が表われていて興味深い。
このことについては、1911年(明治44年)2月24日付の東京朝日新聞に詳しい記事が「漱石氏の博士号辞退」として掲載されている。
関連イベントとしては、4月16日(土)作家水村美苗、4月29日(金・祝)漱石の孫夏目房之介の講演が予定されている。
会期中毎週金曜日にはギャラリートーク(無料)もあり、文芸映画を観る会では市川崑監督作品「こころ」(1958年)の上映もある。
そして5月15日(日)には、作家で文学館長の辻原登と女優真野響子の「夢十夜」より、朗読と対談も・・・。
特別展「100年目に会う 夏目漱石」展は、5月22日(日)まで開催されている。
それにしても、夏目漱石は49年の生涯(1867年~1916年)で、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「それから」「こころ」「明暗」など、わずか10年余りの創作活動で幾多の名作を書き上げたわけだ。
漱石は、語り尽くせぬ魅力をたたえた、文豪の名にふさわしい大きな作家だ。
次回はフランス映画「ディーパンの闘い」を取り上げます。
全編三部構成で、上映時間5時間17分という長尺に、演技経験のない出演者たちという、異色の話題作だ。
主要登場人物の無名の新人女性4人が、スイス・ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞に輝き、フランス・ナントの三大陸映画祭では、準グランプリに当たる銀の気球賞と観客賞を受賞した。
海外では、意外に評価の高い作品だ。
濱口竜介監督のこの新作は、監督が神戸で行った即興演技のワークショップから生み出された。
主人公を演じた4人の女性は、濱口監督のワークショップの受講生たちである。
映画は、どこでも見受ける日常生活を切り取った断面を見ているようだ。
内容的には、この半分の時間でも可能なくらいだが、長時間の作品だからといって決して飽きることはない。
神戸に住む、30代も後半を迎えた、あかり(田中幸恵)、桜子(菊地葉月)、芙美(三原麻衣子)、純(川村りら)は、仲の良い友人同士だ。
桜子と純は中学時代からの仲だが、他の二人は30代を超えてから知り合った親友同士である。
彼女たちは、近いうちに有馬温泉に旅行に行こうと、屈託もなく相談し合った。
しかし彼女たちは、それぞれが、誰にも話せない悩みや不安を抱えているのだった。
あかりはベテラン看護師で、後輩には厳しく接するが、4人の中では楽しく話すムードメーカーで、実は夫の裏切りに遭ったバツイチであって、嘘をつかれる関係性を何よりも嫌っていた。
そんな根っからまっすぐな彼女の「明るさ」に、純の突然の告白が影を落とす・・・。
桜子は、思春期の息子を持つ専業主婦だ。
自分の意見を言うことは少なく、いざとなると気持ちを抑えきれない直情的な一面を見せる。
中学生の頃からの付き合いのある夫・良彦(申芳夫)には頼りつつも、意志疎通気味で、不思議なワークショップへの参加を機に心が揺れ始める。
4人の中でも、一番理知的な雰囲気を持つ芙美(三原麻衣子)は、アートセンターのキュレーターをしている。
いつも一歩引いて周囲を見ながら、皆の感情を思いやる。
しかし、編集者の夫・拓哉(三浦博之)と若い女性作家・こずえ(椎橋怜奈)の関係に疑心暗鬼になり、やがて、自分自身の気持ちのコントロールができなくなっていく。
友人を引き合わせるのが好きな「世話好き」で、4人の絆を作った張本人は純である。
気さくな笑顔の裏には深い孤独を抱えていて、彼女の下す結論は、あかり、桜子、芙美の人生を惑わせる。
実は、彼女が1年前から離婚協議中であると告白したことから、さざ波が立ち始める。
4人は、計画していた温泉旅行に出かけるが、その後に失踪する・・・。
4人女性たちは、演技と実生活の半々といった存在感をかもし出していて、日常的なリアリティは高く評価できる。
演技力で巧みに役柄になりきれる、プロの俳優とは違っている。
何とここが、みそなのだ。
最初は2時間半の脚本だったが、撮影をすすめるうちに、実際に演じる彼女たちの姿をフィードバックする感じで変わっていったそうだ。
4人の女性たちの生き方を通して、現在の日本が抱える様々な側面が浮かび上がってくる。
映画のカメラの前に立つ心構えさえあれば、演技未経験であっても、参加を募り、3次にわたる選考を経て、様々な年齢の17人が、ワークショップを通じ、この作品に登場することになった。
大事件が起きるわけではなく、せいぜい離婚騒ぎか、子育ての悩みの程度だ。
特別な誇張や抑制もなく、自然な感情の吐露が、どこまでも自由な空気感を漂わせている。
親友といえども、あるきっかけで、お互いの意思疎通の歯車が狂い始めるのだ。
その瞬間をいかに描き切るかに、この作品が腐心しているかがわかる。
ときに、深層心理の領域にまで入り込んでいるから、作品としての密度は濃い。
濱口竜介監督の作品「ハッピーアワー」には、おやおやと思われるようなシーンは幾つもある。
作品の初めの部分、ワークショップと称する、一種のイメージトレーニングのような場面の長さ、失踪者の状況に何の説明もないなど・・・。。
性的な会話はあっても性的なシーンはなく、会話なのにセリフは棒読みだったり、ややかったるい想いのするシーンもあったりで、ここまで必要とは思わない朗読会の場面も、長かったではないか。
全て、丁寧であればよいというものでもない。
展開的に、スリリングな面もあってよかったが、セリフを抑え気味の映画作品が多いこの頃、逆にこんなにも言葉のやりとりの饒舌な作品もめずらしいのではないか。
登場する女性4人の距離感は微妙に違い、人間関係の網の目が緻密に張りめぐらされている。
だからといって、極端に計算され尽くした演出という印象まではない。
演技経験のない登場人物たちだが、抑制されて語られる言葉は真摯で真実味を帯びるから不思議だ。
ともあれ、女性が抱く悩みと友人たちの心の機微を描いたこの作品で、三大国際映画祭に次ぐ祭典で日本人初の快挙とは喜ばしい限りだ。
彼女たちの受賞は、よもやフロックではなく正真正銘の力量だ。
余談だが、4人の女性たちは関西在住で、映画やテレビ出演の経験はなく、全くの「素人さん」で、今後も女優としての活動予定はないそうだ。
映画は確かに魔法みたいなところがあるし、そこにいつも新鮮な驚きを発見することが多い。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)